これは私のジープ病闘病記です

万歳!「ジープ病」

1.ジープ病のルーツ(平成8年1月)

 いつの頃からか、私の心の中に「ジープ」という言葉が入りこんで、どっかりと根をおろすようになった。
 「ジープ…ジープ…」と呪文のようにくりかえす。

 私はなぜこんなにジープにひかれるのだろう。
 「ジープタイプ」の他の車ではだめなのだろうか?こんな自問自答をくりかしたが、いくらカタログを見ても実車を見ても、ジープ以外は所有する気がおこらない。
 フルオープンになるジープ以外は目に入らない。「ジープが欲しい…、ジープが欲しい…」これこそまさに「ジープ病」。ジープの愿風景

 「ジープ病」が発症する少し前に社会に出た私は、就職先の会社で仕事上ときどきジープに乗る機会があった。
 当時の記憶をふりかえる。このジープはガソリンエンジンの総鉄板製で、コラムシフトの5人乗りであった。

 後部ドアは観音開きで、屋根には木製のスノコを張ったキャリアが特設されていた。
 運転席は着座位置が高く、少し傾くだけで横転するのではないかという恐怖感を覚えた。

 当時ラジアルタイヤのFF車に乗っていた私にとって、バイアスの下駄山タイヤは直進安定性が悪く、まっすぐ走るのに一苦労した。

 四駆への切り替えも硬くて大変てこずった。
 ある冬、榛名山中の雪道で4輪チェーンにもかかわらず、あっけなく亀の子になってしまった。
 同僚と二人で大汗をかいて掘り出した。

 記憶をさかのぼって小学生の低学年の頃、親戚の自動車屋の整備士に左ハンドルのジープに乗せてもらった。
 ドライブの途中、前の車がノロノロ走っているのにイライラした私は、思わず足をのばしてジープのアクセルを踏んだ。

 アクセルを踏んだのかアクセルに乗っていた整備士の足を踏んだのか定かではないが、今思うと恐ろしいことをしたと思う。
 幸いなことに私の足の力が弱かったのか追突事故にはならなかったが、こっぴどく怒られたことは言うまでもない。

 私の記憶をさらにさかのぼる。
 小学校入学前の頃、自衛隊の将校であった叔父さんがジープに乗ってきてわが家に宿泊した。
 路上においてイタズラでもされたら一大事とばかりに、門の引き戸と敷居がはずされて、ジープはのっそりと玄関前に入ってきた。

 門の幅は恐らく一間(180cm)で、高さも180cm少々であったと思う。
 幌を外したような記憶がないことから、ギリギリで何とか入ったのであろう。
 余談ではあるが、ジープを運転してきた兵隊さんは大変背の高い男で、襖の隙間からこっそりのぞくと蒲団から足首が出ていた。

 ジープにまつわる思い出はだいたい以上のようなもので、たいしたものではない。
 しかしこの中から私の「ジープ病」のルーツを探るとしたら、やはり原始体験とも言うべき自衛隊の「門外しジープ」であろう。

 幼稚園児であった私は、恐らく玄関前に鎮座したジープを舐めるように見ていたに違いない。
 中をのぞき込み、あるいはこっそりと運転台によじ登ったのかも知れない。

 そのときの記憶が私の脳裏に焼きついて潜在意識となって潜伏し、ある日突然に発病したのだ。
 げに恐ろしきは「ジープ病」!

2.ジープ病の発病(平成8年1月)

 私の「ジープ病」は20年ほどの潜伏期間を経た後、昭和52年頃から徐々に発病した。
 しかし当時の家族構成と経済状態から、ファーストカーやセカンドカーとしてジープを所有することはできなかった。

 仕方がないので泣く泣くレオーネの四駆バンにした。
 そしてジープのまねごとをしてはあちこちをへこませた。

 以来18年、何台かの車を乗りつぎ、現在はレガシーの四駆セダンに乗っている。
 その間、東の展示場にジープがあれば飛んで行き、西の中古車屋に出物があるとかけつけるという状態が続いた。

 買えるわけでもないのに、ジープがあると思わず立ち寄ってしまうというのも、「ジープ病」の症状の一つである。

 しかし中古ジープは結構高く、程度の良いものが少ない。
 値段の安さに思わず立ちよってみると、遠目には若々しく見えたのに、近くで見ると20歳の大年増ということがよくあった。

 そんなことを繰りかえしているうちに、私の「ジープ病」は加齢とともに終息に向かうかのように思えた。

 あれは忘れもしない平成7年4月16日、たまたま休日出勤をした私は、通勤途上の国道17号ぞいにある、三菱ディーラーの中古車売り場にジープを発見した。
 いつものように車からおりて検分にとりかかる。

 車種はJ53で、年式は平成4年2月。
 3年落ちである。
 走行距離はたったの4,200Km。
 スペアタイヤは未使用で、履いているタイヤもほとんど減っていない。

 右後部かどに一部へこみがあるが、下まわりに擦過傷もなく、まさに新品同様。
 とくに荷室床面、タイヤハウスの上部は、使用したなりに細かい傷がつきやすいものだが、ほとんど傷らしい傷がない。再塗装車かと疑うほどであった。

 各部の錆もほとんどない状態からして、屋根つきの駐車場もしくは車庫での保管がうかがわれる。
 問題の値段は車検付きで123万円。
 この値段が高いか安いかは読者諸兄におまかせするが、私としては今までこれほど程度の良い中古ジープにお目にかかったことがなかった。

 小康状態であった私の「ジープ病」は、一気に劇症となった。
 休日出勤したものの、その日はほとんど仕事にならなかった。
 まず金策に日ごろあまり使用されない頭脳が高回転する。
 そして多少無理をすれば資金繰りのメドがつくという結論を得てから、おもむろに愚妻に電話した。

 私「二度とお目にかかれないようなジープの出物があったので買いたいと思うが。
 いや買うことにした。123万だが何とかなる。
 年齢的にも最後のチャンスだし…」
 愚妻「…。臨終のときに、ジープ…、ジープ…なんて言われてはかなわないから、お父さんのいいようにしたら?」

 午前9時を過ぎると、さっそくくだんのディーラーに電話を入れ試乗を申し込む。
 長めの昼休みをとって、ディーラーの構内で試乗した。
 久しぶりに乗るジープは、やはり何とも御しがたい代物だ。

 熱病に冒された脳裏に、こんな厄介なものを買いこんで本当に良いのだろうかという、理性的な疑問がちらりと浮いては消えた。

 私はかなり広いディーラーの構内をグルグル走り回った。
 あまり試乗が長いので、けげんに思った担当のセールス氏が様子を見に来た。
 新車の納車点検のふりをして、こちらの様子をうかがっている。
 しかしそのときには、私の心は決まっていた。


3.53の過去(平成8年1月)

 私のセカンドカーとなった53の過去を推理してみた。
 前のオーナーは、会社の名義で53を所有していた。
 しかし状態の良さから、業務で使用していたとは考えられない。
 バブル経済と四駆ブームに乗った二代目経営者が、興味本位でセカンド・カーとして購入したに違いない。

 趣味の車の証サイドリフティング・ハンドルグラブバー拠として、53にはグラブバーとサイドリフティングハンドル、それにディーラーで取り外されてはいたが、アルミ製のサイドステップが付いていた。

 カタログコピーと4WD雑誌の記事をうのみにして買ってはみたものの、最新の乗用車とのあまりの違いに、次第に53から足が遠のいていったのだろう。

 それは3年間で4,200Kmという走行距離が物語っている。
 もちろん排気ガス規制の問題が大きいだろうが。

 4,200Kmについては、直接下取りをした千葉のディーラーが書類に記録を残しているので、まずまちがいないだろう。
 また距離が短くても、オフロードで酷使した場合もあるが、下まわりに傷がないということでその心配もない。

 ただ今にして気になるのは、両側のドア幌布の、幌骨に当たるところで少しすり切れていて小さな穴があいていたことだ。まか不思議な穴

 確かにここは、走行中のバタツキですり切れやすい。
 しかし4,200Kmくらいで、たとえ小さいといえども穴があくものなのだろうか。
 新品から3年経過した幌の経年変化がどれほどのものなのか定かではないが、車体の状態と幌の状態がややアンバランスのような気もする。

 風洞実験でもしたのだろうか?
 あるいは、下に出すときに知人のジープのために新しい自分の幌と交換してやったのだろうか?
 それとも自然の経年変化なのだろうか?
 全てを信じたいと思いつつも、53の過去のこのささいな疑惑だけは未だに晴れていない。


4.53のえくぼ(長所)(平成8年1月)

 平成7年5月、ゴールデンウイーク直前に納車された我が53は、平成8年4月現在でおおむね1年になる。
 入手して以来の走行距離は6,000Kmであるが、通勤には使用しないためあまり伸びない。
 この間に気がついた53のえくぼについて書いてみたい。

 まず乗り心地であるが、悪い割には長距離を走っても意外と疲れない。
 原因をあれこれ考えてみた。
 固定シートの形状、材質、ポジションが絶妙であるとともに、ひざから下を垂直におろせる運転姿勢が背中や腰に負担をかけず、その結果疲れが少ないのではないか。

 それに比較して以前に乗っていたレオーネバンは、タイヤをやや太くしたという改悪はあったものの、当時の若さでも200Km走ると首から肩が張ってどうにもならなかった。

 一般の乗用車でも、500〜600Km走ると、体全体がグッタリするものである。
 乗用車は着座位置が低いため足を前に投げ出すような運転姿勢となり、背中や腰に負担をかけ、各部の血行を悪くすることが全身疲労の原因であろう。

 次に、ジープに乗ると腹が減る。
 この原因はジョギングに匹敵するほど内蔵をゆすられるからであろうと思う。
 以前アマチュア無線に熱中していた頃、一日中しゃべっているとそれだけで実に腹が減った。
 しゃべると言う行為もけっこう腹筋を使うものだ。

 ましてラフロードでは、体全体がガラガラとゆすられて内蔵がおどり、腹筋は大活躍だ。運転席で体操をしているようなものである。
 おかげで私の脂肪肝もこの一年ですっかり治ってしまった。

 夏涼しく冬暖かいとは、まさに白い幌のわが53のことを言う。昨年の夏は猛暑であった。
 その真夏の炎天下の河原で半日を過ごしたことがある。

 53を水際から3m程離れた所に止め、鯉の投げ釣りのセットを仕掛けて運転席で待機する。
 ドアを外し後部の幌を巻き上げただけであるが、心地よい朝まづめの川風が通りぬけていく。

 1時間に1回の間隔でエサを打ち返し、待つこと7時間。真夏の太陽はほぼ頭上に位置し、温度計の目盛りはおおよそ37℃を示していたであろうそのときでも、私は平然と53の運転席でくつろいでいた。

 次に昨年の冬の話。
 寒気団がしばし南下し、低温注意報が出されるような日が何日も続いた。
 私の住んでいるところは北部を除いてあまり雪は降らないが、からっ風が吹いて結構寒い。
 昨年は4輪チェーンを買う予算がなかったので山間部には行かなかったが、路面が白くなるあたりまでは時々出かけた。

 そのときもヒーターのブロアーモータースイッチを「強」にしたことはない。
 「弱」でも暑くて窓を開けるほどだ。
 大型ドライヤー並みの熱風が、足元とサイドダクトから吹き出てくるからだ。窓を開けて走ると頭寒足熱で、野外のコタツにあたっているようで気持がよい。優れものの幌
 
幌というのは大変な優れものだ。ペラペラのバタバタの頼りないような代物であるが、熱を遮り風を防ぎその上軽く、コンパクトにたたむこともでき実に理にかなっている。

 最後に小物類について少々。まず筆頭はシンプルな防水5眼メーター。
 まだ水をかけたことはないが、オープン走行時突然の夕立が気にならない車はそうザラにはない。

 私はバイクに10年ほど乗っていたが、バイク並みの防水メーターにはしびれている。
 そしてそのメーターを外部ランプで照明する仕組みが、また何ともジープになくてはならない5眼メーターいえない。

 灯火管制下での作戦を考慮しての構造(?)と思われるが、釣行の深山でジーゼルエンジンのアイドリングの振動に身をまかせ、タングステンライトに照らされたこのシンプルなメーターを見ているだけで、スキットル1本のウイスキーと共に一晩過ごせるような気がすると言ったら、ちとオーバーか?一所懸命働くワイパー

 次にワイパー。
 小さなワイパーがコチョコチョ動く様は笑いをさそう。
 上にかきあげた水がダラダラとたれる状態はあまり効率的とは言えないが、私はなぜかこのワイパーを作動させるのが好きで、雨の日もいとわない。

 効率追求の世の中で、あまり効率的でないものがまじめに働いている様子を見ていると心がなごむ。私のような人間が多いとジープは進化しない。


5.初めてのフルオープン(平成8年1月)

 53を初めてフルオープンにして走行したときの様子は、今でもはっきりと覚えている。
 月並みな表現で恐縮だが爽快そのものであった。
 季節も5月の新緑の頃とあって、かぐわしい風を思うぞんぶんに浴びて走り回った。

 バイクと違って片手があいているので、清涼飲料水を飲みながら峠道を気楽に飛ばすこともできる。
 あるいは杉木立の狭い林道を、馬の背にゆすられるがごとくガタゴトとゆっくり走るのもよいものだ。
 ドライブと森林浴が同時にできて気分は満点。
フルオープンは最高
 そして、フルオープンのジープは実に美しい。
 その機能美はいつまで見ていても飽きがこない。
 かつてブルース・リーが、見せ場のシーンになると必ず上半身裸になって、格闘するだけに必要な引き締まった筋肉美を披露したものだが、ジープもまた同じである。
 ジープはフルオープンのときにはじめて本来の姿になる。


6.改造(平成8年1月)

 私は、体力的に運転が無理になるまでこの53に乗っているつもりだ。
 だから改造もボチボチやろうと思う。とりあえずステップを外し、はな面にCCVのステッカーを貼った。
 初めてのオプション部品  トウフック430MHzのオールバンドトランシーバーをグローブボックスに押しこみ、アンテナをスペアタイヤのハンガーにブラケットを介して取り付けた。

 ウインチは当分買えそうもないので、せめてと思いトウフックをつけた。
 当分自力で脱出不可能になりそうな難所は控えよう。
 次のタイヤはミシュランXCLかグッドイャーG90にしたいが、その前に一度下駄山を履くのも悪くない。
 近頃はタイヤもホイルも細身のものが少ないので選択に困る。

 それよりなによりも走りこむことだ。
 いろいろな山道、地形にチャレンジしよう。
 そして山菜取り、渓流釣りの足としても大いに利用しよう。
 どうやら今年も楽しくなりそうだ。
 万歳!「ジープ病」


7.長距離ランナー(平成9年10月)

  ジープは本来、長距離走行用には設計されていないという記事を読んだ。
 燃料タンクの容量その他の仕様により、確かに近距離用という思想がうかがわれる。

 燃料タンクの容量もさることながら、少し走り出したとたん直感的に乗った誰しもがそう感じるであろう。
 私も購入当初はそう思っていたが、使っているうちに実感から考えが変わってきた。

 話が少々堅苦しくなって恐縮だが、ここで「長距離走行」ということについて考えてみる。
 今まで車に関する書物を多少読んだが、「長距離走行とは何Kmからである」という明確な記述にであった記憶がない。

 そこで、まず燃料タンクの容量から考えた。
 53の燃料タンクは45リットルである。
 私の53は1リットル当り平均13.2Km走るから、1回の燃料補給で594Km走れる計算になる。
 しかし、本来のガソリン車なら1リットル当りせいぜい7Kmくらいであろうから、315Kmとなる。

 もう1台のレガシーは60リットルの燃料タンクを装備し、1リットル当り平均7.4Km走るから444Kmとなる。
 レガシーは若干燃費が悪いが、一般的な乗用車ならおおむね500Km前後か。

 つまりそれぞれのクラスの車にとって、燃料を満タンにした後に補給せずに走れる最長距離以上を、「長距離」の目安と考えてみた。

 一方時間の面から考えた。
 わが国の最近の法定労働時間は、平均1日8時間である。
 それを5割上回る12時間働いたとしたら、かなりの長時間労働といえるのではないか。
 一般道での平均時速を40Km(パソコン地図ソフトの例)として、12時間走ると480Kmとなる。
 以上二つの面から考え、一般道において正式な睡眠を取らずに走る24時間以内の距離の合計がおよそ450〜500Kmを超えれば、「長距離走行」といえるのではないか。

  さて、私のジープによる長距離走行の話であるが、実例として釣行の話になる。
 私は昨年から海釣りを始めた。
 新潟県新潟市五十嵐漁港から船に乗り、沖合20分程の船釣りである。

  私の住んでいる所から五十嵐漁港までは、片道約240Km。
 関越高速を使えば3時間の距離にすぎないが、一般国道を走ると6〜7時間ほどかかる。
 今までに10回行ったが、高速を使ったのは同行者がいた3回だけ。
 残りの7回はすべて一般国道を走った。 

 前記したが、私は平成元年登録のレガシィ4WDセダンと、平成4年登録の53を所有している。
 通勤や年老いた両親、あるいはあまり親しくない知人を同乗させる必要がある場合はレガシィを使用するが、それ以外は家族で出かける場合もほとんど53である。
  従って片道240Kmのこの海釣りにも53で行く。

  そのときのスケジュールは次のとおりである。
 我が家を13時に出発し、国道17号、8号、116号を経由して、20時頃五十嵐漁港に到着する。
 漁港付近の釣り道具屋で、氷や仕掛け、釣り情報を仕入れた後、22時から用意を始め、23時30分に乗船・出港する。
 この間に仮眠をこころみるが、興奮のため眠れたことはほとんどない。

 出港後20分ほど航行して釣りの開始となる。 
 釣りは遊びとはいえ結構な重労働である。
 10本バリのサビキの仕掛けに太ったアジが鈴なりになると、上げるだけでも相当力がいる。

 サバなどがかかれば暴れまわるので、おまつりにならないようにするだけで骨が折れる。
 釣れなければ釣れないで、竿をあおったりしゃくったり、またけっこうな運動である。

  この作業は翌朝4時に終了し、すっかり明るくなった港に4時半帰港。
 53に荷物を積み込み5時に出発。
 途中30分程仮眠を取りながら12時頃自宅へたどり着く。
 これが23時間におよぶ、私の海釣りの行程である。

  一般国道を240Km走行後5時間の漁業に従事し、ほぼ徹夜の状態で再び240Kmを走行するというのは、私のドライバー歴の中でもかなりハードなスケジュールである。
 ましてジープではと思われがちだが、これが不思議と疲れない。

 実は53の幌修理のために、レガシーでこの一般国道コースを走ったことがある。
 エアコン、オートマチックで最初のうちは快適である。
 ところが160Kmも走ると運転が飽きてくる。

 特に体調が悪いわけでもないのに、体が何となくグッタリ(ショックのヘタリの影響は考えられるが)する。

 そして、この先まだ80Kmもあるのかとうんざりする。
 ガタガタ、バタバタ、排気ガスを浴びながら走る53のほうが疲れないとはどういうことか。
 いくら好きでも、気合が入っていても、回数が重なれば疲れるものは疲れるはずだ。

 これは私だけの感想ではない。
 一度だけ親しい先輩をこの釣行に招待したときのことである。
 その先輩の後日談によると、「やっとの思いで助手席によじ登って100mも走り出すと、この先往復500Kmも体が持つだろうか!? という恐怖感に襲われた」という。

 このとき往きは一般国道で帰りは高速を使用したのであるが、それにしても、徹夜の釣りとジープによる500Km走行は経験しないと不安である。

 しかし結果は意外であった。
 翌日、自宅前で53から降りる間際に「全然疲れなかったよ!」と言ってくれた先輩の言葉は、社交辞令としても過分である。
 この日先輩は「ジープ病」に感染したのだろうか?
 げに不思議な「ジープ病」である。


8.キャンピング・ジープ(平成10年4月)

 これまでの私のキャンプは、小型山岳用テントを用いた非常に軽量コンパクトなものである。
 家族5人の装備が、セダンのトランクに納まってしまう。

 ましてや、一人旅のときは推して知るべしである。
 しかし53を購入して以来、一人旅のときは53の中で快適に寝泊りできないものかと考えた。

 設営がきわめて簡単なドーム型テントではあるが、それでも雨の日などは何かと面倒である。
 よく見れば、53はエンジンがついたテントそのものである。
 しかも高床式で、豪雨の場合も床上浸水の心配がない。

 まずは運転席を持ち上げ、助手席をたたんで寝袋を広げてみる。燃料タンクの上に足をのせて、荷台ななめに横たわると何とか寝られないことはない。マットでも敷けば更にましにはなるが助手席を上げれば荷台はベットにそれでも芸がない。

 あれやこれや考えあぐね、ホームセンター回りをしているうちに、大変あんばいの良いものを見つけた。

 それは黒と緑のツートンカラーの、ビニールレザー張りの座イスである。
 車のシート風で見栄えも良く、大変軽い上に値段も安い。
 寸法的にも53の荷台に二つ並べてなんとか収まった。

 一人旅のときは、これを一つ積んでいくと実に具合が良い。
 たいらにして荷台の対角線上に置くと、助手席の燃料タンクと面が合って大変快適なベッドになる。
 身長165Cmの私は、完全に体を水平に横たえられる。
 
 快適に眠ろうとした場合、体を水平にできるか否かは大問題である。
 いくら良くできたフルフラットシートといえども、多少のデコボコはあるものだ。

 その他の装備として、ブタンガス仕様のストーブとランタン、寝袋、飲料水、食料と少々の食器類を積み込めば、キャリアゲートは格好な調理場ンピング・ジープの出来上がりだ。

 ジープは車内に平面が多いので、実に便利である。
 タイヤハウスは調理台兼食卓、燃料タンク上は荷物置場、荷台の扉はストーブ置き場兼洗い場である。

 「ものぐさ太郎」ではないが、荷台の真中に陣取ってちょいと手をのばせば何でも間にあう。
 荷台の扉など鍋の汁がふきこぼれようが、たらそうが、水をザバッと流せば世話がない。
 まさにジープは万能車であると感激した。

 しかし、現時点におけるマイナス面を少々。
 天幕に映った、朝の太陽のやわらかな木もれ日による目覚めは、テントによるキャンプの捨てがたい魅力である。
 日常生活から切り離された、心地よい別の空間を発見する。

 それにくらべキャンピング・ジープによる目覚めでは、寝ぼけまなこに飛び込む、幌骨、パイプ、鉄板、レバーなどの武骨な装備により、「ここは戦場か?工事場か?」という錯覚にとらわれることがある。

 また、人間臭さがただよう市街地付近での野営では、遠くにチラチラ見える人家の灯りを見ながら「おれはホームレスか?」という哀愁に襲われたこともあった。
 修行が足りないのか軟弱なのか、私のジープ病はまだまだ悪化の余地がありそうだ。


9.結婚20周年記念イベント・カー(平成10年7月)

 私は今年で結婚20周年を迎えた。
 20年前の新婚旅行は、車で北海道(東京〜北海道間はフェリー)に行った。
 そこで現在、結婚20周年記念イベントに、再びジープによる全行程2,529Km、6泊7日の北海道旅行を計画中である。

 宿泊予定地は、青森県十和田湖、北海道函館市の大沼、支笏湖、かなやま湖、ニセコ五色温泉、青森県恐山温泉である。
 1日の最長走行距離763Km、最短走行距離187Km、平均走行距離361Km(一部フェリー区間72Km)の、ジープ旅行である。

 ただし、この記念イベント参加者は私と愚妻のみ。
 その間3人の子供は、私の両親もしくは愚妻の実家に預けられる運命にある。
 その理由は、子供が誰も行きたがらないからである。

 なぜなら宿泊予定地から推察できるように、ほとんどの宿泊は野営(キャンプ)を予定しているからだ。
 近頃の子供は、野営旅行による難行苦行などまっぴらごめんである。

 というと聞こえが良いが、子供が同行を強く希望したらレガシーセダンで行くかというとこれがまた難しい。
 本音は、とにかくジープで行きたいのである。
 「結婚20週年記念」というカンムリをつけて休みを取って、ジープで走って走って、ヘトヘトになるまで走りまくりたいだけなのだ。
 たとえ一人でも行くぞ! げにわがままな「ジープ病」!


10.:結婚20周年記念イベント計画(平成10年7月)

 53による「長距離走行=結婚20周年記念=北海道旅行」という図式が私の脳裏に浮かぶようになったのは、一年ほど前からである。

 結婚10周年のときに、新婚旅行で行った北海道へ再び行こうと話し合いながらも、結局実行できなかった思いがくすぶり続けていたのだ。

 旅行計画用のパソコン地図ソフトを購入したの正月休みであった。
 スタートとゴール地点をマークすると、数十秒で最短時間の走行ルートを検索してくれる優れものだ。
 これを使って計画を立てた。

 まず宿泊予定地をキャンプ場で検索し、その中から温泉と湖が近い場所を選ぶ。
 ホテル・旅館・テントと、どこへでも泊れる体制だ。
 湖にこだわるのは、釣が好きなせいかどうも水面がないと心が落ち着かないのである。

 初日と最終日は一日で走りきる最長距離を設定した。
 フェリー乗船区間は最短とし、北海道内はできるだけ山間部を走行する。
 愚妻にとって不幸なことに、私はグルメや都市部の観光にはまったく興味がない。
 できることなら原野や林道ばかりを走り回りたいのだ。

 こうした私の思惑にしたがって、6泊7日の旅行計画はコツコツと半年がかりで立てられた。

 53によるこの計画には、もとより3人の子供の同伴は入っていなかった。
 乗車定員をはじめ、1日の走行距離・走行場所はまったく子供向きではない。
 しょせん親子は遠からず別々の人生を歩まねばならない。
 親離れ、子離れの良い機会であるなどと屁理屈がつけられた。


11.結婚20周年記念イベント実行前夜(平成10年7月)

 桜が散り新緑の季節が終わり、いつ明けるとも知れないような長梅雨がやっと終わりを迎えるころ、実行の機会がやってきた。
 今年は正月よりの半年余り、好きな釣りに一度しか行けないほど多忙であった。

 その忙しさにも何とかメドが立ったのだ。
 休暇期間は世間一般の夏休みより一足早い、7月25日(土)〜8月2日(日)に決定した。

 会社の実態から、9連休を取るのは少々勇気がいる作業である。
 今までは5連休がせいぜいであった。
 7月に入るとすぐ「実は結婚20周年なので…」と上司に神妙な顔で申し出て、このハードルを何とかクリアーする。
 部下の間にもそれとなく話を流して雰囲気づくりにつとめた。

 その結果、私の北海道旅行は周囲にしっかり認知されることになった。
 ただしその交通手段について、「ジープ」という固有名詞は一言も語られることはなかった。
 周囲へのジープ病の発覚は、私のもっとも恐れるところであるから…。


12.爆走3,000q(平成10年7月)

7月25日(土) 晴れ
 いよいよ出発の朝がきた。
 今日は十和田湖までの600qあまりを走る予定だ。
 6:30 両親と子供たちに見送られて出発する。
 夜来の雨も上がり、あたりが朝日によって金色に輝いている。
 土曜の朝ということもあり、交通量もさほど多くない。
 順調なすべり出しだ。

 窓のフィルムをおろし、前面のベンチュレーションを全開にする。
 上半身に涼風をあびるので、真夏ではあるが少しも暑く感じない。

 8:30 佐野インターより東北自動車道に入る。
 ここから長い高速道路の旅の始まりだ。
 53にふさわしい旅とは言いがたいが、53とは良路であろうが悪路であろうが、どこまでも共に走り続ける覚野を越え山を越えひたすら走る悟を決めたのだ。

 巡行速度を80qにとる。
 右腕を窓枠にかけ、ゆったりとした気分で走り続ける。
 映画「イージーライダー」のツーリング・シーンが脳裏に浮かぶ。
 4DR6型ディーゼルエンジンの規則正しい鼓動、幌のバタツキ、顔に当たる涼風、ロードノイズまでもすべてが心地よい。
 そして、次々と展開される景色を見ていると、時間のたつのさえ忘れてしまう。

 フワフワとした白い綿をちぎったような雲を見上げ、キラキラ光る川を何本も渡り、悠然とした山々をあとにしてひたすら走りに走った。

 18:00 目的地の十和田湖に着いた。
 目の前に広大な湖が広がる。
 湖沿いの道の反対側には清潔そうなキャンプサイトがあり、すでにかなりの数のキャンパーが夕食のしたくをしているのが見えた。
 休息のために我々は、ホテル街そばの湖が見える駐車場で停車した。

 車を止めるや否や一人の自転車の老人が近づいて来た。
 「だんなさん、いいお宿がありますよ。ご予算はおいくらですか?」
 満面笑顔で、もみ手・すり手の老人のもの腰は低かったが、百戦錬磨のしぶとさが感じられた。
 私の脳裏に先ほどの清潔そうなテントサイトがチラリと浮かんで消えた。

 確かに今回の旅にはテントと寝袋を用意してきた。
 しかし日頃より、たまには愚妻に温泉でのあげ膳すえ膳の思いをさせてやりたいとも考えていた。
 私はこの老人の言葉を天の声と受けとめ、彼の自転車のあとに従った。
 本日の走行距離653q。


7月26日(日) 晴れ
 7:40 十和田湖を出発する。
 景勝地奥入瀬渓流沿いの十和田道を経由して、一路下北半島は大間に向かう。
 今回の旅は極力陸路を使う予定である。
 地図で見ると大間崎は本州最北端の地である。
 荒涼とした風景を予想していたが海岸の路沿いには土産屋がひしめき、大変にぎやかであった。
十和田道
 大間発16:10の函館行きフェリーに53とともに乗り込む。
 フェリーのフェリーに乗り込む内部は天井が高くガランとしていた。
 車両が一列になって乗り込む様は、戦争映画で見た上陸用舟艇のシーンを思い出す。

 船室での退屈な40分に比べ、函館に上陸するときの気分は高揚していた。
 たぶん他の乗客もそうなのであろろう。
 フェリーのゲートがガラガラと鈍い金属音を立てておりきると、各車脱兎のように函館市内に消えていった。

 国道5号沿いの赤松並木を通って、目的地の大沼公園に到着したのは18:40であった。
 北海道内を走る車の平均速度が早いのには、今回もさっそく驚かされた。

 大沼公園に来る間、70qで走っていても邪魔にされる。
 追い立てられるようにして速度計は80qを示している。
 それでもときどき追い越しをかけられることがあった。

 大沼公園は函館近郊にもかかわらず大変閑静なところで、大小複数の沼で構成されている。
 小大沼公園さい沼にはスイレンが繁茂し、ときどきウシガエルの不気味な声が響きわたっていた。

 この日はガイドブックで知った、オーナーの趣味がバイク・スキー・釣の、ペンション「風」に宿泊した。
 オーナーとはバイクや釣の話に花が咲いたが、驚いたのは私の勤務地に彼がかつて1年半もいたことがあるというくだりであった。
 何と世間はせまいものだ。
 ここまで来て地元の話が出るとは。

 たまたまこの日は界隈の夏祭りとあって、花火の爆音が夜の9時過ぎまでとどろいていた。
 本日の走行距離228q。


7月27日(月) 晴れ
 8:30 大沼公園を出発。
 海の景色を楽しみながら国道5号を走る。
 内浦湾に面したこの国道沿いには、蟹の土産屋が多い。
 子供との約束に「蟹の土産」という項目があった。

 その約束を果たすべく一軒の土産屋に入ってみたが、蟹と名がつくものはどれもこれも結構よい値段である。
 地元の人はどこで蟹を買っているのだろうか?
 愚妻との会話の中で素朴な疑問が浮上した。

 その結論より町の魚屋をさがすことになり、さらに魚屋の情報を仕入れるために腹ごしらえもあって鮨屋にとびこんだ。
 勘定を払いながら鮨屋の女将に、「国道に蟹屋さんがたくさん並んでいますが、地元の人もあそこで買うのですか?」と用意した質問をしてみた。

 女将はニヤリと笑うと、「地元の人はあまり買わないですね」と遠慮がちに言った。

 新鮮な蟹を土産にしたいのだと言うと、女将は捕りたての毛蟹を宅急便で送ってくれると言う。
 さし出された名刺を見ると、なんと美人の女将は地元水産会社の社長でもあった。

 予想もつかない物事の展開とはまさにこのことだと思った。
 だから人生は面白い。さっそく住所・氏名を告げて宅配便の手続きをした。

 子供との約束にメドをたてた後、国道37号を経由して洞爺湖に到着する。
 洞爺湖は洞爺湖畔にて予想以上に大きい湖だ。
 かなりの時間をかけて一周してみたが観光客もまだ少なく、湖の周囲は静寂を保っている。
 岸辺の近くで、湖を背景に53と共に記念写真を何枚も撮った。

 国道453号、276号を経て目的地の支笏湖へ到着したのは17:10。
 ここも大変に広い湖だ。湖沿いの道を走っていると海岸と錯覚するほどだ。

 混雑するキャンプ場を横目に、丸駒温泉旅館へ直行する。
 駐車場は満車に近かったが、かろうじて部屋が取れてほっとする。
 すっかり温泉づいてしまった。

 お茶を入れに来たお姐さんの話を聞いて驚いた。
 妹が私の居住地より10q程のところに嫁いでいて、そこに行ったことのある彼女は周囲の様子をよく知っていた。
 また地元の話に花が咲くとは…。
 世間がますます狭くなった。

 露天風呂から見る支笏湖は雄大だった。
 霧が周囲の森林に垂れ込め、神秘的な雰囲気をかもし出していた。
 眼下の桟橋にはクルーザーが係留されている。
 こんなクルーザーで毎日釣ができたらどんなによいだろうか…。
 ひとしきり夢を見た。
 本日の走行距離274q。


7月28日(火) 雨
 8:30 支笏湖を出発する。
 朝から雨が降っていた。
 国道276号を苫小牧より国道235号へと進み、門別町で国道237号に入る。
 別名「日高国道」をひた走り日高町を通過すると、道は「富良野国道」へと名前が変わる。

 ラベンダー畑は天国の入り口か富良野と言えばラベンダー畑とドラマのセットとくるが、ラベンダー畑だけはぜひ見たいと言う愚妻の申し出により、雨のラベンダー畑に立ち寄った。

 森林を切り開いた広大な花畑は、一面薄いアズキ色のラベンダーで埋めつくされていた。
 その前で私は、天国のお花畑を垣間見たような錯覚に陥った。

 本日は金山湖周辺に宿泊する予定だったが、新婚旅行で宿泊した然別湖まで足をのばすことにした。
 しかし、かつて宿泊した湖畔の小さなホテルは、当時の面影がまったくない高層ビルに変身しており、しかも満室で泊ることができなかった。
 しかたがないので、その先の糠平温泉に宿を取った。17:00 到着。
 本日の走行距離364q。

7月29日(水) 晴れ
 8:30 糠平温泉を出発する。
 国道273号を進むが、しばらくの間は見わたす限りの直線が続く。
 いかにも北海道の道である。
 とある大きなフキの葉が茂る日当たりの良い切り通しの斜面に、1頭の鹿がいた。
 35mm広角撮影で豆粒のシカ何やら草を食んでいる。

 さっそく53より降りて写真の撮影にとりかかる。
 望遠レンズの故障により、広角35oで撮った鹿はマメツブの様だったが、良い旅の記念になった。

 やがて国道は39号となる。国道沿いの観光案内板によると、大雪山麓の層雲峡は景勝地らしい。
 せっかく来たのだからと滝を見物することにした。
 大勢の観光客の頭越しに、はるかに流星の滝と銀河の滝見上げる岩山の合間から、「流星の滝」「銀河の滝」の二筋の白い流れがほとばしり落ちていた。

 上川町のあたりの山中で突然の渋滞に遭遇する。
 対向車の情報では事故らしい。
 地元の何台かの車は右手に消える林道に入っていく。
 迂回路か!?
 林道なら待ってましたとばかりに、無謀にもそれらの車のあとについて行く。

 しばらく雨が降らなかったとみえて、5m先も見えないモウモウの砂埃である。
 5分ほど走ると、突然視界が開けて見渡す限りの丘陵地帯に出る。
 道は舗装路となりやがてT字路につき当たった。

 驚いたことに、先行車はそのT字路をバラバラと右に左に曲がって行った。
 一体どちらへ曲がったらよいのか、思わぬ事態の展開にうろたえた私は、その後どのようにして再び国道39号にもどったのか記憶がない。

 人家も無く、持参した地図にも記載されてない丘陵地帯のやけに立派な舗装路を、方向感覚だけをたよりに1時間ほど無我夢中で走り回ったのである。

 旭川から道央自動車道にのる。
 一気に札幌まで南下し、国道230号から羊蹄山の麓の国道276号をニセコへ。
 ニセコの山中では、前後して痩せこけた2匹のキタキツネにであった。キツネのコン太君

 いずれも車道を前方よりひょろひょろ歩いて来た。
 53を止めて呼んでみるとむこうも立ち止まる。
 おりてカメラを構えると、および腰ながらまだ逃げない。
 鼻を突き出して様子をうかがっている。

 餌でももらえると思ったのかもしれない。
 観光客が餌付けをしているのだろう。
 あいにく餌になるようなものは何も持っていなかった。

 18:00 遅い到着という事もあって何軒かのホテルに断られた後、やっと一軒のホテルにころがりこむ。
 宿泊料が安いのは結構なことだったが、トイレの水が止まらず夜中に2度ボーイを呼ぶハメになった。
 本日の走行距離395q。


7月30日(木) 曇りのち晴れ
 7:45 ニセコを出発する。今日は本土に戻る日だ。
 函館発13:50の大間行きフェリーの時間に合わせて走行する。
 国道5号を長万部まで来ると、函館までは往路と同じコースになる。

 函館では、北海道最後の記念に函館山に登る。
 山頂より見下ろすと下界はガスでほとんど見えない。
 Tシャツ一枚では鳥肌が立つほど涼しく、土産店ではストーブが焚かれていた。

 大間に上陸した我々は、下北半島は国道279号をひたすら南下した。
 予定では恐山温泉に泊るつもりであったが、霊山の麓に泊るのは恐れ多いということになり、代わりの宿泊地を探すことにし浅虫温泉た。

 しかし予定外の行動には困難がつきまとうものである。
 どこまで行っても適当な宿が見つからない。
 今日こそはテント泊かと観念したが、もう少しで青森というところで、浅虫温泉に行き当たった。

 帰って聞けば有名な温泉と言うことであったが、観光地に疎い私には初耳であった。
 18:00 とにもかくにもほっとして、海の見えるホテルの一室におさまった。

 今回の旅で海沿いのホテルは初めてである。
 その最上階の大浴場から見た、日本海に沈む夕日は素晴らしいの一言に尽きる。
 太陽が完全に沈んでも水平線はしばらく赤く燃えつづけていた。
 本日の走行距離325q。


7月31日(金) 晴れときどきにわか雨
 8:20 浅虫温泉を出発する。
 いよいよわが家に帰る日だ。
 6泊もすると旅をしたという手ごたえを感じるものだ。

 青森から東北自動車道にのる。
 4DR6型ディーゼルエンジンの規則正しい鼓動、幌のバタツキとロードノイズをBGMに、そして両窓と前面のベンチュレーションよりの心地よい風を浴びながら53を走らせた。
 
 高速走行の場合、巡行速度は80qか100qのいずれかにとる。
 のんびり走りたいときは80q、時間を稼ぎたいときは100qにする。
 巡行速度が80qの場合は1リットル/15q走るが、100q以上の場合は1リットル/8qに落ちこんだ。

 北海道内を70〜80qで流していたときは、1リットル/18qを記録したこともあった。
 ちなみに、この3年間2万キロ余の平均燃費は、1リットル/13.2qである。
 53は実に経済的だ。

 郡山Jctより磐越自動車道に入り、新潟より北陸自動車道、長岡Jctより関越自動車道を経由してわが家に到着したのは20:00であった。
 本日の走行距離852q。

 全走行距離3,091qの53による旅が終わった。
 この間のわが53の平均燃費は、1リットル/12.0qであった。
 今回の旅で再確認したこと、 それは53による走行が疲れないということである。
 最終日などは、まだ走り足りない感じもしたほどだ。

 十分なる換気、板バネおよびショートホイールベースによるピッチングと、オールマニュアルによる適度な筋肉の使用が、血液の循環を良好にし老廃物を効率良く排泄させ、その結果体内に疲れを蓄積させないのだろうか。

 あるいは、私と愚妻までが感染した、疲れさえ麻痺するというジープ病の末期的症状なのだろうか。
 いずれにせよ、げに不思議なジープ病である。


13.53がファーストカーになる日(平成11年4月)

 長女が車の免許を取ることになった。
 免許取得のあかつきには、とりあえず私が現在通勤等に使用している平成元年製レガシー4WDセダンが、娘のご用をつとめることになった。

 もとより、娘がいつまでもこのオジン車に乗っているとも思えないが、初心者マークがついている間くらいなんとかもってくれればよいと思っている。

 いずれにせよ近い将来、私にとって53が正真正銘のファースト・カーになる。
 53にしてみればこの日を待ちわびていたのかもしれないが、私のジープ病があまねく天下にさらされる日でもある。

 「やっぱり彼はどこか変わっているのかも知れないね。ああいう妙な車に乗っているということは」という世間のうわさが一段落すればどうということではないが、平均的なサラリーマンをよそおっている私にとって、己の病を公表するのは若干勇気がいることである。

 そうした意識を持つようになったのは、次のような体験があったからである。

 ある懇親会に出席したときのことである。
 50歳前後と思われる隣席の紳士は職業が何であるかわからないが、なかなかやり手の雰囲気がある。
 さしさわりのない話をしているうちに、彼が弁護士であることが判明した。

 会話の糸口をつかんだ私は会社の関係で知っているM弁護士の名前を上げると、彼もよく知っているという。
 そして、「M先生の趣味は写真と車で、写真の個展はときどき開いていらっしゃいますし愛車のポルシェは他人に手を触れさせないほど大切にしていらっしゃいますよ」と言った。

 私は、「M先生の写真の趣味は知っていましたが、車にそんなに凝っているとは知りませんでしたよ。
 いつも事務所の駐車場に置いてあるBMWは営業車ですかね?」と応えた。

 趣味の話が出たついでに、「実は私も若干車には興味がありまして、ジープに乗っているんですよ。渓流釣りや山菜取りのよい足にもなりますし」と言った。

 隣席の弁護士先生は、「ジープと言うと…、アメリカ製のものですか?それともミツビシ製のものですか?」とけげんそうな顔で言うので、「正真正銘の三菱製幌のジープです。いやー、フルオープンで走ると実に気分がいいですよ。」と答えた。

 すると弁護士先生は一瞬間を置いて、「そういう話をするのはちょっと勇気がいりませんか?」と質問してきた。

 ジープの話をするのに勇気がいるとは…? 私は返答に窮したが、「ええまあ、あまり自慢できる趣味でもありませんから、ハハハハ」とお茶をにごした。

 そう言えば、弁護士先生の趣味は「ゴルフを少々」だったっけ。
 その程度に答えておくのが、初対面の者に対するエリート社会の常識なのか。
 私は平凡なサラリーマンでエリート階級と付き合いはないが、彼らにとって「ホロのジープ」「フルオープン」「クロカン」「ケイリュウヅリ」「サンサイトリ」など、うさん臭いものの筆頭なのだろう。

 彼らの世界では、少しでも毛色の変わった趣味の持ち主は奇人変人の烙印をおされると見える。
 それは彼らが順調な出世や商売をしていく上で、一番恐れることなのだろう。
 「危険な話」は相手を熟知してからすべきだ。

 弁護士先生との会話がその後どうなったのか、今となっては定かでない。
 「勇気がいりませんか?」と言われて、それ以上話を続ける勇気が急速に萎えてしまったと思われる。

 いずれにせよ誰がどう思おうが、53は間もなく私にとって正真正銘のファーストカーになる。
 つまり53で通勤し、上司・部下と食事に行き、ときには社用で取引会社に行き、冠婚葬祭に参列し、旅行に行き、クロカンのまね事をし、もちろん釣にも山菜取りにも行く。

 そのうち幌を取替え錆を補修しながら、私があの運転台によじ登れなくなるまでずっとファーストカーであり続けるのだ。
 考えただけでもぞっとするほど素晴らしいことである。
 ジープ病ここに極まれリといった心境だ。

 昔から「老いらくの恋の炎は消しがたし」と言うが、老いらくのジープ病も不治の病なのかもしれない。


14.下駄山賛歌(平成11年5月)

 念願の下駄山を履いた。
 ダンロップのライトトラック7・00-15である。
 ジープなら最初に下駄山をゲタ山こと ダンロップ ライトトラック7・00‐15履きたいと思っていたが、付いていた標準タイヤが減るまで待っていた。
 当分乗る53である。あせらずあわてずいろいろなタイヤを試すつもりだ。

 タイヤを交換してまず感じたこと。
 「ハンドルが軽い!」片手でも軽々回せる。
 考えてみれば、すり減った標準ラジアルは、接地面積が大きかったはずだ。

 次に直進安定性。
 「思ったほど悪くない!!」バイアスタイヤというと、路面のデコボコにハンドルを取られるというかんばしくない思い出があったが、今まで履いていた標準ラジアルとたいして違わない。

 そして高速の騒音については、ジープ病患者が表現すると「うるさい」のではなく、「なかなかの迫力!」となる。

 肝心の悪路では今までの標準ラジアルがあまりにもふがい無いので、バイアスタイヤ故のサイドの強さと、下駄の出歯はいやがうえにも「心強い!!!」となり、ひとりよがりな下駄山賛歌となった。

 そうそう、ブレーキ性能だのコーナリング特性などというものもあったが、「何とか、止まればよい・曲がればよい」の世界であるので、もともと気にはしていない。

 ぶるわけではないが。


15.尺骨神経麻痺(平成11年6月)

 しばらく前から左手の手のひらが痛む。
 そして痛むだけでなく、指をまっすぐに伸ばそうとしても小指だけどうしても伸ばせない。
 薬指と小指の間に隙間ができてしまい力が入らない。

 思い当たる節があった。
 下駄山に交換する際に、堅くしまったホイールナットを十字レンチで思いきり回したときに、小指のつけ根の手首に近い部分にあざを作った。

 そのときは少々痛む程度であったが、その痛みがなかなか直らないのだ。
 そしてだんだん指に力が入らなくなってきた。

 愚妻いわく「あざができるほど、馬鹿力入れなくてもいいのじゃないの?」

 湿布薬を張ってみたが改善のきざしが見えない。
 親戚の接骨院に行った。
 マッサージやら低周波治療やら試みたが、かんばしくない。

 個人経営の整形外科に行った。
 老医は私の話を一通り聞くと、名刺を出してきて小指と薬指の間にはさませて、引っ張るから力を入れろと言う。
 私は精一杯はさんだつもりであったが、老医が引っ張るといとも簡単にスルリと抜けてしまった。

 老医は何やら古めかしい文献を出してきて、この症状は単に手のひらを痛めただけでなく、腕の神経の麻痺からきているという。
 ワシ手症といって、悪化すると5本の指が内側に曲がったままになってしまう相当厄介な障害である。

 見せられた古めかしい文献には、5本の指がワシの指のように曲がった、見るもおどろおどろしい写真がのっていた。

 大病院を紹介するから精密検査を受けるようにと言われ、整形外科を後にした。
 私は53のハンドル握りながら、もしかしたら間もなくこのハンドルを握れなくなるかもしれないと、暗澹たる気分になった。

 紹介された大病院の整形外科に行った。
 その医師は整形外科でも、なんと「手が専門」ということである。
 私の話をうなずきながら聞いた後、手のひらのあちこちを押したりつねったりして反応を調べた。
 さらに3方向からのレントゲン写真の結果を見ておもむろに言った。

「レントゲンの結果を見る限り、骨には異常がありません。これは工具により手を圧迫し、尺骨(しゃっこつ)神経を傷めたことによる、尺骨神経麻痺です。特に治療法はありません。3ヶ月かかるか、半年かかるか自然治癒を待つしかありません。」

 半日がかりにもかかわらず、大病院での診断結果は私の心を晴々させるのに十分であった。
 「53のハンドルを握る事ができなくなるかもしれない」という心配から開放されて。
 そして医師の言葉どおり、私の左手は約3ヵ月後に完治したのである。


16.初めてのスポーツ刈(平成11年8月)

 私の現在の職業上、ヘアースタイルは7:3でスーツ姿がもっとも適していると思われる。
 できれば車も4ドアセダンが望ましい。
 茶髪やひげなどとんでもない。
 見るからに常識が服を着て歩いているようでないといけない、何とも窮屈な職場である。

 しかしながら、53がファーストカーになったその日から、私はチラリと本性の一端を見せざるを得なくなった。
 「どうしたんだいこの車は?」という上司のいぶかしそうな質問から、「うわー!カッコいいですねー!」という若者の感想まで、約一月間はあれこれ言いわけに苦労をした。

 質問ぜめが収まると、間もなく季節は新緑から梅雨をへて入道雲のお出ましとなった。
 ネクタイを締めての真夏の通勤では、いくら窓を全開にしても汗がタラリと頬をつたう。

 そうなると、窓やベンチレーションからの勢いのよい風がアダとなって、せっかく7:3にセットしたヘアースタイルは見るも無残な姿となる。
 53で通勤を始めて一番の悩みは、うっとおしい髪の毛との闘いとなった。

 幸い行きつけの床屋は高校のときの同級生である。
 今まで一度も髪を短くしたことの無い私は、最初からスポーツ刈は勇気がいるので、あれこれ注文をつけて短めに仕上げてもらった。

 「なかなか、いなせですね」とお世辞を言ってくれる女子社員の言葉を真に受けて、2回目は「思い切り短くやっつけてくれ!」と注文する。
 我ながら見事なスポーツ刈に仕上がった。
 53に乗ると頭皮に心地よい風が直接当たって、何ともいえずさわやかである。

 いくら汗をかいても、タオルで頭をツルリとなでるだけでよい。
 メンテナンス・フリーとはこのことだ。
 やはりジープはスポーツ刈に限る。
 私はやっと生活の全てが53になじんだと満足した。

 だがこのスポーツ刈、第三者の間でどうも評判がよくない。

 愚妻いわく「最近毛が多くないんだから。血管が浮き出て見えてるよ!」 
 娘達いわく「最低!!」 
 会社の同僚いわく「何だか人相ずいぶん悪くなったよ。その筋の人みたい」 
 そして上司は無言で目をむいた。

 しかし私は誰がなんと言おうと、53に乗っている限りスポーツ刈をやめる気はない。
 例えそれが理由で異動になろうとも。


17.ジープ病蔓延計画(平成11年11月)

 娘のおかげで、我が家にもインターネットがやってきた。
 あまりうるさく言うので、とうとう加入することにしたのだ。
 長女のパソコンは最新のノートであるが、私のパソコンは1995年12月製のロートルである。

 メモリー、ハードデスクを増設して何とか動いているがモデムはない。
 インターネットをするときは娘のノートを借りれば十分だと思っていたが、いちいち人の道具を借りるのも面倒なことに気がついた。
 それにメールのやりとりもお互いに内容が読めてしまい具合が悪い。

 自分用に安いモデムを買ってきたのが運のつきで、テレホーダイを契約し、プロバイダーも月額固定制にするなど、気がつくとインターネットにどっぷりとつかっていた。

 もちろんまっ先に見たのはジープのページである。
 「JEEP」「jeep」「ジープ」「じーぷ」とキーワードを入れても、数年前まではあまりページがなかったのだが、最近はずいぶんページが増えている。

 いやはや、いろいろな人がいるものだ。
 ジープでバック転をした武勇伝やら、林道ツーリング、整備の話、写真集、掲示板と、あれこれ見歩いていると時間がたつのを忘れてしまう。

 今まで雑誌、テレビ、ビデオ、そして数少ないイベント参加でしか知り得なかった世界が、一気に広がった感じである。

 そうだ、ジープに興味のある人はみんなでホームページを作って、自分の世界を見せ合えばよいのだ。
 サーバーは無料で借りられるし、体裁のよいホームページが簡単にできる便利なツールもある。

 メールを使えば瞬時のうちに双方向通信もできる。
 ネット・ミーティングの輪が広がれば、ジープを持っていない若者でも、イベントになかなか行けない人でも、簡単に自分に合った世界の住人になれる。都会の孤独もよい方向へ解消できるのではないか。

 私はバック転もしたことがないし、整備もふがいない。しかし、ジープに対する思い入れ、ジープで走り回ることは大好きなので、ジープのある風景の写真集でも掲載しよう。
 例え同型の工業製品として別の53が存在しても、私の53は他の53とは微妙に違うはずだ。

 また、それをテーマに撮影できるのは私しかいない。
 そして私の53が何らかの理由でこの世から消滅したとしても、私がプロバイダーとの契約を解除しない限り、サーバー上にその雄姿は残り続けるのだ。

 更に私が「代々契約を続けるべし」と遺言しようものなら、私の53は人類が生存する限りサーバー上で生き続け、全世界の人々に閲覧され続けるのだ。
 なんと素晴らしいことだろう!

 あれこれ考えていると夢が膨らんできた。
 表現力と費用対効果から、35ミリリバーサルをフォトCDに落として使うのが一番ベターか。
 ツアイスレンズの味をホームページ上の画面に再現できるだろうか?

 今、私の手元には「ホームページ・ビルダー」なるホームページ制作ソフトがある。
 私のジープ病を世界に向けて発信し、多くの人々に伝染させようという危険な計画を開始するために。
 名づけて「ジープ病蔓延計画」


18.CCV読者よりの電話(平成11年12月)

 ある日会社より帰宅すると、CCV(硬派四輪駆動専門誌)の読者より電話があったと愚妻が告げた。
 初めて電話をかけてきた主は、電話口に出た愚妻に「ジープに乗っていらっしゃる○○さんのお宅ですか?」とたずねたそうだ。

 何とか連絡を取りたくて、たまたま群馬県に出張中の友人に頼んで私宅の電話番号を調べてもらったという。

 私の駄文を読んでわざわざ電話をかけていただくとは、恐縮すると同時に照れくさい気分になった。
 例えて言うと、幕の陰に隠れていたつもりが、何かのはずみで舞台の端にころがり出た裏方のような気持である。

 群馬県といっても70市町村もある。
 その中から私宅の電話番号を調べるのは、かなり根気のいる作業であったと想像する。

「7時過ぎならまちがいなく戻っています」という愚妻の返答に、神奈川県厚木市在住のGさんからの電話は、7時数分過ぎにかかってきた。
 私は受話器に向かって、「ジープ病の○○です」と第一声を発した。
 
 Gさんは私の文章に共感してわざわざ電話をかけてくださったのだが、彼の話を聞いて驚いた。

 まず年齢は私とほぼ同じ(1歳年下)で、平成3年式の53(私のものは4年式)に乗っている。
 幼少の頃より厚木基地に出入りするジープを見て育ち、成人後しばらくしてから、突如としてジープ病が発症した経緯もそっくりだ。

 そして北海道には、陸路をキャンプしながら奥さんと3回も行っているとのことである。

 軟弱者の私の場合は、とうとう一度もキャンプをしなかった。
 朝から旅館のバイキング料理をくらって、旅行後は数キロも太ってしまった程だ。

 今度こそキャンプをしよう。
 Gさんの話を聞きながら、むくむくと北海道キャンプ旅行のプランが頭をもたげてくるのを感じた。

 色々感想を述べあった結果、しめくくりとして、ジープは長距離を走っても少しも疲れないことで意見が一致した。
 話の最後に、お互いに近所に来ることがあったら連絡をとりあうことを約束して、私は受話器を置いた。


19.不吉な兆候(平成12年3月)

 その兆候はある日突然訪れた。
 ゴワゴワゴワというタイヤノイズにも似たかすかな異常音を聞いたのは、会社よりの帰宅途中であった。
 路面の変化によってタイヤノイズは変わるものである。

 たとえば、通常の路面より雨水浸透式の路面になるとその音は大きくなる。
 最初の印象は「あれっ、路面が変わったのか?」という程度のものだった。
 
 しかし間もなく、その現象は私の耳にはっきりと認識できるほど確かなものになった。
 不吉な兆候を感じてから約一週間後、朝の出勤途上突然ガーガーガーというかなり大きな異常音が床下から車内にひびき渡った。

 私は驚いて思わず路肩に緊急停車した。
 タイヤが当たっているような、あるいはタイヤの空気圧が極端に低下していると出ると思われるような、今まで聴いたことのない異常音である。

 そういえば昨日スタッドレスに交換したばかりだ。
 タイヤの取り付け方が悪くて、どこか当たっているのだろうか。
 下回りをのぞいてみても、53に標準サイズのタイヤでは当たろうはずがない。
 気をとりなおして走り出してみた。
 すると異常音はひっこんでいた。

 この日を境に、走り出してから5分くらい経過すると必ずこの異常音が発生し、赤信号による停車まで引き続く。
 速度に関連していて、スピードが遅くなると異常音のピッチもダウンする。

 異常音が発生している間にいろいろなことをしてみた。
 クラッチを切ったり、ミッションをニュートラにしたり、エンジンを切ったり、ブレーキをかけてみた。
 しかしそれらに一切関係なく、異常音は毎日の通勤の往復に一度づつ必ず発生し、いったん止まると引っこんだ。

 時はおりしも何かと忙しい年末であった。
 私は気にしつつもそのまま乗っていた。

 破滅的状況は間もなくやってきた。最初の兆候を感じてからおよそ一ヶ月後くらいだろうか。
 年が明けて平成12年1月5日(水)、朝の通勤途上いつもの異常音が発生した。

 しかしその日は様子が違う。
 いつもは信号で停止すると引っこむ異常音が、走り出しても連続して発生する。

 サイレンを鳴らしているようで、道行く人がふり返りはしないかと気になった。
 直感的にかなり危険な状況と判断し、すぐに自宅にひき返して親戚の自動車屋に緊急入院の手続きをした。


20.思いがけない長期入院(平成12年3月)

 私の連絡を受けて53を引き取りに来た整備士氏は、2Kmも走らないうちに騒音に閉口し、となり町にある会社に援軍を要請した。
 こうして我が53は、ロープで牽引されて入院したのである。

 親戚の自動車屋でのみたては「ミッション不良」ということで、すぐさま転院手続きが取られた。
 平凡な町の整備工場としては、53のような特殊車両のミッションオーバーホールは荷が重いとの判断である。

 そしてその転院先は、何と私がわが53を買った三菱の某ディーラーであった。
 私は53をそこで買ったものの、車検等はすべて親戚の自動車屋に出している。
 したがって私の53は、奇しくも4年半ぶりに里帰りしたことになった。

 世の中は、縁という名の縦横の糸で織られた複雑な織物のようだ。
 無数の縁の糸が織りなす紋様は、時として人々を驚かす。
 私は再びその店の世話になるとは思いもしなかった。

 ミッションオーバーホールと聞いたとき、正直なところ私は愕然とした。
 壊れるはずのないものが壊れた時、人はきっと驚くに違いない。
 キチンと整備をしていれば100万Kmも走れると言われるジープが、こともあろうに8年36,000Kmごときで故障とは!

 しかも重要部品ミッションのオーバーホールとは!
  「ブルータス!お前もか!」とはこの時の私の心境である。

 この話を聞いた父親がトンチンカンに私を慰めてくれた。
 「なに?ジープが壊れた?あれは軍用車両だろう?それがそう簡単に壊れるとは…。
 日本も戦争に負けるわけだ!」

 7日(金)に転院したはずの53について、一週間たっても何の連絡もなかった。
 修理に大金を要するようなら、事前に見積もってくれとお願いしてあった。
 しびれを切らした私は、15日(土)の休日出勤途上に思わず工場へ立ち寄ってみた。

 ガランとした工場構内は、交代制で整備士が休んでいるためなのだろうか、まだ人気がない。
 手前と向こう側の2列に並んだ20台ほどのリフトの上には、思い思いのスタイルをした患者が横たわっている。

 私は無断で構内に立ち入った。
 我が53は手前側の奥から二番目のリフトにのっていた。
 左後方より近づくと外見に異常はなかった。

 思わずかがんでのぞき込む。
 ミッション部分がそっくり摘出された異様な空洞を発見すると予想していたが、それに反してミッションケースは黒い鉄の塊として何の変哲もなくそこにあった。

 「どーなってんの?」私は独り言を言いながら運転席側に回ってみた。
 私はそこで初めて53の患部を見た。
 右前輪のドラムが分解してあり、車軸に白いウエスがかけられていた。

 「そうか!ブレーキ系か」ブレーキ系なら修理代もそう高くはないだろう。
 私はほっと安心した。
 目的を達成した私は、整備員にとがめられる前に工場を後にした。

 さらに一週間が経過した。
 相変らず何の連絡もない。
 24日(月)再びしびれを切らした私は、今度は親戚の自動車屋に電話を入れた。
 さすがに時間がかかりすぎると感じた整備士のN氏は、外注先に問い合わせて、おり返し連絡をくれた。

 N氏「まだ原因がわからないそうです。もう少し時間をくれと言っていました」
 私「原因不明?…。それは弱ったね…。怪奇現象かね?…」

 そのとき私の脳裏に、ポルターガイスト現象という言葉が浮かんだ。
 もしかして…、前のオーナーが…。
 しかし、ジープの騒音と振動の前には、騒霊のほうが逃げ出すはずだとこの考えを打ち消した。

 ミッションもブレーキ系も異常がないという。
 異常音がまだ出ているのかひっ込んでしまったのか聞き忘れたが、何らかの異常を認識しているから整備士氏は奮闘してくれているのだろう。

 一週間もあれば退院してくるだろうとたかをくくっていた私は、次第に焦燥感にかられるようになった。


21.故障場所の推理(平成12年3月)

 そこで私も色々推理をしてみた。
 ミッションに異常がないということは、恐らく後輪をテスターにのせて運転したに違いない。
 そこで問題がなければ、エンジン、ミッション、後輪系はOKということになる。

 残るのは前輪系となり、先日工場をのぞいたときに右前輪ドラムが分解してあったことで裏付けられる。
 となると、残るのは前輪のデフとなるわけだ。

 しかし待てよ。
 もっとたわいもない原因もあるかも知れない。
 注意しているつもりだが、グリスポイントへのグリス注入忘れなどということはないだろうか。
 あちこち分解して、最後がグリス切れなどとわかったらいい笑いものだ。

 このちょいとした思いつきは、黒雲のごとくみるみるうちに私の心の中に広がり、強迫観念になった。
 治るまでじっと待とうと決心したにもかかわらず、直接の整備担当者に電話をしないではいられない心境になった。

 28日(金)私は思い切って電話を入れた。
 私「今お世話になっているJ53のオーナーですが、いかがでしょうかね?」

 整備士氏「遅くなってすみませんね。まだ原因がわからないのですが、これからフロントデフを分解するところです。もう少し時間を下さい」

 きたきた、やはりフロントデフの分解か。
 その前に早く言っておかないと。
 私「素人考えですが、グリスポイントへのグリス切れということは考えられないでしょうか? 注意しているつもりですが、注入個所が多いもので見のがしているかも知れないと思って」

 整備士氏「それは大丈夫でしょう。結構くれてあるようですし」

 私は、あまり理屈をこねてもと思ってそれでひき下がったが、今考えると「全てのグリスポイントは完全にグリスアップされています」と言ってほしかった。
 だが、一応言うだけのことは言ったのだと自分を慰めた。


22.退院(平成12年3月)

 53が治ったとの連絡は、思いがけずも31日(月)の午後に入った。
 そして、親戚の自動車屋の整備士S氏が会社まで届けてくれた。

 S氏によると、詳しいことは聞いていないがフロントデフをオーバーホールしたとのことだった。
 フロントバンパー下をのぞきこんでみると、デフ回りが黒々と塗装しなおされ光沢を放っていた。

 代車の新規格軽4輪・5速ミッション・バンは、ショートパンツ一丁で短距離走をしているようであったが、久しぶりに乗る53は、鎧かぶとに身を固め早足をする武将のような威風堂々とした重みがあった。

 あちこちから出るガチャガチャという金属音が、鎧の金具が発する音を連想させる。

 やはりジープはいいものだ。
 本物の機械、本物の道具を繰るのは一種の儀式に似ている。
 始動前のプリヒート、クラッチ、ギアの切り替え、重いハンドル操作、そうしたすべての行為が必要不可欠な儀式の手順であるように感じられた。

 ところが、私の久しぶりの幸福感も、数日後に届いた入院費用請求書によって微塵に粉砕された。
 請求書に記載されたおびただしい文字を追う私の顔面は、恐らく蒼白であったにちがいない。

(作業名)
フロントデフ脱着・OH
技術料・・・74,100円

(作業内容)
1.フロントデフギヤキット・・・取替
2.デファレンシャルケース・・・取替
3.シャフトキット、デフギア・・・取替
4.シムキット、スペーサ・・・取替

(部品代)
ギヤキット・フロント(×1)・・・57,300円
ベアリング・FR(×1)・・・3,150円
ベアリング・フロント(×1)・・・1,600円
ベアリング・フロント(×2)・・・5,000円
ケース・フロントデフ(×1)・・・14,200円
シャフトキット・フロント(×1)・・・1,150円
ギヤ・フロントデフ(×2)・・・13,800円
スペーサキット(×1)・・・2,850円
ピニオン(×2)・・・3,400円
シムキット(×1)・・・1,500円
シムキット(×1)・・・610円
シムキット(×2)・・・1,100円
ブッシュ(×2)・・・1,420円
ガスケット(×1)・・・670円

(その他)
積載者取引・・・5,000円

(合 計)
技術料合計・・・79,100円
部品合計 ・・・107,750円
消費税    ・・・9,342円

総合計  ・・・196,192円


23.故障原因追求(平成12年3月)

 以上の明細を見て、私は素朴な疑問をいだいた。
 登録後8年経過しているとはいえ、たった36,000Km程度でフロントデフをそっくり交換するほどの故障があるのかというものである。

 ましてフロントデフは、ほとんどの時間は駆動力がかかっておらず空転しているわけである。
 ジーパーとしては恥ずかしながら、デフを壊すほどの武勇伝もいまだ持ちあわせていない。

 もしかしたら…。
 私の心の中に一点の不吉な疑問が浮上した。
 もしかしたら、何らかの理由でデフオイルが不足していたのではないか?

 これは普段車検をお願いしている親戚の自動車屋の整備を疑うことになるので、極力打ち消したい疑問であった。
 いずれにせよ、修理を行った整備士氏に直接会って話を聞かなければならない。

 2月3日(木)会って話を聞くつもりでいたが、先方の都合で電話をもらうことになった。
 その電話は夕方かかってきた。

 整備士氏「お電話をいただいたそうですが?」

 私「お忙しいところすみませんね。実は今回は予想以上の重修理だったので、そうなった原因をぜひ知りたいのです。どういう状態だったのですか?」

 整備士氏「フロントデフを開けてみると、ギア全体がかなり磨耗していました。それが許容値以上だったので交換しました」

 私「フロントデフは通常空転しているわけだし、それほど無理な運転をした覚えはないのですが。高速は多少走りましたがその辺も影響しますか?」

 整備士氏「フロントデフには負荷はかかってはいませんが、常に回っています。高速を走る機会が多ければ影響するのではないでしょうか」

 私「デフオイルが不足していたというような、直接的な原因は見当たりませんでしたか?」

 整備士氏「特にそういうことはありませんでした」

 私「デフケースまで交換してありますが、悪い部分だけ交換というわけにはいかなかったのですか?」

 整備士氏「もちろん一部の部品だけも交換できますが、今回は全般的に磨耗しており、かなりのガタや部品の欠損も出ていたのでケースごと交換しました」

 私「フロントデフが磨耗しているということは、リアデフも同様だと考えられますか?」

 整備士氏「その可能性はあります」

 私「わかりました。どうも長い間お世話になりありがとうございました」

 私は不勉強なため、デフケースが壊れたり消耗するとは知らなかった。
 しかし、整備士氏とのやり取りの中からは、原因らしきものがはっきりと浮上してこなかった。
 どうもいま一つ気分がすっきりしない。

 原因のヒントらしきものは、後日修理代金を親戚の自動車屋に支払いに行ったときに、整備士のN氏から聞いた。
 それによると、やはり高速走行が原因ではないかというものである。

 確かに、ジープはもともと高速走行に適しているとは思えない。
 最近の車では考えられない故障であるが、そう言われればうなずけない事もない。
 北海道旅行の時などは、100Km〜110Kmで長距離を巡行したこともある。

 一方、デフケースまで交換したのは、部品の破損によってケース内部が傷ついていたのではないかとの見解である。
 ふむ、ふむ。 なるほど。なるほど。
 原因を求めていた私にとって、なんとなく納得できる説明であった。

 となると…。
 となるとこの私は、「およそジープにふさわしくない運転をしたことにより、フロントデフを壊した大バカ者」ということになる。
 なんと言うことだ!

 かくして疑問は一気にしぼんだが、私は散財よりもこちらの問題で落ち込んだ。
 しかしものは考えようである。
 いろいろあったが、フロントデフは新品になった。
 53の寿命が部分的にせよ延びたわけである。

 そう思うと私の心も少しは癒えるような気がした。
 残るはリアデフ、エンジン、ミッションか…!
 万歳!「ジープ病」 


24.我が友ジープ病を発病する(平成12年8月)

 私には学生時代よりの親友がいる。
 北海道出身の彼は、卒業後長い間東京暮らしをしていたが、数年前に九州に転勤になり、その後山梨の住人になって現在にいたっている。

 比較的小柄な体格だが、十数年前より内外のモンスターバイクを乗り継ぎ、ここしばらくはBMWに落ち着いている。
 東京での生活が長かったせいか、車の所有はまったく考えなかったという。

 それは九州時代も、つい最近までも続いていた主義主張である。
 車が必要な時はレンタカーを借りたほうが、費用対効果において合理的であるという。

 というより、モンスターバイクの魅力に取りつかれて、車にはまったく興味がわかなかったと言ったほうが正しいかもしれない。
 確かに1000cc前後のバイクの加速感は、一度とりこなると病みつきになるらしい。

 しかし私は自分の経験から、バイク乗りは必ず一度や二度は危険な場面に遭遇する宿命にあると思っている。
 それがかすり傷ですむか、身障者になるか、あるいは命を落とすかはその人の運命による。

 とは言え、そろそろ年貢の納め時ではないかと思った私は、平成7年に53を購入して初めて彼がわが家を訪問した時に、近くの河原に一緒に行ってジープの楽しさを紹介した。

 普通の車は見向きもしない彼でも、ジープならきっと心を動かすにちがいないと思ったからである。

 しかし期待に反して、彼はただ一言「なかなかすごいな」と言ったきり5年近くが経過した。
 その間私はCCVに掲載された私の記事のことを連絡したり、ホームページ制作の夢を語ったり、盛んにジープ病原菌を送り続けた。

 発病すると難病のジープ病も、感染力は意外と弱いようである。
 もっともインフルエンザ並みの感染力があれば、ジープはもっと違った形に変化しているはずだと苦笑した。

 平成12年1月13日、思いがけないメールが彼より届いた。
 それにはこう書かれていた。

「突然ですが私もジープを購入する事にしました。納車は25日前後です。山梨は中古車展示場が多いのですが、ジープを見た事はありませんでした。先日何気なく三菱中古車センターを見たところジープがあり、3回そこに見に行っても考えが変わらなかったので、これは衝動買いではないと判断し契約しました」

 おりしも私の53が長期入院していた時である。
 私は喜びと同時に一瞬複雑な心境になった。
 簡単に壊れないはずだと信じていたジープが壊れて、いく分気弱になっていた。

 「悪い病気をうつしてしまったのではないか」当時の私の精神状態は、我が友のジープ病の発病を手放しでは喜べなかった。

 しかし冷静に考えてみた。
 彼のジープ病の感染源が私だとすると、潜伏期間が短すぎる。
 真性ジープ病の潜伏期間は10〜20年である。

 とすると、彼は本人が知らぬ間にジープ病に感染していたに違いない。
 身に覚えがないとはまさにこのことだ。
 そして満を持して発病したのである。
 げに恐ろしきはジープ病!


25.似て非なるもの(平成12年8月)

 我が友のジープは平成7年式のJ55である。
 走行距離は11,000Kmと短く、話の様子ではかなりの掘り出し物のようだ。
 やはり我が友にはできるだけ程度の良いジープに乗ってもらいたい。
 あまり経費の負担がかかるような代物では私の心がますますうずく。

 2月12日に彼が来ることになった。
 我が家までの片道150Kmは、55購入以来最長ドライブに違いない。
 いつもはBMWのドスのきいた排気音が彼の来訪を告げるが、その日の朝は比較的ソフトなディーゼル音が我が友の来訪を告げた。

 私は彼がわが家の敷地内に55を入れる前に、前から楽しみにしていた試乗を申し込んだ。

 運転台に乗り込むと、まずはフロントウインドウに行儀よく並んだ三連ワイパーが目に入る。
 スピードメーターの上には見慣れぬ警告灯が二つ並んでいた。

 ラジオの外観も、ブリキのおもちゃからプラモデルへ変わったくらいの印象がある。
 しかしこの程度の変化は、その後に続く驚きに比べればたいした事はなかった。

 あらためてエンジンをかけてみて驚いた。
 まずはクラッチが軽い。
 いつもの調子で踏み込むと、ヒョイという感じでペダルが下がる。
 53ではグイッという抵抗感があるものだ。

 抵抗値を量ってみたわけではないが、重さは半分くらいの印象だ。
 次にエンジン音にまた驚いた。
 高音部分がカットされ非常にまろやかになっている。
 「まるでパジェロのようだ」とは、エンジン音だけの感想である。

 走り出すとハンドルも軽い事に気がついた。
 特に不整地を走ったわけではないが、エンジン音が静かなだけ若干トルクが薄いような印象も受けた。
 また乗り心地も、路面の継ぎ目などで暴れ馬のような突き上げが少ないように感じた。

 ガソリン車とディーゼル車では当然フィーリングは違うだろうが、最近のディーゼル車同士ではたいした変化はないだろうとたかをくくっていた。
 しかし、ジープといえども変化していることを知った。

 特にエンジン音の変化については、53と55の燃焼方式の違いだけによるものなのか、防音処理を加えたものなのか私は知らない。
 あるいは私の53の個体差なのかも知れない。

 以上の私の感じた驚きなど、絶対値から見れば取るに足らないことであることは承知している。
 少々クラッチが軽くなろうが、エンジン音がまろやかになろうが、ジープはジープである。
 しかし53に同化している私は、我が友の55に対して「似て非なるもの」の印象を受けたことも否めない。

 53と55ですらこれだけのフィーリングの差があるのだから、初期のWILLYS MBやFORD GPWはどんな代物だったのだろうか?
 他のジープに関して無知な私には、想像力を働かせても一向にイメージが湧いてこない。
 しかしそれはまさに、「似て非なるもの」に違いない。


26.ジープ病患者のホームページ(平成12年8月)

 私がひそかに名づけた、「ジープ病蔓延計画」の主力兵器と言えるホームページがやっと完成した。
 タイトルは平凡であるが、「Jeep Forever」とした。
 ホームページの構造はジープにちなんでできるだけシンプルにし、全体のカラーを好みのOD色で統一した。(その後変更)

 春夏秋冬のジープ写真集がメインであるため、完成までにほぼ一年を要した。
 ただし撮影時間がなかなか取れなかったので、より充実したページが完成するにはさらに数年が必要であろう。

 写真の背景に人工物が極力入らないような場所を選んで撮影するために、ロケハンには苦労をした。
 時代劇撮影の苦労がわかろうというものだ。

 写真は35mmのリバーサルで撮影し、フォトCDに焼きこんでもらった。
 デジカメに比較し手間も経費もかかるが、1カットにつき18M、4.5M、1.1M、288K、72Kの5サイズが入っているので、用途に応じて使い分けられ大変便利である。

 プロの仕事であるから、原画には極めて忠実だ。
 それに廉価版のデジカメでは構造上求められない、中望遠レンズによるボカシ効果も楽しめる。

 私の加入しているプロバイダーでは、会員に無料でサーバーを貸してくれる。
 手続きはいたって簡単で、メールで申し込むと承諾の返答が数時間後に届き、約一週間後には待望のURLが郵送される。

 私は早速自分のホームページを転送した。
 心配したプロバイダーのサーバーとのやり取りはきわめて簡単で、パソコンの中のファイルのやり取りとまったく同じである。
 違うのは、電話線を使っているために伝送時間がかかることである。

 しかしデジタル・データは恐るべきものである。
 システムがあり元のデータが破壊されない限り、永遠に原型を留めクローンを作りつづける。
 これが普通の写真では色は退色し、姿もいつしか消え去ってしまうだろう。
 または、管理がおぼつかなくなり散逸してしまうかも知れない。

 ただ何らかの原因で現代文明が原始時代に戻ってしまったら、さしものデジタル・データも跡形もなく消え去ってしまうだろう。
 廃墟の中に、埃に埋もれたサーバーの筐体が整然と並んでいるSF映画の1シーンが目に浮かぶ。
 その映画の台本では、廃墟を訪れた異星人が恐る恐る電源を供給すると、突如システムが生き返り、我が53の姿がCRTに映し出される設定である。

 しかし現実的にはそれはちょっと無理な話だ。
 そうなると、時々発見される洞窟内の壁画や、土器に描かれた記号にも劣ることになる。
 せめてそうならないことを祈りたい。

 さて、今はひっそりとサーバー上の仮想空間にある53の雄姿は、間もなく公開されようとしている。
 たとえあまり見てもらえなくても、その姿は消去しない限り永遠にサーバー上に存在し続けることになる。

 さみしい話になるが、実車の存在は長くてせいぜいあと30年である。
 その前に私が現世を卒業すれば、残った家族に維持できるとも思えない。

 昨日のフルオープン走行の爽快感も24時間もたてばおぼろげな記憶になってしまう。
 しかしサーバー上の53は、それを見るたびに鮮明な記憶を呼び起こす。

 もはや新たに製造されることのない三菱ジープを、仮想空間上に生き続けさせるのもジープ病患者の使命と思うこの頃である。

 その願いを込めて、来訪者に容赦なくジープ病原菌を放射する恐るべきホームページのURLは、 http://www.jeep-fan.com/ である。
 決して開くべからず!


27.ホームページ公開(平成12年9月)

 ジープ病患者のホームページが公開された。
 まずは検索エンジンに登録し、同病者をリンク集に収容した。

 しかしこの段階では私のホームページは太平洋の海水一適、サハラ砂漠の砂一粒である。
 「ジープ病蔓延計画」の主力兵器であるので、どうにしたら見てもらえるかということについて考えた。

 あれこれ研究しているうちに知人から、あるサイトの「アクセス論」なるものを紹介された。
 それによるとアクセスの多いページの特徴は、

1.定期的に更新されるサイト
2.巨大サイトで辞書を調べるように何度も来ようと思うサイト
3.掲示板・チャットなど利用型で自己発展性を持つサイト

 のいずれかの特徴を持っている。
 結局のところ、リピーターを作ることができなければ、アクセスの増加は望めない。
 アクセスを増加させ維持したいのなら、こういうタイプのページを作る必要がある。
 HP作成コストを考えながら、このいずれかの条件を満たしていかなければならない。
 とのことである。

 定期的な更新については、「壁紙」や「写真集」もあるが、「闘病記」の追加が欠かせない。
 派手な戦闘シーンはないが、ジープ病の病状の進行具合を逐一報告する事によって、同病者あるいは未感染者の関心を買えるのではないか。
 他人の病状は気になるものである。

 一方、辞書のように一度の来訪では用が足りない巨大サイトの構築はとても無理なので、そのかわりにプレゼント用の壁紙は故意に重くしてある。

 なるべく軽くして来訪者が逃げ出さないようにするのが常套手段だが、少々重くもジープ好きならきっと見てもらえるだろうという思惑から、高画質の画面を掲載した。

 一度に少しずつ見てもらって何度も来てもらうねらいである。
 もっとも、そのうち高速回線が常識になれば、このねらいも意味がなくなるが。

 さて、「掲示板」は来訪者が勝手にホームページを盛り立ててくれるので、リピーターを作るにはなくてはならないツールである。
 最初はこれをマニュアルでやってみた。
 つまりメールで受けたものを、その都度ページに貼りつけて更新するものである。

 ところが予想のとおりはなはだ不評である。
 匿名性を重視する来訪者の心理から、アドレスが残るメールはその意に反するのであろう。
 また、投稿したものが瞬時にのらないことや、自由に変更・削除できないことも敬遠されるのでないかと考えた。
 そこで、急遽掲示板のオートマチック化(レンタル掲示板採用)をおこなった次第である。


28.幌の新調(平成12年9月)

 ジープ乗りはとことん物を使いきる人が多い。
 例えば幌などは窓のフィルムが黒ずみ、本体もボロボロになるまで使う人もいる。

 私の53の幌フィルムは、時々プラスチッククリーナーで研磨しているので透明性は高いほうだ。
 しかし各所のヘリの部分は少しずつ破れ、ピラピラと風になびくようになった。 
 一番の問題はファスナーだ。
 古くなるとやはり壊れる。

 後ろの右側がまず壊れ、悪戦苦闘の末どうにもならず修理に出した。
 しかし、幌をはずしてしばらくテント屋さんに預けなければならないので、その間雨に降られると大変困る。
 修理代も13,000円とバカにならない。

 しばらくすると、今度は後ろの左側がかみ合わなくなった。
 多少砂ぼこりが吹きこむが、心配した雨水は中に入らないのでそのままにすることにした。

 ドアのファスナーが壊れたら少々やっかいだと思っていたら、7月のある暑い日運転席側のファスナーがとうとう壊れた。
 真上のあたりで止まったまま、にっちもさっちもいかなくなった。

 窓が開かなくても、少々暑いが走行に影響があるわけではない。
 あるいはファスナーをはずしてひもか何かでゆわえるようにすれば、壊れる前のように快適になる。
 私も通勤に使用していなければきっとそうにした。
 しかし、やはり会社に乗っていくとなると多少の見栄がでる。

 下から数えた方が早いが役職にもついている。
 そもそも、いい歳をして幌ジープで通勤していること事態が立派な変人なのだ。
 しかし変人が奇人という評価へ進まないように、身の回りはこざっぱりとしていなければならない。

 思い切って幌を新調しよう。
 純正の白い幌に。
 私にとってささやかとは言えない贅沢だが、老兵の威厳を保つためには許される範囲ではないか…。と自分に言い聞かせた。


29.気になる書き込み(平成12年9月)

 8月11日、私のHPの掲示板にある方よりこんな書き込みがあった。

 「自動車NOx削減法が2002年施行を目指して改正されるようなので、お伝えしようと思ってのことです。
 内容としては、対象地域の拡大(栃木県、群馬県、愛知県、京都府を追加)、5ナンバー・3ナンバー車(ディーゼル乗用車という表現になってる)への適用、等です。」(抜粋)

 決まったわけではないが可能性は高いと思った。
 私は群馬県に住んでいるが、対象地域に指定されたら53を所有することが難しくなることは想像できる。

「人生一寸先は闇」とはよく言ったものだ。
 つい先日幌を新調し、死ぬまで乗り続けるぞと息まいていたのが嘘のようである。

 時代の流れが全て正しいとはとても思えないが、個人の力ではどうにもならないことが多々ある。
 我々は矛盾の無い制度を求めるが、出来上がったものは往々にしてザル法であったり、不公平なことが多い。

 私は即座に、『しかし、時代の流れには逆らえません。いよいよ、「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ」ですか。後ろ指をさされて乗っているのもイヤなので、最後に磨き上げた53を床の間にでも飾っておきましょう。寂しい話ですが』と書き込んだ。

 しかし2・3日たつとにわかに未練心が出てきた。
 あきらめるのはまだ早い。
 何か方法があるはずだ。

 必要にせまられると人間勉強するものである。
 NOx法そのものやNOx法がどのように改定されようとしているのか、現在特定地域に指定されている車両の対処の方法等、関連サイトを次々と調べた。

 その結果、現在の規制値で地域だけの拡大であれば、NOx低減装置も市販されているので何とか対処できる。
 しかし、2002年の新規制はどうもそれだけでは収まりそうもない。

 法改正の背景に、「特定地域ではディーゼル乗用車もしくは3.5トン以下のディーゼルトラックは、新規買い替えを半強制的にでも促す」という精神があるからである。

 新しく買う車がある人にはまだ救いがある。
 しかし私のようにジープ以外に持ちたい車がない者は・・・。

 最近は、時代の流れが今までにない速度で進んでいる気がする。 
 この調子だと・・・。
 この調子だと、53に乗れなくなる日が意外と早くやって来るかも知れない。
 そんな予感がするこの頃である。


30.デジタル写真と銀塩写真(平成13年2月)

  私はいわゆるブランド品には興味がないが、物の材質や性能にはこだわる方だ。
 例えばカメラや時計は金属製でないと気がすまない。
 もちろんレンズや風防はガラス製に限る。
 「ヘビィ・デューティ」というキャッチフレーズにいたくしびれるのは、人間が軟弱のせいだろう。

 私のジープ病のルーツもこの辺に端を発しているのかも知れない。
 現在入手可能な最もヘビィ・デューティな車両の一台、ジープ。
 いまだに見ているだけでしびれてくるのは、まさか脳梗塞が原因ではあるまい。

 脱線するが、昨年携帯電話を購入した。
 IDOの製品で、耐ショック性に優れ、水深1mの防水機能、前面部分ジュラルミン合金製、さらに音質がよいcdma Oneがうたい文句の、C303CAという製品である。メーカーはGショックで有名なカシオだ。
ヘビイディューティが売りのC303CA
 携帯電話はあれば便利だが無くても問題はないと思っていた私だったが、この性能には全くしびれ今までの持論はどこへやら、ただちに入手した。

 発売後間もないこの製品は、その大きさとゴツさが災いしてか本体価格は1,800円だった。
 そしてさらに驚いたことに、私が購入した2週間後には本体価格0円と表示されるに至った。

 これにはガッカリしたが、知人が行った北海道のある魚河岸の関係者はほとんどこれを持っていたという話を聞いて、いくらか心が慰められた。
 この性能なら海水の入った魚の桶に落としても何ともないはずだ。

 問題の購入後の携帯電話使用状況だが、基本料金内に毎月600円分ついてくる通話料で見事納まっているのは言うまでもない。

 さて、デジカメについては家族からも要望が出ていたし、HPの静止画用として極めて便利と思われたので、先日キャノンのIXY DIGITALを購入した。
 購入の決め手はもろもろの性能もあるが、外装がオールステンレス製という一点である。
 ここでも私のこだわりが発揮された。

 画素数は210万画素。
 これで最大画面の最高画質を記録すると、サイズは1600×1200となり、ビットマップ方式で処理すると2〜6Mほどのデータ量となる。

 いろいろ撮ってA4サイズにプリントしてみた。
 130万画素のソニー・マビカに比べるとはるかに良い。
 ムシメガネで覗いて見ない限り、肉眼ではほぼ普通の写真並に見える。

 一方今まで私が採用してきた、35mmカラーリバーサル(銀塩写真)をフォトCDに焼きこむ方式だと、最大サイズは3072×2048でデータ量は18Mもある。
 この両者を比較するのはフェアーではないかも知れないが、絶対値の比較としては意味があると思った。

 デジカメからのプリントはムシメガネで覗くと画像の輪郭に僅かにドットが見られるが、銀塩写真からのプリントはフィルムの粒子しか見えない上、色調、階調も豊である。
 これは最初から想像された結論であるが、ホームページサイズの画像の比較ではどうだろう。

 結論から先に言うと、ブラウン管上でも銀塩写真からの画像のほうがきれいに見える。
 カメラやレンズ性能の差が、記録方式以前の問題としてあるのかも知れない。
 それがたかだか100KB程度の画面でも現れたのだろう。

 この結果を見て私は、当分メインの画像は今の方式で行こうと思った。
 もちろん個人のHP制作上の実用性から言えば、利便性やコストの面でデジタル写真に軍配が上がることは言うまでもないが。


31.あぶない話(平成13年3月)

 ちまたの噂によると、ジープ乗りには刃物が好きな者が多いようだ。
 そういう私も実は大好きである。
 ナイフ、包丁、ナタ、切れる物は何でも好きだが、1本何十万円もする高価なカスタムナイフや、日本刀のように実用性のないものにはあまり興味がない。

 実際に惜しげなく使って、自分で思い切り研げるものが興味の中心となる。

 「ジープ病患者に刃物」とは、「き○○○に刃物」の次に恐ろしい組み合わせのような気がするが、それは大変な誤解である。
 ジープ病患者は野営生活の経験が豊富な者が多いため、刃物の扱い方をよく心得ている。
ビクトリノックス パイオニアNO1
 私が現在所有しているナイフは3本。
 一番小さいのはフォールディング・タイプ(折りたたみ式)Gサカイ トラウト&バードの定番、ビクトリノックス社製のパイオニアNO1 AL、次がシースタイプ(折りたためないもの)で、G.サカイのトラウト&バード、そして最後は祖父が刀匠だったという地元の鍛冶屋さんに打ってもらった和式ナイフである。

 特製和式ナイフこの和式ナイフは他の二つがブレードに単一の工業用ステンレス鋼を採用しているのに比べ、軟鉄の間に鋼鉄をはさんでたたき伸ばし、最後に焼きを入れるという日本古来の製法によるものである。

 ある仕事の関係で、個人的にこの鍛治屋さんと知り合いになった私は、「ナタでも包丁でも打ってやるよ」という言葉に飛びついた。

 私はいわゆる剣鉈といわれる、先がとがったナタのような大型ナイフをデザインして型紙を持参した。

 和式刃物の材料としては、近代製鉄法のものよりも、昭和初期まで行われていた砂鉄を原料とする「たたら製鉄法」による和鉄が優れているそうだ。

 従って刃物作りに熱心な鍛治屋さんは、日ごろから旧家が土蔵を壊すというような話を耳にすると、飛んでいって窓に使用されていた鉄格子やトヨ受けの鉄材を譲り受けて来る。ちなみに私のナイフの一部は、鎌倉の○○寺のトヨ受けとのことだ。

 鍛治屋さんからいろいろな講釈を聞きながら出来上がるまで立ち会ったこのナイフは、市販品に比べ無骨で多少左右非対象ではあるが実によく切れる。

 私は研いだ刃物の試し切りは、いつも一枚の広告紙で行う。
 ペラペラの広告紙を左手で垂直に持ち、上から刃を当ててすっと引く。
 ナイフであれ包丁であれ、切れる刃物はほとんど抵抗無く紙が二つになる。

 もちろんつけた刃の角度によってはこうにならないが、逆にこの程度切れるように刃をつけるのが好みだ。

 この和式ナイフと同等に切れるのが「正本」の出刃だ。
 比較的鈍角に研いだ出刃でさえ、紙に当てるとハラリと切れる。
 「正本」の刃物は牛刀といい和包丁といい比較的軟らかい鋼材を使っているので研ぎやすく、研ぎ上げると実によく切れる。

 これに比較し、「杉本」の牛刀はかなり硬度の高い鋼材を使用している。
 研ぐのに若干手間はかかるが、これもよく切れる。
 ただしいずれも炭素鋼であるから、手入れが悪いとすぐ錆びが発生する。

 月に一度であるが、私は家中の刃物を研ぎ上げる。
 刃物研ぎは、私の趣味の中では一番実用的で重宝されているようだ。

 さて、私が晩酌をしているときに居合わせた客は受難である。
 私の客といい、子供の客といい、家中の刃物の切れ味テストに立ち会わせられるはめになるからだ。

 このナイフは鋼材がどうたらこうたらで、いやこの出刃は・・・。
 新聞紙を丸めて筒状にした物をバッサ、バッサと切りまくる。

 気の毒な客人は、刃物を振り回すやや凶悪化した酔っ払いの前で、機嫌をそこねないように神妙な顔をしてただただ講釈を拝聴し、または刃物の切れ味に驚いたそぶりを見せなければならない。

 そして、我が家の床の上にできた新聞紙の細かい切れ端の山を片づける愚妻もまた受難である。


32.ジープとカーナビ(平成13年3月)

 とうとう念願のカーナビを取り付けた。
 一般論として、ジープにカーナビとは、ジープにカーステレオの次に不似合いな組み合わせかもしれない。(音楽ファンのジーパーの皆さんごめんなさい)

 言い訳がましいが、私の入手したカーナビはとにかく安かった。
 買値が定価の60%を切って5万これで全て 一体型カーナビ円台。
 しかも一体型で取り外しもワンタッチ。
 サイズは130mm×148mm×40mmと、片手に載ってしまうほどコンパクトだ。

 盗難予防に、車から離れるときは取り外してバックにしまえる手軽さである。
 オープン走行時、夕立がザバッと来る前に座席下の収納庫に放り込むことなどいとも簡単。
 また、カーナビがもぎ取れそうになる悪路走行の場合も同様だ。

 それよりも何よりも、恥ずかしながら私は相当の方向音痴である。
 特に夜間のドライブは懐中電灯で地図を照らし、老眼鏡をかけてと手間がかかる。

 さらに、あたりを見回しても暗いために目標物がはっきりせず、とんでもない方向を走り回った経験もしばしばある。

 さて、ジープ病患者に限らず、新兵器をどこに取り付けるのかを考えるのは楽しみなものだ。
 ジープは平面部分が多く、なおかつそこが鉄板なので、物を取り付けるのは大変楽である。
 しかしカーナビの場合は目線の移動の問題があるので、取り付け場所はある程度限られる。

 あれこれ考えたあげく、1本380円の市販のステンレス製取り付け用金具をL字型に曲げ、デフロスターの吹き出し口を止めているビスから吊り下げて、その金具にカメラの三脚用ネジを流最適の位置に設置用して本体を固定した。(室内で使用する事を考慮してか、本体底部のネジ穴はカメラの三脚用ネジの規格が使われている)

 都合の良いことに、 幌天井のためアンテナは車外に出さなくても、ロールバーの上に乗せておくだけで良好に衛星の電波を拾ってくれる。
 また電源は12ボルト専用のため、無線機と同様片方のバッテリーから配線した。

 使用してみての感想。
 どの程度誤差が出るのかと心配したが、 ピタリと道路上に乗ってずれることなく走行状態が表示される。道路沿いの建物との位置関係が気持ち良いほどに合う。

 また通常画面で、道路沿いにはない約1Km四方の範囲のガソリンスタンドやコンビニ、その他めぼしい施設の位置がリアルタイムで表示されるので、見知らぬ土地への長距離走行にはきわめて有効な装備だと思った。

 さらに、道を曲がる場合は700m地点、300m地点、直前地点が音声案内されると同時に、2分割された右側画面に交差点の立体図が表示される。

 また、オートリルートという機能をオンにすると、設定ルートから数百m外れると音声案内とともに、その地点より目的地までの新ルートを自動的に再探索してくれる。

 これは目的地に行くまでに、地図上に表示された面白そうな場所に寄り道しながら旅を楽しむのにはうってつけの機能である。
 その上さらに、携帯電話を接続すればインターネットも利用できるが、コストの点で現時点では使うつもりはない。

 以上、最新のカーナビとしてはごく当たり前の機能であると思われるが、この価格とサイズの中に凝縮された便利さは、私にとって最近にない感激であった。

 ジープ乗りにあるまじき装備と思われようが、軟弱者と見られようが、はたまた方向音痴のノータリンと後ろ指をさされようが、禁断の木の実を食べてしまった私は、今後カーナビを手放すことはないだろう。


33.嘘をつくカーナビ(平成13年5月)

 カーナビの威力を試す機会がやってきた。
 山梨県はあの有名な上九一色村にある富士ケ嶺オフロードコースにて、J・BOYSが主催する「第3回JEEPバカミーティング」が開催されるというのだ。

 過去2回開催されたという「JEEPバカミーティング」がはたしてどのようなものであったか私は知らない。
 しかし想像するに、ジープ病患者が一堂に会することに間違いはなさそうである。
 これはぜひ参加しナイト。

 まずはカーナビ大明神におうかがいを立てる。
 自宅を出発地とし、富士ケ嶺オフロードコースを目的地に設定し、リモコンのOKボタンをポン。

 大明神は何やらゴニョゴニョゴニョとつぶやいた。
 CDロムドライブの発する作動音は、未開人が聞いたらたぶん神様のつぶやきに聞こえるに違いない。

 やおら画面にパッとご神託が現れた。
 なになに?距離が252Kmで所要時間9時間?しかも東京経由!画面上にはぐるりと大きく迂回しているルートが表示されている。

 気を取り直してもう一度おうかがいを立てる。
 「大明神様、もう少し直線のルートを」

 大明神は再びゴニョゴニョゴニョ。
 今度は気前よく、第2、第3ルートのご神託が下った。
 第2ルートは191Kmで6時間19分、第3ルートは168Kmで6時間13分。
 だんだん良くなるホッケのタイコである。

 その後試しに更におうかがいを立ててみたが、気を悪くしたカーナビ大明神は同じご神託を繰り返すばかりだった。

 選んだ最短距離の第3ルートは、藤岡・鬼石を経由して秩父へ抜け、大滝村から雁坂トンネルくぐって山梨県に達するものだ。
 さらに山梨市を通過し精進湖をかすめて上九一色村の富士ケ嶺へ到達する。

 168Kmで6時間13分とは、距離の割にはずいぶん時間がかかるが、恐らく山間部の細い道が多いに違いない。
 もしこのルートをパソコンの地図ソフトで作ったとしたら、方向音痴の私にとって、走っている時間よりも地図を眺めている時間のほうが長いことになっただろう。

 5月4日(金)、私は午前3時に家を出た。
 胸の高まりを押さえてカーナビのスイッチを入れる。
 カーナビ大明神は真夜中の運転台に目覚め、ゴニョゴニョゴニョとつぶやき出した。
 現在位置が表示された後、先日設定しておいた富士ケ嶺ルートの案内をお願いする。

 すると突然、大明神には似つかわしくない若い女性の声でルート案内が始まった。
 その指示は懇切丁寧、正確無比で、明け方の薄暗い見知らぬ道を次々と案内する。
 おかげさまで私は、走りを楽しむことだけに神経を集中できた。

 ゴールデンウィークの真っ最中とは言え、明け方の各ルートはガラガラだ。
 峠道では思い切りコーナーを攻める。
 とはいえ、下駄山のディーゼルジープでは60Kmも出せば十分にストレスが発散できる。富士スピードウェイで350Kmは出している感覚だ。

 進路の心配から開放されることがこんなに気楽なものだとは知らなかった。
 この調子だとどこまでも無限に走れそうだ。
 今年の夏は再び北海道にでも挑戦してみるか。
 そんな考えさえ脳裏に浮かぶ。

 やがて、奥秩父湖の手前700mより、Yの字を左手に進むように指示が出る。
 迷わず今までの太い道を捨てて左に進む。
 何とその道は、奥秩父湖沿いのすれ違いもやっとの細い道で、6Km後には元の道に合流している。
 静寂な湖畔の景色は素晴らしかったが時間のロスになった。

 あとで地図を確認すると従来の道が国道140号で、わざわざ奥秩父湖沿いの細道に迂回する合理的な理由は全くない。
 ささいな事だがこれはソフトのバグだろうか、それともカーナビが嘘をついたのだろうか?

 はたまた、湖好きの私に対するカーナビ大明神のお恵みだったのだろうか。

 往復340Kmをほぼ完璧に案内してくれた今回のカーナビテスト走行で、心に残った唯一の疑問であった。


34.中華鍋にはまる(平成13年6月)

 ジープ乗り=アウトドアマン=男の野外料理=焼きそば とは乱暴な図式だが、ジープ病患者と焼きそばの縁は深い。

 そもそも私と焼きそばとの出会いは、小学校低学年頃より一人で行くようになった縁日に始まる。
 当時の食べ物で相当うまいものにランクされていたのが、縁日の屋台の焼きそばである。

 子供の手のひらにものる大きさのヘギ(木を薄くそいだ、カンナの削りカスのようなもの)に盛られた焼きそばを、付属のヨウジで少しずつ食べるのが縁日の楽しみの一つだ。
 普通盛りが10円、大盛が15円と言えば時代もわかる。

 その日よりうん十年が経過したが、焼きそばは日常生活でもよく食べるし、野外生活での定番メニューでもある。

 さて、その身近な焼きそばだが、研究してみると奥が深い。
 まずは麺である。
 しばらく前まで、町内の八百屋さんなどで茶色がかったぼそっとした麺が売られていたが、最近は○○ちゃんかそのもどきに制覇された感のする市販の麺である。

 私の好みはぼそっとして腰がある麺だ。
 そんな麺を探しているが、残念ながら未だ発見にいたっていない。

 次に炒める道具であるが、鉄板に金属ヘラが従来のスタイルである。
 その鉄板も最近はテフロン加工のホットプレートが主流になりつつあるが、テフロン加工の製品には金属ヘラが使えない。

 金属ヘラと鉄板、あるいは金属ヘラどうしが触れ合うチャリン、チャリンという音は、焼きそば作りに欠かせない伴奏でもある。
 合成樹脂製や木製ヘラから出る、ガタ、ゴトという音ではどうも気分が悪い。

 さらに火力の問題がある。
 弱いとグツグツ煮るような状態になり、強すぎると音もなく鉄板一面に麺がこげついてしまう。

 これまでは、焼きそば=鉄板 しか頭になかったが、ある日中華料理屋さんで使っている中華鍋に目が行った。
 中華鍋を左手でガッタン、ゴットンとあおり、右手に持った柄の長い中華オタマで器用に微量の調味料をすくい入れ、かき混ぜる。

 ジュー、ジューという威勢のよい音と共に焼きそばやチャーハンが宙を舞い、時には鍋の油に移った火がボワーッと炎を上げる。
 そのくせ決して焦げ付いたりせず、水分が飛んでパサッ、しゃきっと仕上がる。

 そうだ!これだ!
 さっそくわが家の中華鍋で焼きそばを作ってみる。
 中華オタマがないので、とりあえずは味噌汁用のオタマが代用品だ。

 結構いける。
 すくなくともホットプレートよりはしゃきっと仕上がる。
 しかしやけに重い。
 片手であおるなんてとんでもない。

 我が家の古い中華鍋は鉄プレス製で1.4キログラムの代物だ。
 良い中華鍋とはどんなものだろう?
 最高の中華鍋を求めてネットサーフィンしてみる。

 まず素材については、従来からの鉄製と新素材のチタン製があることがわかった。
 さらにそれぞれ、プレス製と打出製がある。
 プレス製は文字どおりプレス機で素材をプレスしただけの代物だ。

 それに比べ打出製とは、職人さんがハンマーで素材をたたいて形にしたものだ。
 素材をたたくと、素材の中の微小な空洞がなくなり、軽く錆びにくいものになるそうだ。

 チタン製は非常に軽く錆びないが、熱伝導率があまり良くないことと(調理法によっては焦げ付きやすい場合がある)、鉄製に比べ値段が10倍はする。
鉄打出製中華鍋 優れ物
 結局値段も安く比較的軽い、「職人用鉄打出片手中華鍋30Cm(940グラム)」をネットで購入した。
 手元にとどいた中華鍋をしげしげと観察する。
 一般の鍋に比べ、座りの悪い底の湾曲はいったい何なのだろう?

 いろいろな解説を総合すると、中華鍋は万能鍋のようだ。
 底から側面にかけた形状が円を描いているので熱が早く全体に伝わる。

 揚げ物をする時は油が底にたまるので必要に応じた最少量ですむ。
 同様に水分が底に落ちるので、鍋の側面を使うと炒め物に焦げ目もついてしゃきっと仕上がる。

 さてさて使用しての感想だが、今までの物に比較し同じ鉄製でありながら大変軽いこと。
 また、熱伝導が良いという素材の特性より、家庭のガスコンロでも火力が充分全体に回り、水分が早く飛んで炒め物がしゃきっと仕上がる。

 その上、鉄板によく油をなじませると強火でも焦げつきにくく、お湯をかけてひとこすりすると汚れがさっと落ちる。
 焼きそば、野菜いため、チャーハンのランクが、一歩プロに近づいたような気分だ。

 以来、すっかり中華鍋にはまった私は、愚妻と共に毎朝この中華鍋製の野菜炒めを食べている。
 そしてもし、どこかの野営場で53の傍らで中華鍋を使って焼きそばを作っている者を見かけたら、それは私である。

 その時の合い言葉は、「中華鍋の具合どう?」 
 冷たいビールと共に、職人用鉄打出片手中華鍋製焼きそばを一皿ご馳走します。


35.サブの卒業(平成13年6月)

 サブとはわが家で飼っていた犬の名前である。
 去る6月9日にこの世を卒業した。
 御歳14歳と4ヶ月。
 粗食に耐え、普段は無駄吠えをせず、自分より大きな犬に対しても決してひるまず、主人には忠実な野武士のような犬であった。

 我が家で最初に飼った犬がロンで、二番目が太郎だ。
 三番目と言うことで三郎からサブと命名された。
 ロンも太郎も10年未満で卒業したので、サブが一番長生きしたことになる。

 例の図式になるが、ジープ病患者=自然愛好家=動物好きで、私は子供のころからよく小動物を飼った。

 私が小学生の頃、時々校門の前にダンボール箱にヒヨコを入れた露店が出た。
 緑色の印をつけたものがオスで一羽5円、赤い色がメスで10円という店主の説明により、卵焼きを食べたい一心の私は必ず赤い色がついたヒヨコを買った。

 飼育技術未熟のためほとんど死なせてしまったが、何回か成功したことがある。
 不思議なことに、メスと信じて育てたヒヨコには成長するに従い赤々とした立派なとさかが出現し、おまけに気性も荒く、育て親の私の足を血が出るほどつっついた。 

 後で聞いた話だが、露店などで売られているヒヨコはメスを選別した後のオスばかりだそうだ。

 その他私は、カタツムリ、カブト虫、スズ虫、ヤドカリ、カメ、トカゲ、金魚、ジユウシマツ、セキセイインコ、手乗り文鳥、伝書鳩、ハツカネズミと実にいろいろなものを飼った。

 伝書鳩は小屋を屋根の上に置いたので、清潔癖の父親が大変嫌がった記憶がある。
 半年ほど経った後にもう慣れただろうと思って放したら、それきり帰って来なかった。

 これも後で聞いた話だか、伝書鳩はつがいにして子供ができないと帰って来ないそうだ。
 そう言えば、私の鳩君はチョンガーだったのだ。

 凛々しい表情のサブ犬は先の2匹が雑種なので、3匹目はすこし良い犬を飼おうということになり、血統書付きの柴犬にした。
 血統書には、父犬の名前が鉄錦号、母犬が菊仲姫号で、本人(犬)はコロ助号と記載されている。

 昭和62年2月20日生まれだ。
 父・母犬の名前に比較し、本人(犬)の名前が軽々しいのが印象的だった。

 「日本犬はやたら人間に媚びないようにしつけたほうがよい」とどこかで読んだ私は、あまり芸的なしつけはしなかった。

 その上鉄柵で仕切った庭に放し飼いにしておいたので、私以外の者にはなつかない自由奔放な日本犬に仕上がった。
 どうしてもクサリに繋がなくてはならない時などは、繋がれている間中何時間でも吠えまくった。

 放し飼いのくせに敷地外に出たがり、愚妻のすきをねらっては家に上がりこみ、居間を一気にかけ抜けて玄関から外に出ようとする。
 ある時、少しばかり開いていた裏木戸の隙間からするりとにげ出した。

 裏木戸を開けたのは父親である。
 あわてた父親は、電柱に自分の印をつけている真っ最中のサブを後ろからむんずと抱きかかえた。
 日ごろ自分はナンバー2だと思っているサブは怒り心頭に達し、思い切り父親の手にかみついた。

 53はサブより新参者だが、ジープに柴犬はお似合いだと思いある日乗せてみた。
 気丈な犬だが文明の利器は苦手なようだ。
 ふだん車などに乗ったことないサブは、荷台に乗せられてブルンとエンジンがかかったとたんおじ気づいた。

 ジタバタ暴れてさかんに幌を引っかいた。
 おかげで後面のフィルムがキズだらけになった。

 質実剛健な柴犬なので、どんなに寒くも暑くも一年を通じて戸外で飼っていたが、何回か家の中に入れたことがある。
 その時は非常に喜び、居間の片隅にうずくまり満足そうにしていた。

 しばらくしてふと見ると、今までいたはずの所はもぬけの空。
 ソロリソロリと伏せたまま前進して、いつの間にか居間の中央に幸せそうに横になっていた。
 しかしサブのその幸せも束の間。
 大抵30分くらいで外に出された。すねた表情のサブ

 最近は大型犬を家の中で飼っているお宅も多いが、父親譲りの私の衛生感覚ではどうしても犬を家の中で飼うことができない。

 しかし、本来犬は群れで生きる動物である。
 人間と犬の区別のできないサブにしてみれば、どうして自分だけ戸外におかれるのか理解できなかったに違いない。 時々悲しそうに吠えるサブの声は今でも耳に残っている。

 サブが卒業した今となっては、悲しい思いをさせないためにもう二度と犬は飼うまいと思った。


36.あの穴のお話(平成13年7月)

 6年来の謎が解けた。
 53購入当時、両側ドアの幌骨に当たるところで幌布が擦り切れていて、小さな穴があいていた話である。

 開いた原因がわかった穴走行中のバタツキで擦り切れたものと思い、「しかし4,200Kmくらいで、たとえ小さいといえども穴があくものなのだろうか?」と長年疑問に思っていた。

 昨年の夏に、運転席のファスナーが壊れたのを機会に幌を新調した。
 以来何キロ走ると穴が開くものなのか楽しみにして、毎日のように観察を続けた。

 その結果穴が開いたのである。
 穴の開くほど見つめるというが、もしかしたら見つめすぎて穴が開いたのかもしれない。
 冗談はさておき、穴は開いたがそれは走行によるバタツキではなく、ドアの開閉による当たりで開いたのだ。

 私の53にはグラブバーがついていた。
 特にそのグラブバーを取り付けているボルトの頭に、ドアを最大に開けたときに幌骨が当たる。

 私は駐車時や掃除をするときにゴムバンドを用いてドアを開け放しにするが、ある日気がつくと幌ドアの問題の部分に黒いシミのような病変が生じていた。

 このシミはやがて穴へと成長しつつある。
 そしてある一定の大きさになった穴は、当たる面積以上には決して大きくならないのだ。
 グラブバーを取り付けていなくてもほぼ同じ部分が窓枠に当たる。

 風であおられたときや、ちょっと力をいれてドアを押さえると知らず知らずのうちに当たっている。
 だから恐らく、ほとんどの幌ドアジープの同じ部分に穴が開いているはずだ。

 原因がわかればなんだと言うささいなことだが、走行によるバタツキで穴が開くとしたら走行距離に比例する事になり、オドメーターの数字に疑念が生じることになる。

 それというのも普通の車と違ってジープは、例えメーターが一回りしていてもきれいに補修してあれば、10万キロの差の見分けがつかないほどの耐久性があると信じているからである。


37.出腹撃退記(平成13年7月)

 クロカン車に出腹は禁物である。
 ジープの腹も多少出ているが、それにも増して自分の出腹だけは何とかしたいと考えた。

 腹が出ると言うことは、余分な脂肪が腹や内臓の周囲についた結果である。
 余分な脂肪がつくということは食物の摂取のしすぎか、運動不足ということである。

 玄米が健康に良いという話を聞いて、私は20年近く前から玄米を食べている。
 ものの本によると、玄米のエネルギーは白米の20数倍あるそうだ。
 まけば芽が出るのが玄米である。
 まんざら誇張でもない気がする。

 玄米と菜食を組み合わせた玄米菜食主義の人もいるが、私の場合はそこまで徹底していない。
 肉も魚も好んで食べる。

 エネルギーのある玄米だから、白米に比べて食べる量は少量でよい。
 医学博士の小倉重成氏はその著書「自然治癒力を活かせ」の中で、玄米菜食・一日一食プラス鍛錬療法で、現代医学でも治療の困難な膠原病、気管支喘息、慢性肝炎、慢性腎炎、糖尿病、メニエール病等の難病が驚くほど早く回復していく様子を述べている。

 小食の薦めはマキストープ理論に例えられる。
 つまり、ストーブに燃料であるマキを入れすぎると不完全燃焼を起こす。
 人間で言えば過食であり、過食こそ万病の元である。
 ストーブにはむしろ少量のマキを入れて十分に酸素を供給してやれば、効率よく燃えてくれる。

 玄米菜食による小食(1日1食)と、毎日10Kmのランニングが小倉博士の難病治療の基本療法だ。 
 難病患者に効果のある療法なら、健康者が取り入れて悪いはずがない。
 健康増進とその副産物としての我が出腹の撃退方として、玄米プラス小食を取り入れることにした。

 平成11年6月。
 私はこの計画を実行した。
 ジープ通勤開始2ヵ月後である。
 いよいよ変人が奇人の領域にまた一歩近づいた。

毎朝・・・4Kmの早足歩行。
朝食・・・玄米・茶碗一杯、野菜(生、スープ、炒め物のうちいずれか)、魚等の動物性たんぱく質、味噌汁、漬け物。
昼食・・・なし(今までは外食)
夕食・・酒・一合半、一般的なおかず、玄米・茶碗一杯(昼食を食べたときはなし)、味噌汁、漬け物。

 従来との相違は外食の昼食をやめたことである。
 その結果最初の一カ月で体重が6Kg減少した。
 また若干高めだった血圧・総コレステロール値も低下した。
 以来2年が経過したが、特別の季節を除き体重の増減はない。
 特別の季節とは、年末年始等の酒を飲む機会が多い季節である。