万歳!「ジープ病」

1.ジープ病のルーツ(平成8年1月)

 いつの頃からか、私の心の中に「ジープ」という言葉が入りこんで、どっかりと根をおろすようになった。
 「ジープ…ジープ…」と呪文のようにくりかえす。

 私はなぜこんなにジープに惹かれるのだろう?
 「ジープタイプ」の他の車ではだめなのだろうか?こんな自問自答をくりかえしたが、いくらカタログを見ても実車を見ても、ジープ以外は所有する気が起こらない。
 
 フルオープンになるジープ以外は目に入らない。
 「ジープが欲しい…、ジープが欲しい…」これこそまさに「ジープ病」。ジープの原風景
 「ジープ病」が発症する少し前に社会に出た私は、就職先の会社で仕事上時々ジープに乗る機会があった。

 当時の記憶をふりかえる。
 このジープはガソリンエンジンの総鉄板製で、コラムシフトの5人乗りであった。

 後部ドアは観音開きで、屋根には木製のスノコを張ったキャリアが特設されていた。
 運転席は着座位置が高く、少し傾くだけで横転するのではないかという恐怖感を覚えた。

 当時ラジアルタイヤのFF車に乗っていた私にとって、バイアスの下駄山タイヤは直進安定性が悪く、まっすぐ走るのに一苦労した。
 四駆への切り替えも硬くて大変てこずった。

 ある冬、榛名山中の雪道で4輪チェーンにもかかわらず、あっけなく亀の子になってしまった。
 同僚と二人で大汗をかいて掘り出した。

 記憶をさかのぼって小学生の低学年の頃、親戚の自動車屋の整備士に左ハンドルのジープに乗せてもらった。
 ドライブの途中、前の車がノロノロ走っているのにイライラした私は、思わず足をのばしてジープのアクセルを踏んだ。

 アクセルを踏んだのかアクセルに乗っていた整備士の足を踏んだのか定かではないが、今思うと恐ろしいことをした。
 幸いなことに、私の足の力が弱かったのか追突事故にはならなかったが、こっぴどく怒られたことは言うまでもない。

 私の記憶をさらにさかのぼる。
 小学校入学前の頃、自衛隊の将校であった叔父がジープに乗ってきてわが家に宿泊した。

 路上においてイタズラでもされたら一大事とばかりに、門の引き戸と敷居がはずされて、ジープはのっそりと玄関前に入ってきた。
 門の幅は恐らく一間(180cm)で、高さも180cm少々であったと思う。

 幌を外したような記憶がないことから、ギリギリで何とか入ったのであろう。
 余談ではあるが、ジープを運転してきた兵隊さんは大変背の高い男で、襖の隙間からこっそりのぞくと蒲団から足首が出ていた。

 ジープにまつわる思い出はだいたい以上のようなもので、たいしたものではない。
 しかしこの中から私の「ジープ病」のルーツを探るとしたら、やはり原始体験とも言うべき自衛隊の「門外しジープ」であろう。

 幼稚園児であった私は、恐らく玄関前に鎮座したジープを舐めるように見ていたに違いない。
 中をのぞき込み、あるいはこっそりと運転台によじ登ったのかも知れない。

 そのときの記憶が私の脳裏に焼きついて潜在意識となって潜伏し、ある日突然に発病したのだ。
 げに恐ろしきは「ジープ病」!

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2.ジープ病の発病(平成8年1月)

 私の「ジープ病」は20年ほどの潜伏期間を経た後、昭和52年頃から徐々に発病した。
 しかし当時の家族構成と経済状態から、ファーストカーやセカンドカーとしてジープを所有することはできなかった。

 仕方がないので泣く泣くレオーネの四駆バンにした。
 そしてジープのまねごとをしてはあちこちをへこませた。

 以来18年、何台かの車を乗りつぎ、現在はレガシーの四駆セダンに乗っている。
 その間、東の展示場にジープがあれば飛んで行き、西の中古車屋に出物があるとかけつけるという状態が続いた。

 買えるわけでもないのに、ジープがあると思わず立ち寄ってしまうというのも、「ジープ病」の症状の一つである。

 しかし中古ジープは結構高く、程度の良いものが少ない。
 値段の安さに思わず立ちよってみると、遠目には若々しく見えたのに、近くで見ると20歳の大年増ということがよくあった。

 そんなことを繰りかえしているうちに、私の「ジープ病」は加齢とともに終息に向かうかのように思えた。

 あれは忘れもしない平成7年4月16日、たまたま休日出勤をした私は、通勤途上の国道17号ぞいにある、三菱ディーラーの中古車売り場にジープを発見した。

 いつものように車からおりて検分にとりかかる。
 車種はJ53で、年式は平成4年2月。
 3年落ちである。

 走行距離はたったの4,200Km。
 スペアタイヤは未使用で、履いているタイヤもほとんど減っていない。

 右後部かどに一部へこみがあるが、下まわりに擦過傷もなく、まさに新品同様。
 特に荷室床面やタイヤハウスの上部は、使用したなりに細かい傷がつきやすいものだが、ほとんど傷らしい傷がない。再塗装車かと疑うほどであった。

 各部の錆もほとんどない状態からして、屋根つきの駐車場もしくは車庫での保管がうかがわれる。
 問題の値段は車検付きで123万円。

 この値段が高いか安いかは読者諸兄におまかせするが、私としては今までこれほど程度の良い中古ジープにお目にかかったことがなかった。

 小康状態であった私の「ジープ病」は、一気に劇症となった。
 休日出勤したものの、その日はほとんど仕事にならなかった。
 
 まず金策に日ごろあまり使用されない頭脳が高回転する。
 そして多少無理をすれば資金繰りのメドがつくという結論を得てから、おもむろに愚妻に電話した。

 私「二度とお目にかかれないようなジープの出物があったので買いたいと思うが。いや買うことにした。123万だが何とかなる。年齢的にも最後のチャンスだし…」
 愚妻「…。臨終のときに、ジープ…、ジープ…なんて言われてはかなわないから、お父さんのいいようにしたら?」

 午前9時を過ぎると、さっそくくだんのディーラーに電話を入れ試乗を申し込む。
 長めの昼休みをとって、ディーラーの構内で試乗した。
 久しぶりに乗るジープは、やはり何とも御しがたい代物だ。

 熱病に冒された脳裏に、こんな厄介なものを買いこんで本当に良いのだろうかという、理性的な疑問がちらりと浮いては消えた。

 私はかなり広いディーラーの構内をグルグル走り回った。
 あまり試乗が長いので、けげんに思った担当のセールス氏が様子を見に来た。
 
 新車の納車点検のふりをして、こちらの様子をうかがっている。
 しかし、そのときすでに私の心は決まっていた。

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3.53の過去(平成8年1月)

 私のセカンドカーとなった53の過去を推理してみた。
 前のオーナーは、会社の名義で53を所有していた。

 しかし状態の良さから、業務で使用していたとは考えられない。
 バブル経済と四駆ブームに乗った二代目経営者が、興味本位でセカンド・カーとして購入したに違いない。

 趣味の車の証サイドリフティング・ハンドルグラブバー拠として、53にはグラブバーとサイドリフティングハンドル、それにディーラーで取り外されてはいたが、アルミ製のサイドステップが付いていた。

 カタログコピーと4WD雑誌の記事をうのみにして買ってはみたものの、最新の乗用車とのあまりの違いに、次第に53から足が遠のいていったのだろう。

 それは3年間で4,200Kmという走行距離が物語っている。
 もちろん排気ガス規制の問題が大きいだろうが。

 4,200Kmについては、直接下取りをした千葉のディーラーが書類に記録を残しているので、まずまちがいないだろう。
 また距離が短くても、オフロードで酷使した場合もあるが、下まわりに傷がないということでその心配もない。

 ただ今にして気になるのは、両側のドア幌布の、幌骨に当たるところで少しすり切れていて小さな穴があいていたことだ。まか不思議な穴

 確かにここは、走行中のバタツキですり切れやすい。
 しかし4,200Kmくらいで、たとえ小さいといえども穴があくものなのだろうか。

 新品から3年経過した幌の経年変化がどれほどのものなのか定かではないが、車体の状態と幌の状態がややアンバランスのような気もする。

 風洞実験でもしたのだろうか?
 あるいは、下に出すときに知人のジープのために新しい自分の幌と交換してやったのだろうか?

 それとも自然の経年変化なのだろうか?
 全てを信じたいと思いつつも、53の過去のこのささいな疑惑だけは未だに晴れていない。

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4.53のえくぼ(長所)(平成8年1月)

 平成7年5月、ゴールデンウイーク直前に納車された我が53は、平成8年4月現在でおおむね一年になる。
 入手して以来の走行距離は6,000Kmであるが、通勤には使用しないためあまり伸びない。

 この間に気がついた53のえくぼについて書いてみたい。
 まず乗り心地であるが、悪い割には長距離を走っても意外と疲れない。
 原因をあれこれ考えてみた。

 固定シートの形状、材質、ポジションが絶妙であるとともに、ひざから下を垂直におろせる運転姿勢が背中や腰に負担をかけず、その結果疲れが少ないのではないか。

 それに比較して以前に乗っていたレオーネバンは、タイヤをやや太くしたという改悪はあったものの、当時の若さでも200Km走ると首から肩が張ってどうにもならなかった。

 一般の乗用車でも、500〜600Km走ると、体全体がグッタリするものである。
 乗用車は着座位置が低いため足を前に投げ出すような運転姿勢となり、背中や腰に負担をかけ、各部の血行を悪くすることが全身疲労の原因であろう。

 次に、ジープに乗ると腹が減る。
 この原因はジョギングに匹敵するほど内蔵をゆすられるからであろうと思う。

 以前アマチュア無線に熱中していた頃、一日中しゃべっているとそれだけで実に腹が減った。
 しゃべると言う行為もけっこう腹筋を使うものだ。

 ましてラフロードでは、体全体がガラガラとゆすられて内蔵がおどり、腹筋は大活躍だ。
 運転席で体操をしているようなものである。
 おかげで私の脂肪肝もこの一年ですっかり治ってしまった。

 夏涼しく冬暖かいとは、まさに白い幌のわが53のことを言う。
 昨年の夏は猛暑であった。
 その真夏の炎天下の河原で半日を過ごしたことがある。

 53を水際から3m程離れた所に止め、鯉の投げ釣りのセットを仕掛けて運転席で待機する。
 ドアを外し後部の幌を巻き上げただけであるが、心地よい朝まづめの川風が通りぬけていく。

 1時間に1回の間隔でエサを打ち返し、待つこと7時間。
 真夏の太陽はほぼ頭上に位置し、温度計の目盛りはおおよそ37℃を示していたであろうそのときでも、私は平然と53の運転席でくつろいでいた。

 次に昨年の冬の話。
 寒気団がしばし南下し、低温注意報が出されるような日が何日も続いた。

 私の住んでいるところは北部を除いてあまり雪は降らないが、からっ風が吹いて結構寒い。
 昨年は4輪チェーンを買う予算がなかったので山間部には行かなかったが、路面が白くなるあたりまでは時々出かけた。

 そのときもヒーターのブロアーモータースイッチを「強」にしたことはない。
 「弱」でも暑くて窓を開けるほどだ。

 大型ドライヤー並みの熱風が、足元とサイドダクトから吹き出てくるからだ。
 窓を開けて走ると頭寒足熱で、野外のコタツにあたっているようで気持がよい。
優れものの幌
 幌というのは大変な優れものだ。ペラペラのバタバタの頼りないような代物であるが、熱を遮り風を防ぎその上軽く、コンパクトにたたむこともでき実に理にかなっている。

 最後に小物類について少々。
 まず筆頭はシンプルな防水5眼メーター。
 まだ水をかけたことはないが、オープン走行時突然の夕立が気にならない車はそうザラにはない。

 私はバイクに10年ほど乗っていたが、バイク並みの防水メーターにはしびれている。
 そしてそのメーターを外部ランプで照明する仕組みが、また何ともジープになくてはならない5眼メーターいえない。

 灯火管制下での作戦を考慮しての構造(?)と思われるが、釣行の深山でジーゼルエンジンのアイドリングの振動に身をまかせ、タングステンライトに照らされたこのシンプルなメーターを見ているだけで、スキットル1本のウイスキーと共に一晩過ごせるような気がすると言ったら、ちとオーバーか?一所懸命働くワイパー

 次にワイパー。
 小さなワイパーがコチョコチョ動く様は笑いをさそう。

 上にかきあげた水がダラダラとたれる状態はあまり効率的とは言えないが、私はなぜかこのワイパーを作動させるのが好きで、雨の日もいとわない。

 効率追求の世の中で、あまり効率的でないものがまじめに働いている様子を見ていると心がなごむ。
 私のような人間が多いとジープは進化しない。

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5.初めてのフルオープン(平成8年1月)

 53を初めてフルオープンにして走行したときの様子は、今でもはっきりと覚えている。
 月並みな表現で恐縮だが爽快そのものであった。

 季節も5月の新緑の頃とあって、かぐわしい風を思うぞんぶんに浴びて走り回った。
 バイクと違って片手があいているので、清涼飲料水を飲みながら峠道を気楽に飛ばすこともできる。

 あるいは杉木立の狭い林道を、馬の背にゆすられるがごとくガタゴトとゆっくり走るのもよいものだ。
 ドライブと森林浴が同時にできて気分は満点。
フルオープンは最高
 そして、フルオープンのジープは実に美しい。
 その機能美はいつまで見ていても飽きがこない。

 かつてブルース・リーが、見せ場のシーンになると必ず上半身裸になって、格闘するだけに必要な引き締まった筋肉美を披露したものだが、ジープもまた同じである。

 ジープはフルオープンのときにはじめて本来の姿になる。

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6.改造(平成8年1月)

 私は、体力的に運転が無理になるまでこの53に乗っているつもりだ。
 だから改造もボチボチやろうと思う。

 とりあえずステップを外し、はな面にCCVのステッカーを貼った。 初めてのオプション部品  トウフック 430MHzのオールバンドトランシーバーをグローブボックスに押しこみ、アンテナをスペアタイヤのハンガーにブラケットを介して取り付けた。

 ウインチは当分買えそうもないので、せめてと思いトウフックをつけた。
 当分自力で脱出不可能になりそうな難所は控えよう。

 次のタイヤはミシュランXCLかグッドイャーG90にしたいが、その前に一度下駄山を履くのも悪くない。
 近頃はタイヤもホイルも細身のものが少ないので選択に困る。

 それよりなによりも走りこむことだ。
 いろいろな山道、地形にチャレンジしよう。

 そして山菜取り、渓流釣りの足としても大いに利用しよう。
 どうやら今年も楽しくなりそうだ。

 万歳!「ジープ病」!

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7.長距離ランナー(平成9年10月)

  ジープは本来、長距離走行用には設計されていないという記事を読んだ。
 燃料タンクの容量その他の仕様により、確かに近距離用という思想がうかがわれる。

 燃料タンクの容量もさることながら、少し走り出したとたん直感的に乗った誰しもがそう感じるであろう。
 私も購入当初はそう思っていたが、使っているうちに実感から考えが変わってきた。

 話が少々堅苦しくなって恐縮だが、ここで「長距離走行」ということについて考えてみる。
 今まで車に関する書物を多少読んだが、「長距離走行とは何Kmからである」という明確な記述にであった記憶がない。

 そこで、まず燃料タンクの容量から考えた。
 53の燃料タンクは45リットルである。

 私の53は1リットル当り平均13.2Km走るから、1回の燃料補給で594Km走れる計算になる。
 しかし、本来のガソリン車なら1リットル当りせいぜい7Kmくらいであろうから、315Kmとなる。

 もう1台のレガシーは60リットルの燃料タンクを装備し、1リットル当り平均7.4Km走るから444Kmとなる。
 レガシーは若干燃費が悪いが、一般的な乗用車ならおおむね500Km前後か。

 つまりそれぞれのクラスの車にとって、燃料を満タンにした後に補給せずに走れる最長距離以上を、「長距離」の目安と考えてみた。

 一方時間の面から考えた。
 わが国の最近の法定労働時間は、平均1日8時間である。
 それを5割上回る12時間働いたとしたら、かなりの長時間労働といえるのではないか。

 一般道での平均時速を40Km(パソコン地図ソフトの例)として、12時間走ると480Kmとなる。
 以上二つの面から考え、一般道において正式な睡眠を取らずに走る24時間以内の距離の合計がおよそ450〜500Kmを超えれば、「長距離走行」といえるのではないか。

  さて、私のジープによる長距離走行の話であるが、実例として釣行の話になる。
 私は昨年から海釣りを始めた。
 新潟県新潟市五十嵐漁港から船に乗り、沖合20分程の船釣りである。

  私の住んでいる所から五十嵐漁港までは、片道約240Km。
 関越高速を使えば3時間の距離にすぎないが、一般国道を走ると6〜7時間ほどかかる。

 今までに10回行ったが、高速を使ったのは同行者がいた3回だけ。
 残りの7回はすべて一般国道を走った。 

 前述したが、私は平成元年登録のレガシィ4WDセダンと、平成4年登録の53を所有している。
 通勤や年老いた両親、あるいはあまり親しくない知人を同乗させる必要がある場合はレガシィを使用するが、それ以外は家族で出かける場合もほとんど53である。
  従って片道240Kmのこの海釣りにも53で行く。

  そのときのスケジュールは次のとおりである。
 我が家を13時に出発し、国道17号、8号、116号を経由して、20時頃五十嵐漁港に到着する。

 漁港付近の釣り道具屋で、氷や仕掛け、釣り情報を仕入れた後、22時から用意を始め、23時30分に乗船・出港する。
 この間に仮眠をこころみるが、興奮のため眠れたことはほとんどない。

 出港後20分ほど航行して釣りの開始となる。 
 釣りは遊びとはいえ結構な重労働である。
 10本バリのサビキの仕掛けに太ったアジが鈴なりになると、上げるだけでも相当力がいる。

 サバなどがかかれば暴れまわるので、おまつりにならないようにするだけで骨が折れる。
 釣れなければ釣れないで、竿をあおったりしゃくったり、またけっこうな労働である。

  この作業は翌朝4時に終了し、すっかり明るくなった港に4時半帰港。
 53に荷物を積み込み5時に出発。

 途中30分程仮眠を取りながら12時頃自宅へたどり着く。
 これが23時間におよぶ、私の海釣りの行程である。

  一般国道を240Km走行後5時間の漁業に従事し、ほぼ徹夜の状態で再び240Kmを走行するというのは、私のドライバー歴の中でもかなりハードなスケジュールである。
 ましてジープではと思われがちだが、これが不思議と疲れない。

 実は53の幌修理のために、レガシーでこの一般国道コースを走ったことがある。
 エアコン、オートマチックで最初のうちは快適である。
 ところが160Kmも走ると運転が飽きてくる。

 特に体調が悪いわけでもないのに、体が何となくグッタリ(ショックのヘタリの影響は考えられるが)する。

 そして、この先まだ80Kmもあるのかとうんざりする。
 ガタガタ、バタバタ、排気ガスを浴びながら走る53のほうが疲れないとはどういうことか。
 いくら好きでも、気合が入っていても、回数が重なれば疲れるものは疲れるはずだ。

 これは私だけの感想ではない。
 一度だけ親しい先輩をこの釣行に招待したときのことである。

 その先輩の後日談によると、「やっとの思いで助手席によじ登って100mも走り出すと、この先往復500Kmも体が持つだろうかという恐怖感に襲われた」という。

 この時、往きは一般国道で帰りは高速を使用したのであるが、それにしても、徹夜の釣りとジープによる500Km走行は経験しないと不安である。

 しかし結果は意外であった。
 翌日、自宅前で53から降りる間際に「全然疲れなかったよ!」と言ってくれた先輩の言葉は、社交辞令としても過分である。

 この日先輩は「ジープ病」に感染したのだろうか?
 げに不思議な「ジープ病」である。

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8.キャンピング・ジープ(平成10年4月)

 これまでの私のキャンプは、小型山岳用テントを用いた非常に軽量コンパクトなものである。
 家族5人の装備が、セダンのトランクに納まってしまう。

 ましてや、一人旅のときは推して知るべしである。
 しかし53を購入して以来、一人旅のときは53の中で快適に寝泊りできないものかと考えた。

 設営がきわめて簡単なドーム型テントではあるが、それでも雨の日などは何かと面倒である。
 よく見れば、53はエンジンがついたテントそのものである。
 しかも高床式で、豪雨の場合も床上浸水の心配がない。

 まずは運転席を持ち上げ、助手席をたたんで寝袋を広げてみる。燃料タンクの上に足をのせて、荷台ななめに横たわると何とか寝られないことはない
 マットでも敷けば更にましにはなるが助手席を上げれば荷台はベットにそれでも芸がない。

 あれやこれや考えあぐね、ホームセンター回りをしているうちに、大変あんばいの良いものを見つけた。

 それは黒と緑のツートンカラーの、ビニールレザー張りの座イスである。
 車のシート風で見栄えも良く、大変軽い上に値段も安い。
 寸法的にも53の荷台に二つ並べてなんとか収まった。

 一人旅のときは、これを一つ積んでいくと実に具合が良い。
 平にして荷台の対角線上に置くと、助手席の燃料タンクと面が合って大変快適なベッドになる。
 身長165Cmの私は、完全に体を水平に横たえられる。

 快適に眠ろうとした場合、体を水平にできるか否かは大問題である。
 いくら良くできたフルフラットシートといえども、多少のデコボコはあるものだ。

 その他の装備として、ブタンガス仕様のストーブとランタン、寝袋、飲料水、食料と少々の食器類を積み込めば、キャリアゲートは格好な調理場ンピング・ジープの出来上がりだ。

 ジープは車内に平面が多いので、実に便利である。
 タイヤハウスは調理台兼食卓、燃料タンク上は荷物置場、荷台の扉はストーブ置き場兼洗い場である。

 「ものぐさ太郎」ではないが、荷台の真中に陣取ってちょいと手をのばせば、何でも間にあう。
 荷台の扉など鍋の汁がふきこぼれようが、たらそうが、水をザバッと流せば世話がない。
 まさにジープは万能車であると感激した。

 しかし、現時点におけるマイナス面を少々。
 天幕に映った、朝の太陽のやわらかな木もれ日による目覚めは、テントによるキャンプの捨てがたい魅力である。
 日常生活から切り離された、心地よい別の空間を発見する。

 それにくらべキャンピング・ジープによる目覚めでは、寝ぼけまなこに飛び込む、幌骨、パイプ、鉄板、レバーなどの武骨な装備により、「ここは戦場か?工事場か?」という錯覚にとらわれることがある。

 また、人間臭さがただよう市街地付近での野営では、遠くにチラチラ見える人家の灯りを見ながら「おれはホームレスか?」という哀愁に襲われたこともあった。

 修行が足りないのか軟弱なのか、私のジープ病はまだまだ悪化の余地がありそうだ。

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9.結婚20周年記念イベント・カー(平成10年7月)

 私は今年で結婚20周年を迎えた。
 20年前の新婚旅行は、車で北海道(東京〜北海道間はフェリー)に行った。
 そこで現在、結婚20周年記念イベントに、再びジープによる全行程2,529Km、6泊7日の北海道旅行を計画中である。

 宿泊予定地は、青森県十和田湖、北海道函館市の大沼、支笏湖、かなやま湖、ニセコ五色温泉、青森県恐山温泉である。
 一日の最長走行距離763Km、最短走行距離187Km、平均走行距離361Km(一部フェリー区間72Km)の、ジープ旅である。

 ただし、この記念イベント参加者は私と愚妻のみ。
 その間3人の子供は、私の両親もしくは愚妻の実家に預けられる運命にある。
 その理由は、子供が誰も行きたがらないからである。

 なぜなら宿泊予定地から推察できるように、ほとんどの宿泊は野営(キャンプ)を予定しているからだ。
 近頃の子供は、野営旅行による難行苦行などまっぴらごめんである。

 というと聞こえが良いが、子供が同行を強く希望したらレガシーセダンで行くかというとこれがまた難しい。
 本音は、とにかくジープで行きたいのである。

 「結婚20週年記念」というカンムリをつけて休みを取って、ジープで走って走って、ヘトヘトになるまで走りまくりたいだけなのだ。

 たとえ一人でも行くぞ! げにわがままな「ジープ病」!

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10.:結婚20周年記念イベント計画(平成10年7月)

 53による「長距離走行=結婚20周年記念=北海道旅行」という図式が私の脳裏に浮かぶようになったのは、一年ほど前からである。

 結婚10周年のときに、新婚旅行で行った北海道へ再び行こうと話し合いながらも、結局実行できなかった思いがくすぶり続けていたのだ。

 旅行計画用のパソコン地図ソフトを購入したの正月休みであった。
 スタートとゴール地点をマークすると、数十秒で最短時間の走行ルートを検索してくれる優れものだ。
 これを使って計画を立てた。

 まず宿泊予定地をキャンプ場で検索し、その中から温泉と湖が近い場所を選ぶ。
 ホテル・旅館・テントと、どこへでも泊れる体制だ。
 湖にこだわるのは釣が好きなせいか、どうも水面がないと心が落ち着かないのである。

 初日と最終日は一日で走りきる最長距離を設定した。
 フェリー乗船区間は最短とし、北海道内はできるだけ山間部を走行する。

 愚妻にとって不幸なことに、私はグルメや都市部の観光にはまったく興味がない。
 できることなら原野や林道ばかりを走り回りたいのだ。

 こうした私の思惑にしたがって、6泊7日の旅行計画はコツコツと半年がかりで立てられた。

 53によるこの計画には、もとより3人の子供の同伴は入っていなかった。
 乗車定員をはじめ、1日の走行距離・走行場所はまったく子供向きではない。

 しょせん親子は遠からず別々の人生を歩まねばならない。
 親離れ、子離れの良い機会であるなどと屁理屈がつけられた。

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11.結婚20周年記念イベント実行前夜(平成10年7月)

 桜が散り新緑の季節が終わり、いつ明けるとも知れないような長梅雨がやっと終わりをむかえるころ、実行の機会がやってきた。
 今年は正月よりの半年余り、好きな釣りに一度しか行けないほど多忙であった。

 その忙しさにも何とかメドが立ったのだ。
 休暇期間は世間一般の夏休みより一足早い、7月25日(土)〜8月2日(日)に決定した。

 会社の実態から、9連休を取るのは少々勇気がいる作業である。
 今までは5連休がせいぜいであった。

 7月に入るとすぐ「実は結婚20周年なので…」と上司に神妙な顔で申し出て、このハードルを何とかクリアーする。
 部下の間にもそれとなく話を流して雰囲気づくりにつとめた。

 その結果、私の北海道旅行は周囲にしっかり認知されることになった。
 ただしその交通手段について、「ジープ」という固有名詞は一言も語られることはなかった。

 周囲へのジープ病の発覚は、私のもっとも恐れるところであるから…。

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12.爆走3,000q(平成10年7月)

7月25日(土) 晴れ
 いよいよ出発の朝がきた。
 今日は十和田湖までの600qあまりを走る予定だ。

 6:30 両親と子供たちに見送られて出発する。
 夜来の雨も上がり、あたりが朝日によって金色に輝いている。

 土曜の朝ということもあり、交通量もさほど多くない。
 順調なすべり出しだ。

 窓のフィルムをおろし、前面のベンチュレーションを全開にする。
 上半身に涼風をあびるので、真夏ではあるが少しも暑く感じない。

 8:30 佐野インターより東北自動車道に入る。
 ここから長い高速道路の旅の始まりだ。

 53にふさわしい旅とは言いがたいが、53とは良路であろうが悪路であろうが、どこまでも共に走り続ける覚野を越え山を越えひたすら走る悟を決めたのだ。

 巡行速度を80qにとる。
 右腕を窓枠にかけ、ゆったりとした気分で走り続ける。

 映画「イージーライダー」のツーリング・シーンが脳裏に浮かぶ。
 4DR6型ディーゼルエンジンの規則正しい鼓動、幌のバタツキ、顔に当たる涼風、ロードノイズまでもすべてが心地よい。

 そして、次々と展開される景色を見ていると、時間のたつのさえ忘れてしまう。
 フワフワとした白い綿をちぎったような雲を見上げ、キラキラ光る川を何本も渡り、悠然とした山々をあとにしてひたすら走りに走った。

 18:00 目的地の十和田湖に着いた。
 目の前に広大な湖が広がる。

 湖沿いの道の反対側には清潔そうなキャンプサイトがあり、すでにかなりの数のキャンパーが夕食のしたくをしているのが見えた。
 休憩のために我々は、ホテル街そばの湖が見える駐車場で停車した。

 車を止めるや否や、一人の自転車の老人が近づいて来た。
 「だんなさん、いいお宿がありますよ。ご予算はおいくらですか?」

 満面笑顔で、もみ手・すり手の老人のもの腰は低かったが、百戦錬磨のしぶとさが感じられた。
 私の脳裏に、先ほどの清潔そうなテントサイトがチラリと浮かんで消えた。

 確かに今回の旅にはテントと寝袋を用意してきた。
 しかし日頃より、たまには愚妻に温泉でのあげ膳すえ膳の思いをさせてやりたいとも考えていた。

 私はこの老人の言葉を天の声と受けとめ、彼の自転車のあとに従った。

 本日の走行距離653q。


7月26日(日) 晴れ
 7:40 十和田湖を出発する。
 景勝地奥入瀬渓流沿いの十和田道を経由して、一路下北半島は大間に向かう。

 今回の旅は極力陸路を使う予定である。
 地図で見ると大間崎は、本州最北端の地である。
 荒涼とした風景を予想していたが、海岸の路沿いには土産屋がひしめき、大変にぎやかであった。
十和田道
 大間発16:10の函館行きフェリーに53とともに乗り込む。
 フェリーのフェリーに乗り込む内部は天井が高くガランとしていた。

 車両が一列になって乗り込む様は、戦争映画で見た上陸用舟艇のシーンを思い出す。

 船室での退屈な40分に比べ、函館に上陸するときの気分は高揚していた。
 たぶん他の乗客もそうなのであろろう。
 フェリーのゲートがガラガラと鈍い金属音を立てておりきると、各車脱兎のごとく函館市内に消えて行った。

 国道5号沿いの赤松並木を通って、目的地の大沼公園に到着したのは18:40であった。
 北海道内を走る車の平均速度が早いのには、今回もさっそく驚かされた。

 大沼公園に来る間、70qで走っていても邪魔にされる。
 追い立てられるようにして、速度計は80qを示している。
 それでも時々追い越しをかけられることがあった。

 大沼公園は函館近郊にもかかわらず大変閑静なところで、大小複数の沼で構成されている。
 小大沼公園さい沼にはスイレンが繁茂し、ときどきウシガエルの不気味な声が響きわたっていた。

 この日はガイドブックで知った、オーナーの趣味がバイク・スキー・釣の、ペンション「風」に宿泊した。
 オーナーとはバイクや釣の話に花が咲いたが、驚いたのは私の勤務地に彼がかつて1年半もいたことがあるというくだりであった。

 何と世間はせまいものだ。
 ここまで来て地元の話が出るとは。

 たまたまこの日は界隈の夏祭りとあって、花火の爆音が夜の9時過ぎまでとどろいていた。

 本日の走行距離228q。


7月27日(月) 晴れ
 8:30 大沼公園を出発。
 海の景色を楽しみながら国道5号を走る。

 内浦湾に面したこの国道沿いには、蟹の土産屋が多い。
 子供との約束に、「蟹の土産」という項目があった。

 その約束を果たすべく一軒の土産屋に入ってみたが、蟹と名がつくものはどれもこれも結構よい値段である。
 地元の人はどこで蟹を買っているのだろうか?
 愚妻との会話の中で素朴な疑問が浮上した。

 その結論より町の魚屋をさがすことになり、さらに魚屋の情報を仕入れるために腹ごしらえもあって鮨屋に飛び込んだ。
 勘定を払いながら鮨屋の女将に、「国道に蟹屋さんがたくさん並んでいますが、地元の人もあそこで買うのですか?」と用意した質問をしてみた。

 女将はニヤリと笑うと、「地元の人はあまり買わないですね」と遠慮がちに言った。

 新鮮な蟹を土産にしたいのだと言うと、女将は捕りたての毛蟹を宅急便で送ってくれると言う。
 さし出された名刺を見ると、なんと美人の女将は地元水産会社の社長でもあった。

 予想もつかない物事の展開とは、まさにこのことだと思った。
 だから人生は面白い。
 さっそく住所・氏名を告げて宅配便の手続きをした。

 子供との約束にメドをたてた後、国道37号を経由して洞爺湖に到着する。
 洞爺湖は洞爺湖畔にて予想以上に大きい湖だ。

 かなりの時間をかけて一周してみたが観光客もまだ少なく、湖の周囲は静寂を保っている。
 岸辺の近くで、湖を背景に53と共に記念写真を何枚も撮った。

 国道453号、276号を経て目的地の支笏湖へ到着したのは17:10。
 ここも大変に広い湖だ。
 湖沿いの道を走っていると海岸と錯覚するほどだ。

 混雑するキャンプ場を横目に、丸駒温泉旅館へ直行する。
 駐車場は満車に近かったが、かろうじて部屋が取れてほっとする。
 すっかり温泉づいてしまった。

 お茶を入れに来たお姐さんの話を聞いて驚いた。
 妹が私の居住地より10q程のところに嫁いでいて、そこに行ったことのある彼女は周囲の様子をよく知っていた。

 また地元の話に花が咲くとは…。
 世間がますます狭くなった。

 露天風呂から見る支笏湖は雄大だった。
 霧が周囲の森林に垂れ込め、神秘的な雰囲気をかもし出していた。

 眼下の桟橋にはクルーザーが係留されている。
 こんなクルーザーで毎日釣ができたらどんなによいだろうか…。
 ひとしきり夢を見た。

 本日の走行距離274q。


7月28日(火) 雨
 8:30 支笏湖を出発する。
 朝から雨が降っていた。

 国道276号を苫小牧より国道235号へと進み、門別町で国道237号に入る。
 別名「日高国道」をひた走り日高町を通過すると、道は「富良野国道」へと名前が変わる。

 ラベンダー畑は天国の入り口か富良野と言えばラベンダー畑とドラマのセットとくるが、ラベンダー畑だけはぜひ見たいと言う愚妻の申し出により、雨のラベンダー畑に立ち寄った。

 森林を切り開いた広大な花畑は、一面薄いアズキ色のラベンダーで埋めつくされていた。
 その前で私は、天国のお花畑を垣間見たような錯覚に陥った。

 本日は金山湖周辺に宿泊する予定だったが、新婚旅行で宿泊した然別湖まで足をのばすことにした。

 しかし、かつて宿泊した湖畔の小さなホテルは、当時の面影がまったくない高層ビルに変身しており、しかも満室で泊ることができなかった。

 しかたがないので、その先の糠平温泉に宿を取った。
 17:00 到着。

 本日の走行距離364q。

7月29日(水) 晴れ
 8:30 糠平温泉を出発する。
 国道273号を進むが、しばらくの間は見わたす限りの直線が続く。

 いかにも北海道の道である。
 とある大きなフキの葉が茂る日当たりの良い切り通しの斜面に、一頭の鹿がいた。 35mm広角撮影で豆粒のシカ 何やら草を食んでいる。

 さっそく53より降りて写真の撮影にとりかかる。
 望遠レンズの故障により、広角35oで撮った鹿はマメツブの様だったが、良い旅の記念になった。

 やがて国道は39号となる。
 国道沿いの観光案内板によると、大雪山麓の層雲峡は景勝地らしい。

 せっかく来たのだからと滝を見物することにした。
 大勢の観光客の頭越しに、はるかに流星の滝と銀河の滝見上げる岩山の合間から、「流星の滝」「銀河の滝」の二筋の白い流れがほとばしり落ちていた。

 上川町のあたりの山中で突然の渋滞に遭遇する。
 対向車の情報では事故らしい。

 地元の何台かの車は右手に消える林道に入っていく。
 迂回路か!?
 林道なら待ってましたとばかりに、無謀にもそれらの車のあとについて行く。

 しばらく雨が降らなかったとみえて、5m先も見えないモウモウの砂埃である。
 5分ほど走ると、突然視界が開けて見渡す限りの丘陵地帯に出る。
 道は舗装路となりやがてT字路につき当たった。

 驚いたことに、先行車はそのT字路をバラバラと右に左に曲がって行った。
 一体どちらへ曲がったらよいのか、思わぬ事態の展開にうろたえた私は、その後どのようにして再び国道39号にもどったのか記憶がない。

 人家も無く、持参した地図にも記載されてない丘陵地帯のやけに立派な舗装路を、方向感覚だけをたよりに1時間ほど無我夢中で走り回ったのである。

 旭川から道央自動車道にのる。
 一気に札幌まで南下し、国道230号から羊蹄山の麓の国道276号をニセコへ。
 ニセコの山中では、前後して痩せこけた2匹のキタキツネにであった。キツネのコン太君
 いずれも車道を前方よりひょろひょろ歩いて来た。
 53を止めて呼んでみるとむこうも立ち止まる。

 おりてカメラを構えると、および腰ながらまだ逃げない。
 鼻を突き出して様子をうかがっている。

 餌でももらえると思ったのかもしれない。
 観光客が餌付けをしているのだろう。
 あいにく餌になるようなものは何も持っていなかった。

 18:00 遅い到着という事もあって何軒かのホテルに断られた後、やっと一軒のホテルにころがりこむ。
 宿泊料が安いのは結構なことだったが、トイレの水が止まらず夜中に2度ボーイを呼ぶハメになった。

 本日の走行距離395q。


7月30日(木) 曇りのち晴れ
 7:45 ニセコを出発する。
 今日は本土に戻る日だ。

 函館発13:50の大間行きフェリーの時間に合わせて走行する。
 国道5号を長万部まで来ると、函館までは往路と同じコースになる。

 函館では、北海道最後の記念に函館山に登る。
 山頂より見下ろすと下界はガスでほとんど見えない。
 Tシャツ一枚では鳥肌が立つほど涼しく、土産店ではストーブが焚かれていた。

 大間に上陸した我々は、下北半島は国道279号をひたすら南下した。
 予定では恐山温泉に泊るつもりであったが、霊山の麓に泊るのは恐れ多いということになり、代わりの宿泊地を探すことにし浅虫温泉た。

 しかし予定外の行動には困難がつきまとうものである。
 どこまで行っても適当な宿が見つからない。
 今日こそはテント泊かと観念したが、もう少しで青森というところで、浅虫温泉に行き当たった。

 帰って聞けば有名な温泉と言うことであったが、観光地に疎い私には初耳であった。
 18:00 とにもかくにもほっとして、海の見えるホテルの一室におさまった。

 今回の旅で海沿いのホテルは初めてである。
 その最上階の大浴場から見た、日本海に沈む夕日は素晴らしいの一言に尽きる。

 太陽が完全に沈んでも水平線はしばらく赤く燃えつづけていた。

 本日の走行距離325q。


7月31日(金) 晴れときどきにわか雨
 8:20 浅虫温泉を出発する。

 いよいよわが家に帰る日だ。
 6泊もすると旅をしたという手ごたえを感じるものだ。

 青森から東北自動車道にのる。
 4DR6型ディーゼルエンジンの規則正しい鼓動、幌のバタツキとロードノイズをBGMに、そして両窓と前面のベンチュレーションよりの心地よい風を浴びながら53を走らせた。

 高速走行の場合、巡行速度は80qか100qのいずれかにとる。
 のんびり走りたいときは80q、時間を稼ぎたいときは100qにする。
 巡行速度が80qの場合は1リットル/15q走るが、100q以上の場合は1リットル/8qに落ちこんだ。

 北海道内を70〜80qで流していたときは、1リットル/18qを記録したこともあった。
 ちなみに、この3年間2万キロ余の平均燃費は、1リットル/13.2qである。
 53は実に経済的だ。

 郡山Jctより磐越自動車道に入り、新潟より北陸自動車道、長岡Jctより関越自動車道を経由してわが家に到着したのは20:00であった。

 本日の走行距離852q。

 全走行距離3,091qの53による旅が終わった。
 この間のわが53の平均燃費は、1リットル/12.0qであった。

 今回の旅で再確認したこと、 それは53による走行が疲れないということである。
 最終日などは、まだ走り足りない感じもしたほどだ。

 十分なる換気、板バネおよびショートホイールベースによるピッチングと、オールマニュアルによる適度な筋肉の使用が、血液の循環を良好にし老廃物を効率良く排泄させ、その結果体内に疲れを蓄積させないのだろうか。

 あるいは、私と愚妻までが感染した、疲れさえ麻痺するというジープ病の末期的症状なのだろうか。
 いずれにせよ、げに不思議なジープ病である。

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13.53がファーストカーになる日(平成11年4月)

 長女が車の免許を取ることになった。
 免許取得のあかつきには、とりあえず私が現在通勤等に使用している平成元年製レガシー4WDセダンが、娘のご用をつとめることになった。

 もとより、娘がいつまでもこのオジン車に乗っているとも思えないが、初心者マークがついている間くらいなんとかもってくれればよいと思っている。

 いずれにせよ近い将来、私にとって53が正真正銘のファースト・カーになる。
 53にしてみればこの日を待ちわびていたのかもしれないが、私のジープ病があまねく天下にさらされる日でもある。

 「やっぱり彼はどこか変わっているのかも知れないね。ああいう妙な車に乗っているということは」という世間のうわさが一段落すればどうということではないが、平均的なサラリーマンを装っている私にとって、己の病を公表するのは若干勇気がいることである。

 そうした意識を持つようになったのは、次のような体験があったからである。

 ある懇親会に出席したときのことである。
 50歳前後と思われる隣席の紳士は、職業が何であるかわからないが、なかなかやり手の雰囲気がある。
 さしさわりのない話をしているうちに、彼が弁護士であることが判明した。

 会話の糸口をつかんだ私は、会社の関係で知っているM弁護士の名前を上げると、彼もよく知っているという。
 そして、「M先生の趣味は写真と車で、写真の個展はときどき開いていらっしゃいますし、愛車のポルシェは他人に手を触れさせないほど大切にしていらっしゃいますよ」と言った。

 私は、「M先生の写真の趣味は知っていましたが、車にそんなに凝っているとは知りませんでしたよ。
 いつも、事務所の駐車場に置いてあるBMWは営業車ですかね?」と応えた。

 趣味の話が出たついでに、「実は私も若干車には興味がありまして、ジープに乗っているんですよ。渓流釣りや山菜取りのよい足にもなりますし」と言った。

 隣席の弁護士先生は、「ジープと言うと…、アメリカ製のものですか?それともミツビシ製のものですか?」とけげんそうな顔で言うので、「正真正銘の三菱製幌のジープです。いやー、フルオープンで走ると実に気分がいいですよ」と答えた。

 すると弁護士先生は一瞬間を置いて、「そういう話をするのはちょっと勇気がいりませんか?」と質問してきた。

 ジープの話をするのに勇気がいるとは…? 私は返答に窮したが、「ええまあ、あまり自慢できる趣味でもありませんから、ハハハハ」とお茶をにごした。

 そう言えば、弁護士先生の趣味は「ゴルフを少々」だったっけ。
 その程度に答えておくのが、初対面の者に対するエリート社会の常識なのか。

 私は平凡なサラリーマンでエリート階級と付き合いはないが、彼らにとって「ホロのジープ」「フルオープン」「クロカン」「ケイリュウヅリ」「サンサイトリ」など、うさん臭いものの筆頭なのだろう。

 彼らの世界では、少しでも毛色の変わった趣味の持ち主は奇人変人の烙印をおされると見える。
 それは彼らが順調な出世や商売をしていく上で、一番恐れることなのだろう。
 「危険な話」は相手を熟知してからすべきだ。

 弁護士先生との会話がその後どうなったのか、今となっては定かでない。
 「勇気がいりませんか?」と言われて、それ以上話を続ける勇気が急速に萎えてしまったと思われる。

 いずれにせよ誰がどう思おうが、53は間もなく私にとって正真正銘のファーストカーになる。
 つまり53で通勤し、上司・部下と食事に行き、ときには社用で取引会社に行き、冠婚葬祭に参列し、旅行に行き、クロカンのまね事をし、もちろん釣にも山菜取りにも行く。

 そのうち幌を取替え錆を補修しながら、私があの運転台によじ登れなくなるまでずっとファーストカーであり続けるのだ。
 考えただけでもぞっとするほど素晴らしいことである。
 ジープ病ここに極まれリといった心境だ。

 昔から「老いらくの恋の炎は消しがたし」と言うが、老いらくのジープ病も不治の病なのかもしれない。

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14.下駄山賛歌(平成11年5月)

 念願の下駄山を履いた。
 ダンロップのライトトラック7・00-15である。
 ジープなら最初に下駄山をゲタ山こと ダンロップ ライトトラック7・00‐15履きたいと思っていたが、付いていた標準タイヤが減るまで待っていた。
 当分乗る53である。あせらずあわてずいろいろなタイヤを試すつもりだ。

 タイヤを交換してまず感じたこと。
 「ハンドルが軽い!」片手でも軽々回せる。
 考えてみれば、すり減った標準ラジアルは、接地面積が大きかったはずだ。

 次に直進安定性。
 「思ったほど悪くない!!」バイアスタイヤというと、路面のデコボコにハンドルを取られるというかんばしくない思い出があったが、今まで履いていた標準ラジアルとたいして違わない。

 そして高速の騒音については、ジープ病患者が表現すると「うるさい」のではなく、「なかなかの迫力!」となる。

 肝心の悪路では今までの標準ラジアルがあまりにもふがい無いので、バイアスタイヤ故のサイドの強さと、下駄の出歯はいやがうえにも「心強い!!!」となり、ひとりよがりな下駄山賛歌となった。

 そうそう、ブレーキ性能だのコーナリング特性などというものもあったが、「何とか、止まればよい・曲がればよい」の世界であるので、もともと気にはしていない。

 ぶるわけではないが。

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15.尺骨神経麻痺(平成11年6月)

 しばらく前から左手の手のひらが痛む。
 そして痛むだけでなく、指をまっすぐに伸ばそうとしても小指だけどうしても伸ばせない。
 薬指と小指の間に隙間ができてしまい力が入らない。

 思い当たる節があった。
 下駄山に交換する際に、堅くしまったホイールナットを十字レンチで思いきり回したときに、小指のつけ根の手首に近い部分にあざを作った。

 そのときは少々痛む程度であったが、その痛みがなかなか治らないのだ。
 そしてだんだん指に力が入らなくなってきた。

 愚妻いわく「あざができるほど、馬鹿力入れなくてもいいのじゃないの?」

 湿布薬を張ってみたが改善のきざしが見えない。
 親戚の接骨院に行った。
 マッサージやら低周波治療やら試みたが、かんばしくない。

 個人経営の整形外科に行った。
 老医は私の話を一通り聞くと、名刺を出してきて小指と薬指の間にはさませて、引っ張るから力を入れろと言う。
 私は精一杯はさんだつもりであったが、老医が引っ張るといとも簡単にスルリと抜けてしまった。

 老医は何やら古めかしい文献を出してきて、この症状は単に手のひらを痛めただけでなく、腕の神経の麻痺からきているという。
 鷲手症といって、悪化すると5本の指が内側に曲がったままになってしまう、相当厄介な障害である。

 見せられた古めかしい文献には、5本の指が鷲の指のように曲がった、見るもおどろおどろしい写真がのっていた。

 大病院を紹介するから精密検査を受けるようにと言われ、整形外科を後にした。
 私は53のハンドル握りながら、もしかしたら間もなくこのハンドルを握れなくなるかもしれないと、暗澹たる気分になった。

 紹介された大病院の整形外科に行った。
 その医師は整形外科でも、なんと「手が専門」ということである。

 私の話をうなずきながら聞いた後、手のひらのあちこちを押したりつねったりして反応を調べた。
 さらに3方向からのレントゲン写真の結果を見ておもむろに言った。

 「レントゲンの結果を見る限り、骨には異常がありません。これは工具により手を圧迫し、尺骨(しゃっこつ)神経を傷めたことによる、尺骨神経麻痺です。
 特に治療法はありません。
 3ヶ月かかるか、半年かかるか自然治癒を待つしかありません。」

 半日がかりにもかかわらず、大病院での診断結果は私の心を晴々させるのに十分であった。
 「53のハンドルを握る事ができなくなるかもしれない」、という心配から開放されて。
 そして医師の言葉どおり、私の左手は約3ヵ月後に完治したのである。

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16.初めてのスポーツ刈(平成11年8月)

 私の現在の職業上(総務部員)、ヘアースタイルは7:3でスーツ姿がもっとも適していると思われる。
 できれば車も4ドアセダンが望ましい。

 茶髪やひげなどとんでもない。
 見るからに常識が服を着て歩いているようでないといけない、何とも窮屈な職場である。

 しかしながら、53がファーストカーになったその日から、私はチラリと本性の一端を見せざるを得なくなった。
 「どうしたんだいこの車は?」という上司のいぶかしそうな質問から、「うわー!カッコいいですねー!」という若者の感想まで、約一月間はあれこれ言いわけに苦労をした。

 質問ぜめが収まると、間もなく季節は新緑から梅雨をへて入道雲のお出ましとなった。
 ネクタイを締めての真夏の通勤では、いくら窓を全開にしても汗がタラリと頬をつたう。

 そうなると、窓やベンチレーションからの勢いのよい風がアダとなって、せっかく7:3にセットしたヘアースタイルは見るも無残な姿となる。
 53で通勤を始めて一番の悩みは、うっとおしい髪の毛との闘いとなった。

 幸い行きつけの床屋は、中学の同級生である。
 大人になってから髪を短くしたことの無い私は、最初からスポーツ刈は勇気がいるので、あれこれ注文をつけて短めに仕上げてもらった。

 「なかなか、いなせですね」とお世辞を言ってくれる女子社員の言葉を真に受けて、2回目は「思い切り短くやっつけてくれ!」と注文する。
 我ながら見事なスポーツ刈に仕上がった。
 53に乗ると頭皮に心地よい風が直接当たって、何ともいえずさわやかである。

 いくら汗をかいても、タオルで頭をツルリとなでるだけでよい。
 メンテナンス・フリーとはこのことだ。

 やはりジープはスポーツ刈に限る。
 私はやっと生活の全てが53になじんだと満足した。

 だがこのスポーツ刈、第三者の間でどうも評判がよくない。

 愚妻いわく「最近毛が多くないんだから。血管が浮き出て見えてるよ!」 
 娘達いわく「最低!!」 

 会社の同僚いわく「何だか人相ずいぶん悪くなったよ。その筋の人みたい」 
 そして上司は無言で目をむいた。

 しかし私は誰がなんと言おうと、53に乗っている限りスポーツ刈をやめる気はない。
 例えそれが理由で異動になろうとも。

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17.ジープ病蔓延計画(平成11年11月)

 娘のおかげで、我が家にもインターネットがやってきた。
 あまりうるさく言うので、とうとう加入することにしたのだ。
 長女のパソコンは最新のノートであるが、私のパソコンは平成7年12月製のロートルである。

 メモリー、ハードデスクを増設して何とか動いているがモデムはない。
 インターネットをする時は娘のノートを借りれば十分だと思っていたが、いちいち人の道具を借りるのも面倒なことに気がついた。
 それにメールのやりとりも、お互いに内容が読めてしまい具合が悪い。

 自分用に安いモデムを買ってきたのが運のつきで、テレホーダイを契約し、プロバイダーも月額固定制にするなど、気がつくとインターネットにどっぷりとつかっていた。

 もちろんまっ先に見たのはジープのページである。
 「JEEP」「jeep」「ジープ」「じーぷ」とキーワードを入れても、数年前まではあまりページがなかったのだが、最近はずいぶんページが増えている。

 いやはや、いろいろな人がいるものだ。
 ジープでバック転をした武勇伝やら、林道ツーリング、整備の話、写真集、掲示板と、あれこれ見歩いていると時間がたつのを忘れてしまう。

 今まで雑誌、テレビ、ビデオ、そして数少ないイベント参加でしか知り得なかった世界が、一気に広がった感じである。

 そうだ、ジープに興味のある人はみんなでホームページを作って、自分の世界を見せ合えばよいのだ。
 サーバーは無料で借りられるし、体裁のよいホームページが簡単にできる便利なツールもある。

 メールを使えば瞬時のうちに双方向通信もできる。
 ネット・ミーティングの輪が広がれば、ジープを持っていない若者でも、イベントになかなか行けない人でも、簡単に自分に合った世界の住人になれる。
 都会の孤独もよい方向へ解消できるのではないか。

 私はバック転もしたことがないし、整備もふがいない。
 しかし、ジープに対する思い入れ、ジープで走り回ることは大好きなので、ジープのある風景の写真集でも掲載しよう。
 例え同型の工業製品として別の53が存在しても、私の53は他の53とは微妙に違うはずだ。

 また、それをテーマに撮影できるのは私しかいない。
 そして私の53が何らかの理由でこの世から消滅したとしても、私がプロバイダーとの契約を解除しない限り、サーバー上にその雄姿は残り続けるのだ。

 更に私が「代々契約を続けるべし」と遺言しようものなら、私の53は人類が生存する限りサーバー上で生き続け、全世界の人々に閲覧され続けるのだ。
 なんと素晴らしいことだろう!

 あれこれ考えていると夢が膨らんできた。
 表現力と費用対効果から、35ミリリバーサルをフォトCDに落として使うのが一番ベターか。
 ツアイスレンズの味を、ホームページ上の画面に再現できるだろうか?

 今私の手元には、「ホームページ・ビルダー」なるホームページ制作ソフトがある。
 私のジープ病を世界に向けて発信し、多くの人々に伝染させようという危険な計画を開始するために。

 名づけて「ジープ病蔓延計画」

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18.CCV誌読者よりの電話(平成11年12月)

 ある日会社より帰宅すると、CCV誌(硬派四輪駆動専門誌)の読者より電話があったと愚妻が告げた。
 初めて電話をかけてきた主は、電話口に出た愚妻に、「ジープに乗っていらっしゃる○○さんのお宅ですか?」とたずねたそうだ。

 何とか連絡を取りたくて、たまたま群馬県に出張中の友人に頼んで、私宅の電話番号を調べてもらったという。

 私の駄文を読んでわざわざ電話をかけていただくとは、恐縮すると同時に照れくさい気分になった。
 例えて言うと、幕の陰に隠れていたつもりが、何かのはずみで舞台の端にころがり出た裏方のような気持である。

 群馬県といっても70市町村もある。
 その中から私宅の電話番号を調べるのは、かなり根気のいる作業であったと想像する。

「午後7時過ぎならまちがいなく戻っています」という愚妻の返答に、神奈川県厚木市在住のGさんからの電話は、7時数分過ぎにかかってきた。
 私は受話器に向かって、「ジープ病の○○です」と第一声を発した。

 Gさんは私の文章に共感してわざわざ電話をかけてくださったのだが、彼の話を聞いて驚いた。

 まず年齢は私とほぼ同じ(一歳年下)で、平成3年式の53(私のものは4年式)に乗っている。
 幼少の頃より厚木基地に出入りするジープを見て育ち、成人後しばらくしてから、突如としてジープ病が発症した経緯もそっくりだ。

 そして北海道には、陸路をキャンプしながら奥さんと3回も行っているとのことである。

 軟弱者の私の場合は、とうとう一度もキャンプをしなかった。
 朝から旅館のバイキング料理をくらって、旅行後は数キロも太ってしまった程だ。

 今度こそキャンプをしよう。
 Gさんの話を聞きながら、むくむくと北海道キャンプ旅行のプランが頭をもたげてくるのを感じた。

 色々感想を述べあった結果、しめくくりとして、ジープは長距離を走っても少しも疲れないことで意見が一致した。
 話の最後に、お互いに近所に来ることがあったら連絡をとりあうことを約束して、私は受話器を置いた。

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19.不吉な兆候(平成12年3月)

 その兆候はある日突然訪れた。
 ゴワゴワゴワというタイヤノイズにも似たかすかな異常音を聞いたのは、会社よりの帰宅途中であった。
 路面の変化によってタイヤノイズは変わるものである。

 たとえば、通常の路面より雨水浸透式の路面になるとその音は大きくなる。
 最初の印象は「あれっ、路面が変わったのか?」という程度のものだった。
 
 しかし間もなく、その現象は私の耳にはっきりと認識できるほど確かなものになった。
 不吉な兆候を感じてから約一週間後、朝の出勤途上突然、ガーガーガーというかなり大きな異常音が床下から車内にひびき渡った。

 私は驚いて思わず路肩に緊急停車した。
 タイヤが当たっているような、あるいはタイヤの空気圧が極端に低下していると出ると思われるような、今まで聴いたことのない異常音である。

 そういえば昨日スタッドレスに交換したばかりだ。
 タイヤの取り付け方が悪くて、どこか当たっているのだろうか。

 下回りをのぞいてみても、53に標準サイズのタイヤでは当たろうはずがない。
 気をとりなおして走り出してみた。
 すると異常音はひっこんでいた。

 この日を境に、走り出してから5分くらい経過すると必ずこの異常音が発生し、赤信号による停車まで引き続く。
 速度に関連していて、スピードが遅くなると異常音のピッチもダウンする。

 異常音が発生している間にいろいろなことをしてみた。
 クラッチを切ったり、ミッションをニュートラにしたり、エンジンを切ったり、ブレーキをかけてみた。
 しかしそれらに一切関係なく、異常音は毎日の通勤の往復に一度づつ必ず発生し、いったん止まると引っこんだ。

 時はおりしも何かと忙しい年末であった。
 私は気にしつつもそのまま乗っていた。

 破滅的状況は間もなくやってきた。最初の兆候を感じてからおよそ一ヶ月後くらいだろうか。
 年が明けて平成12年1月5日(水)、朝の通勤途上いつもの異常音が発生した。

 しかしその日は様子が違う。
 いつもは信号で停止すると引っこむ異常音が、走り出しても連続して発生する。

 サイレンを鳴らしているようで、道行く人がふり返りはしないかと気になった。
 直感的にかなり危険な状況と判断し、すぐに自宅にひき返して親戚の自動車屋に緊急入院の手続きをした。

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20.思いがけない長期入院(平成12年3月)

 私の連絡を受けて53を引き取りに来た整備士氏は、2Kmも走らないうちに騒音に閉口し、となり町にある会社に援軍を要請した。
 こうして我が53は、ロープで牽引されて入院したのである。

 親戚の自動車屋での見たては「ミッション不良」ということで、すぐさま転院手続きが取られた。
 平凡な町の整備工場としては、53のような特殊車両のミッションオーバーホールは荷が重いとの判断である。

 そしてその転院先は、何と私が我が53を買った三菱の某ディーラーであった。
 私は53をそこで買ったものの、車検等はすべて親戚の自動車屋に出している。
 したがって私の53は、奇しくも4年半ぶりに里帰りしたことになった。

 世の中は、縁という名の縦横の糸で織られた複雑な織物のようだ。
 無数の縁の糸が織りなす紋様は、時として人々を驚かす。
 私は再びその店の世話になるとは、思いもしなかった。

 ミッションオーバーホールと聞いた時、正直なところ私は愕然とした。
 壊れるはずのないものが壊れた時、人はきっと驚くに違いない。
 キチンと整備をしていれば100万Kmも走れると言われるジープが、こともあろうに8年36,000Kmごときで故障とは!

 しかも重要部品である、ミッションのオーバーホールとは!
  「ブルータス!お前もか!」とはこの時の私の心境である。

 この話を聞いた父親が、トンチンカンに私を慰めてくれた。
 「なに?ジープが壊れた?あれは軍用車両だろう?それがそう簡単に壊れるとは…。日本も戦争に負けるわけだ!」

 7日(金)に転院したはずの53について、一週間たっても何の連絡もなかった。
 修理に大金を要するようなら、事前に見積もってくれとお願いしてあった。
 しびれを切らした私は、15日(土)の休日出勤途上に思わず工場へ立ち寄ってみた。

 ガランとした工場構内は、交代制で整備士が休んでいるためなのだろうか、まだ人気がない。
 手前と向こう側の2列に並んだ20台ほどのリフトの上には、思い思いのスタイルをした患者が横たわっている。

 私は無断で構内に立ち入った。
 我が53は手前側の奥から二番目のリフトにのっていた。
 左後方より近づくと外見に異常はなかった。

 思わずかがんでのぞき込む。
 ミッション部分がそっくり摘出された異様な空洞を発見すると予想していたが、それに反してミッションケースは黒い鉄の塊として何の変哲もなくそこにあった。

 「どーなってんの?」私は独り言を言いながら運転席側に回ってみた。
 私はそこで初めて53の患部を見た。
 右前輪のドラムが分解してあり、車軸に白いウエスがかけられていた。

 「そうか!ブレーキ系か」ブレーキ系なら修理代もそう高くはないだろう。
 私はほっと安心した。
 目的を達成した私は、整備員にとがめられる前に工場を後にした。

 さらに一週間が経過した。
 相変らず何の連絡もない。

 24日(月)再びしびれを切らした私は、今度は親戚の自動車屋に電話を入れた。
 さすがに時間がかかりすぎると感じた整備士のN氏は、外注先に問い合わせて、おり返し連絡をくれた。

 N氏「まだ原因がわからないそうです。もう少し時間をくれと言っていました」
 私、「原因不明?…。それは弱ったね…。怪奇現象かね?…」

 そのとき私の脳裏に、ポルターガイスト現象という言葉が浮かんだ。
 もしかして…、前のオーナーが…。
 しかし、ジープの騒音と振動の前には、騒霊のほうが逃げ出すはずだとこの考えを打ち消した。

 ミッションもブレーキ系も異常がないという。
 異常音がまだ出ているのかひっ込んでしまったのか聞き忘れたが、何らかの異常を認識しているから整備士氏は奮闘してくれているのだろう。

 一週間もあれば退院してくるだろうとたかをくくっていた私は、次第に焦燥感にかられるようになった。

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21.故障場所の推理(平成12年3月)

 そこで私も色々推理をしてみた。
 ミッションに異常がないということは、恐らく後輪をテスターにのせて運転したに違いない。
 そこで問題がなければ、エンジン、ミッション、後輪系はOKということになる。

 残るのは前輪系となり、先日工場をのぞいたときに右前輪ドラムが分解してあったことで裏付けられる。
 となると、残るのは前輪のデフとなるわけだ。

 しかし待てよ。
 もっとたわいもない原因もあるかも知れない。

 注意しているつもりだが、グリスポイントへのグリス注入忘れなどということはないだろうか。
 あちこち分解して、最後がグリス切れなどとわかったらいい笑いものだ。

 このちょいとした思いつきは、黒雲のごとくみるみるうちに私の心の中に広がり、強迫観念になった。
 治るまでじっと待とうと決心したにもかかわらず、直接の整備担当者に電話をしないではいられない心境になった。

 28日(金)私は思い切って電話を入れた。
 私、「今お世話になっているJ53のオーナーですが、いかがでしょうかね?」

 整備士氏、「遅くなってすみませんね。まだ原因がわからないのですが、これからフロントデフを分解するところです。もう少し時間を下さい」

 きたきた、やはりフロントデフの分解か。
 その前に早く言っておかないと。

 私、「素人考えですが、グリスポイントへのグリス切れということは考えられないでしょうか? 注意しているつもりですが、注入個所が多いもので見のがしているかも知れないと思って」

 整備士氏、「それは大丈夫でしょう。結構くれてあるようですし」

 私は、あまり理屈をこねてもと思ってそれでひき下がったが、今考えると「全てのグリスポイントは完全にグリスアップされています」と言ってほしかった。
 だが、一応言うだけのことは言ったのだと自分を慰めた。

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22.退院(平成12年3月)

 53が治ったとの連絡は、思いがけずも31日(月)の午後に入った。
 そして親戚の自動車屋の整備士S氏が、私の勤務先まで届けてくれた。

 S氏によると、詳しいことは聞いていないがフロントデフをオーバーホールしたとのことだった。
 フロントバンパー下をのぞきこんでみると、デフ回りが黒々と塗装しなおされ光沢を放っていた。

 代車の新規格軽4輪・5速ミッション・バンは、ショートパンツ一丁で短距離走をしているようであったが、久しぶりに乗る53は、鎧かぶとに身を固め早足をする武将のような、威風堂々とした重みがあった。

 あちこちから出るガチャガチャという金属音が、鎧の金具が発する音を連想させる。

 やはりジープはいいものだ。
 本物の機械、本物の道具を繰るのは一種の儀式に似ている。

 始動前のプリヒート、クラッチ、ギアの切り替え、重いハンドル操作、そうしたすべての行為が、必要不可欠な儀式の手順であるように感じられた。

 ところが、私の久しぶりの幸福感も、数日後に届いた入院費用請求書によって微塵に粉砕された。
 請求書に記載されたおびただしい文字を追う私の顔面は、恐らく蒼白であったにちがいない。

(作業名)
 フロントデフ脱着・OH
 技術料・・・74,100円

(作業内容)
 1.フロントデフギヤキット・・・取替
 2.デファレンシャルケース・・・取替
 3.シャフトキット、デフギア・・・取替
 4.シムキット、スペーサ・・・取替

(部品代)
 ギヤキット・フロント(×1)・・・57,300円
 ベアリング・FR(×1)・・・3,150円
 ベアリング・フロント(×1)・・・1,600円
 ベアリング・フロント(×2)・・・5,000円
 ケース・フロントデフ(×1)・・・14,200円
 シャフトキット・フロント(×1)・・・1,150円
 ギヤ・フロントデフ(×2)・・・13,800円
 スペーサキット(×1)・・・2,850円
 ピニオン(×2)・・・3,400円
 シムキット(×1)・・・1,500円
 シムキット(×1)・・・610円
 シムキット(×2)・・・1,100円
 ブッシュ(×2)・・・1,420円
 ガスケット(×1)・・・670円

(その他)
 積載者取引・・・5,000円

(合 計)
 技術料合計・・・79,100円
 部品合計 ・・・107,750円
 消費税    ・・・9,342円

 総合計  ・・・196,192円

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23.故障原因追求(平成12年3月)

 以上の明細を見て、私は素朴な疑問をいだいた。
 登録後8年経過しているとはいえ、たった36,000Km程度でフロントデフをそっくり交換するほどの故障があるのかというものである。

 ましてフロントデフは、ほとんどの時間は駆動力がかかっておらず空転しているわけである。
 ジーパーとしては恥ずかしながら、デフを壊すほどの武勇伝もいまだ持ちあわせていない。

 もしかしたら…。
 私の心の中に一点の不吉な疑問が浮上した。
 もしかしたら、何らかの理由でデフオイルが不足していたのではないか?

 これは普段車検をお願いしている、親戚の自動車屋の整備を疑うことになるので、極力打ち消したい疑問であった。
 いずれにせよ、修理を行った整備士氏に直接会って話を聞かなければならない。

 2月3日(木)会って話を聞くつもりでいたが、先方の都合で電話をもらうことになった。
 その電話は夕方かかってきた。

 整備士氏、「お電話をいただいたそうですが?」

 私、「お忙しいところすみませんね。実は今回は予想以上の重修理だったので、そうなった原因をぜひ知りたいのです。どういう状態だったのですか?」

 整備士氏、「フロントデフを開けてみると、ギア全体がかなり磨耗していました。それが許容値以上だったので交換しました」

 私、「フロントデフは通常空転しているわけだし、それほど無理な運転をした覚えはないのですが。高速は多少走りましたがその辺も影響しますか?」

 整備士氏、「フロントデフには負荷はかかってはいませんが、常に回っています。高速を走る機会が多ければ影響するのではないでしょうか」

 私、「デフオイルが不足していたというような、直接的な原因は見当たりませんでしたか?」

 整備士氏、「特にそういうことはありませんでした」

 私、「デフケースまで交換してありますが、悪い部分だけ交換というわけにはいかなかったのですか?」

 整備士氏、「もちろん一部の部品だけも交換できますが、今回は全般的に磨耗しており、かなりのガタや部品の欠損も出ていたのでケースごと交換しました」

 私、「フロントデフが磨耗しているということは、リアデフも同様だと考えられますか?」

 整備士氏、「その可能性はあります」

 私、「わかりました。どうも長い間お世話になりありがとうございました」

 私は不勉強なため、デフケースが壊れたり消耗するとは知らなかった。
 しかし、整備士氏とのやり取りの中からは、原因らしきものがはっきりと浮上してこなかった。
 どうもいま一つ気分がすっきりしない。

 原因のヒントらしきものは、後日修理代金を親戚の自動車屋に支払いに行ったときに、整備士のN氏から聞いた。
 それによると、やはり高速走行が原因ではないかというものである。

 確かに、ジープはもともと高速走行に適しているとは思えない。
 最近の車では考えられない故障であるが、そう言われればうなずけない事もない。
 北海道旅行の時などは、100Km〜110Kmで長距離を巡行したこともある。

 一方、デフケースまで交換したのは、部品の破損によってケース内部が傷ついていたのではないかとの見解である。
 ふむ、ふむ。 なるほど、なるほど。
 原因を求めていた私にとって、なんとなく納得できる説明であった。

 となると…。
 となるとこの私は、「およそジープにふさわしくない運転をしたことにより、フロントデフを壊した大バカ者」ということになる。
 なんと言うことだ!

 かくして疑問は一気にしぼんだが、私は散財よりもこちらの問題で落ち込んだ。
 しかしものは考えようである。

 いろいろあったが、フロントデフは新品になった。
 53の寿命が、部分的にせよ延びたわけである。

 そう思うと、私の心も少しは癒えるような気がした。
 残るはリアデフ、エンジン、ミッションか…!
 万歳!「ジープ病」 

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24.我が友ジープ病を発病する(平成12年8月)

 私には学生時代よりの親友がいる。
 北海道出身の彼は、卒業後長い間東京暮らしをしていたが、数年前に九州に転勤になり、その後山梨の住人になって現在にいたっている。

 比較的小柄な体格だが、十数年前より内外のモンスターバイクを乗り継ぎ、ここしばらくはBMWに落ち着いている。
 東京での生活が長かったせいか、車の所有はまったく考えなかったという。

 それは九州時代も、つい最近までも続いていた主義主張である。
 車が必要な時はレンタカーを借りたほうが、費用対効果において合理的であるという。

 というより、モンスターバイクの魅力に取りつかれて、車にはまったく興味がわかなかったと言ったほうが正しいかもしれない。
 確かに1000cc前後のバイクの加速感は、一度とりこなると病みつきになるらしい。

 しかし私は自分の経験から、バイク乗りは必ず一度や二度は危険な場面に遭遇する宿命にあると思っている。
 それがかすり傷ですむか、身障者になるか、あるいは命を落とすかは、その人の運命によるのだろう。

 とは言えもそろそろ彼も年貢の納め時ではないかと思った私は、平成7年に53を購入して初めて彼がわが家を訪問した時に、近くの河原に一緒に行ってジープの楽しさを紹介した。
 普通の車は見向きもしない彼でも、ジープならきっと心を動かすにちがいないと思ったからである。

 しかし期待に反して、彼はただ一言、「なかなかすごいな」と言ったきり5年近くが経過した。
 その間私は、CCV誌に掲載された私の記事のことを連絡したり、ホームページ制作の夢を語ったり、盛んにジープ病原菌を送り続けた。

 発病すると難病のジープ病も、感染力は意外と弱いようである。
 もっともインフルエンザ並みの感染力があれば、ジープはもっと違った形に変化しているはずだと苦笑した。

 平成12年1月13日、思いがけないメールが彼より届いた。
 それにはこう書かれていた。

「突然ですが、私もジープを購入する事にしました。納車は25日前後です。山梨は中古車展示場が多いのですが、ジープを見た事はありませんでした。先日何気なく三菱中古車センターを見たところジープがあり、3回そこに見に行っても考えが変わらなかったので、これは衝動買いではないと判断し契約しました」

 おりしも私の53が長期入院していた時である。
 私は喜びと同時に一瞬複雑な心境になった。
 簡単に壊れないはずだと信じていたジープが壊れて、いく分気弱になっていた。

 悪い病気をうつしてしまったのではないか。
 当時の私の精神状態は、我が友のジープ病の発病を手放しでは喜べなかった。

 しかし冷静に考えてみた。
 彼のジープ病の感染源が私だとすると、潜伏期間が短すぎる。
 真性ジープ病の潜伏期間は10〜20年である。

 とすると、彼は本人が知らぬ間にジープ病に感染していたに違いない。
 身に覚えがないとはまさにこのことだ。

 そして満を持して発病したのである。
 げに恐ろしきはジープ病!

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25.似て非なるもの(平成12年8月)

 我が友のジープは、平成7年式のJ55である。
 走行距離は11,000Kmと短く、話の様子ではかなりの掘り出し物のようだ。

 やはり我が友には、できるだけ程度の良いジープに乗ってもらいたい。
 あまり経費の負担がかかるような代物では、私の心がますますうずく。

 2月12日に彼が来ることになった。
 我が家までの片道150Kmは、55購入以来最長ドライブに違いない。
 いつもはBMWのドスのきいた排気音が彼の来訪を告げるが、その日の朝は比較的ソフトなディーゼル音が我が友の来訪を告げた。

 私は彼がわが家の敷地内に55を入れる前に、前から楽しみにしていた試乗を申し込んだ。

 運転台に乗り込むと、まずはフロントウインドウに行儀よく並んだ三連ワイパーが目に入る。
 スピードメーターの上には、見慣れぬ警告灯が二つ並んでいた。

 ラジオの外観も、ブリキのおもちゃからプラモデルへ変わったくらいの印象がある。
 しかしこの程度の変化は、その後に続く驚きに比べればたいした事はなかった。

 あらためてエンジンをかけてみて驚いた。
 まずはクラッチが軽い。

 いつもの調子で踏み込むと、ヒョイという感じでペダルが下がる。
 53ではグイッという抵抗感があるものだ。

 抵抗値を量ってみたわけではないが、重さは半分くらいの印象だ。
 次に、エンジン音にまた驚いた。

 高音部分がカットされ、非常にまろやかになっている。
 「まるでパジェロのようだ」とは、エンジン音だけの感想である。

 走り出すと、ハンドルも軽い事に気がついた。
 特に不整地を走ったわけではないが、エンジン音が静かなだけ若干トルクが薄いような印象も受けた。
 また乗り心地も、路面の継ぎ目などで、暴れ馬のような突き上げが少ないように感じた。

 ガソリン車とディーゼル車では当然フィーリングは違うだろうが、最近のディーゼル車同士ではたいした変化はないだろうとたかをくくっていた。
 しかし、ジープといえども進化していることを知った。

 特にエンジン音の変化については、53と55の燃焼方式の違いだけによるものなのか、防音処理の違いによるものなのか私は知らない。
 あるいは私の53の個体差なのかも知れない。

 以上の私の感じた驚きなど、絶対値から見れば取るに足らないことであることは承知している。
 少々クラッチが軽くなろうが、エンジン音がまろやかになろうが、ジープはジープである。
 しかし53に同化している私は、我が友の55に対して、「似て非なるもの」の印象を受けたことも否めない。

 53と55ですらこれだけのフィーリングの差があるのだから、初期のWILLYS MBやFORD GPWはどんな代物だったのだろうか?
 他のジープに関して無知な私には、想像力を働かせても一向にイメージが湧いてこない。
 しかしそれはまさに、「似て非なるもの」に違いない。

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26.ジープ病患者のホームページ(平成12年8月)

 私がひそかに名づけた、「ジープ病蔓延計画」の主力兵器と言えるホームページが、やっと完成した。
 タイトルは平凡であるが、「Jeep Forever」とした。
 ホームページの構造はジープにちなんでできるだけシンプルにし、全体のカラーを好みのOD色で統一した。(その後変更)

 春夏秋冬のジープ写真集がメインであるため、完成までにほぼ一年を要した。
 ただし撮影時間がなかなか取れなかったので、より充実したページが完成するにはさらに数年が必要であろう。

 写真の背景に、人工物が極力入らないような場所を選んで撮影するために、ロケハンには苦労をした。
 時代劇撮影の苦労がわかろうというものだ。

 写真は35mmのリバーサルで撮影し、フォトCDに焼きこんでもらった。
 デジカメに比較し手間も経費もかかるが、1カットにつき18M、4.5M、1.1M、288K、72Kの5サイズが入っているので、用途に応じて使い分けられ大変便利である。

 プロの仕事であるから、原画には極めて忠実だ。
 それに廉価版のデジカメでは構造上求められない、中望遠レンズによるボカシ効果も楽しめる。

 私の加入しているプロバイダーでは、会員に無料でサーバーを貸してくれる。
 手続きはいたって簡単で、メールで申し込むと承諾の返答が数時間後に届き、約一週間後には待望のURLが郵送される。

 私は早速自分のホームページを転送した。
 心配したプロバイダーのサーバーとのやり取りはきわめて簡単で、パソコンの中のファイルのやり取りとまったく同じである。
 違うのは、電話線を使っているために伝送時間がかかることである。

 しかしデジタル・データは恐るべきものである。
 システムがあり元のデータが破壊されない限り、永遠に原型を留めクローンを作りつづける。

 これが普通の写真では色は退色し、姿もいつしか消え去ってしまうだろう。
 または、管理がおぼつかなくなり散逸してしまうかも知れない。

 ただ何らかの原因で、現代文明が原始時代に戻ってしまったら、さしものデジタル・データも跡形もなく消え去ってしまうだろう。
 廃墟の中に、埃に埋もれたサーバーの筐体が整然と並んでいるSF映画の1シーンが目に浮かぶ。
 その映画の台本では、廃墟を訪れた異星人が恐る恐る電源を供給すると、突如システムが生き返り、我が53の姿がCRTに映し出される設定である。

 しかし現実的にはそれはちょっと無理な話だ。
 そうなると、時々発見される洞窟内の壁画や、土器に描かれた記号にも劣ることになる。
 せめてそうならないことを祈りたい。

 さて、今はひっそりとサーバー上の仮想空間にある53の雄姿は、間もなく公開されようとしている。
 たとえあまり見てもらえなくても、その姿は消去しない限り永遠にサーバー上に存在し続けることになる。

 寂しい話になるが、実車の存在は長くてせいぜいあと30年である。
 その前に私が現世を卒業すれば、残った家族に維持できるとも思えない。

 昨日のフルオープン走行の爽快感も、24時間もたてばおぼろげな記憶になってしまう。
 しかしサーバー上の53は、それを見るたびに鮮明な記憶を呼び起こす。

 もはや新たに製造されることのない三菱ジープを、仮想空間上に生き続けさせるのもジープ病患者の使命と思うこの頃である。

 その願いを込めて、来訪者に容赦なくジープ病原菌を放射する恐るべきホームページのURLは、 http://www.jeep-fan.com/ である。
 決して開くべからず!

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27.ホームページ公開(平成12年9月)

 ジープ病患者のホームページが公開された。
 まずは検索エンジンに登録し、同病者をリンク集に収容した。

 しかしこの段階では、私のホームページは太平洋の海水一適、サハラ砂漠の砂一粒である。
 「ジープ病蔓延計画」の主力兵器であるので、どうにしたら見てもらえるかということについて考えた。

 あれこれ研究しているうちに知人から、あるサイトの「アクセス論」なるものを紹介された。
 それによるとアクセスの多いページの特徴は、

1.定期的に更新されるサイト
2.巨大サイトで辞書を調べるように何度も来ようと思うサイト
3.掲示板・チャットなど利用型で自己発展性を持つサイト

 のいずれかの特徴を持っている。
 結局のところ、リピーターを作ることができなければ、アクセスの増加は望めない。

 アクセスを増加させ維持したいのなら、こういうタイプのページを作る必要がある。
 HP作成コストを考えながら、このいずれかの条件を満たしていかなければならない。
 とのことである。

 定期的な更新については、「壁紙」や「写真集」もあるが、「闘病記」の追加が欠かせない。
 派手な戦闘シーンはないが、ジープ病の病状の進行具合を逐一報告する事によって、同病者あるいは未感染者の関心を買えるのではないか。
 他人の病状は気になるものである。

 一方、辞書のように一度の来訪では用が足りない巨大サイトの構築はとても無理なので、そのかわりにプレゼント用の壁紙は故意に重くしてある。

 なるべく軽くして来訪者が逃げ出さないようにするのが常套手段だが、少々重くもジープ好きならきっと見てもらえるだろうという思惑から、高画質の画面を掲載した。

 一度に少しずつ見てもらって何度も来てもらうねらいである。
 もっとも、そのうち高速回線が常識になれば、このねらいも意味がなくなるが。

 さて、「掲示板」は来訪者が勝手にホームページを盛り立ててくれるので、リピーターを作るにはなくてはならないツールである。
 最初はこれをマニュアルでやってみた。
 つまりメールで受けたものを、その都度ページに貼りつけて更新するものである。

 ところが予想のとおりはなはだ不評である。
 匿名性を重視する来訪者の心理から、アドレスが残るメールはその意に反するのであろう。

 また、投稿したものが瞬時にのらないことや、自由に変更・削除できないことも敬遠されるのでないかと考えた。
 そこで、急遽掲示板のオートマチック化(レンタル掲示板採用)をおこなった次第である。

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28.幌の新調(平成12年9月)

 ジープ乗りは、とことん物を使いきる人が多い。
 例えば幌などは窓のフィルムが黒ずみ、本体もボロボロになるまで使う人もいる。

 私の53の幌フィルムは、時々プラスチッククリーナーで研磨しているので透明性は高いほうだ。
 しかし各所のヘリの部分は少しずつ破れ、ピラピラと風になびくようになった。 

 一番の問題はファスナーだ。
 古くなるとやはり壊れる。

 後ろの右側がまず壊れ、悪戦苦闘の末どうにもならず修理に出した。
 しかし、幌をはずしてしばらくテント屋さんに預けなければならないので、その間雨に降られると大変困る。
 修理代も13,000円とバカにならない。

 しばらくすると、今度は後ろの左側がかみ合わなくなった。
 多少砂ぼこりが吹きこむが、心配した雨水は中に入らないのでそのままにすることにした。

 ドアのファスナーが壊れたら少々やっかいだと思っていたら、7月のある暑い日運転席側のファスナーがとうとう壊れた。
 真上のあたりで止まったまま、にっちもさっちもいかなくなった。

 窓が開かなくても、少々暑いが走行に影響があるわけではない。
 あるいはファスナーをはずしてひもか何かでゆわえるようにすれば、壊れる前のように快適になる。

 私も通勤に使用していなければきっとそうにした。
 しかし、やはり勤務先に乗っていくとなると多少の見栄がでる。

 下から数えた方が早いが役職にもついている。
 そもそも、いい歳をして幌ジープで通勤していること事態が立派な変人なのだ。
 しかし、変人が奇人という評価へ進まないように、身の回りはこざっぱりとしていなければならない。

 思い切って幌を新調しよう。
 純正の白い幌に。
 私にとってささやかとは言えない贅沢だが、老兵の威厳を保つためには許される範囲ではないか…。と自分に言い聞かせた。

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29.気になる書き込み(平成12年9月)

 8月11日、私のHPの掲示板にある方よりこんな書き込みがあった。

 「自動車NOX削減法が2002年施行を目指して改正されるようなので、お伝えしようと思ってのことです。内容としては、対象地域の拡大(栃木県、群馬県、愛知県、京都府を追加)、5ナンバー・3ナンバー車(ディーゼル乗用車という表現になってる)への適用、等です。」(抜粋)

 決まったわけではないが可能性は高いと思った。
 私は群馬県に住んでいるが、対象地域に指定されたら53を所有することが難しくなることは想像できる。

「人生一寸先は闇」とはよく言ったものだ。
 つい先日幌を新調し、死ぬまで乗り続けるぞと息まいていたのが嘘のようである。

 時代の流れが全て正しいとはとても思えないが、個人の力ではどうにもならないことが多々ある。
 我々は矛盾の無い制度を求めるが、出来上がったものは往々にしてザル法であったり、不公平なことが多い。

 私は即座に、『しかし、時代の流れには逆らえません。いよいよ、「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ」ですか。後ろ指をさされて乗っているのもイヤなので、最後に磨き上げた53を床の間にでも飾っておきましょう。寂しい話ですが』と書き込んだ。

 しかし2・3日たつとにわかに未練心が出てきた。
 あきらめるのはまだ早い。
 何か方法があるはずだ。

 必要にせまられると人間勉強するものである。
NOX法そのものやNOX法がどのように改定されようとしているのか、現在特定地域に指定されている車両の対処の方法等、関連サイトを次々と調べた。

 その結果、現在の規制値で地域だけの拡大であれば、NOX低減装置も市販されているので何とか対処できる。
 しかし、2002年の新規制はどうもそれだけでは収まりそうもない。

 法改正の背景に、「特定地域ではディーゼル乗用車もしくは3.5トン以下のディーゼルトラックは、新規買い替えを半強制的にでも促す」という精神があるからである。

 新しく買う車がある人にはまだ救いがある。
 しかし私のように、ジープ以外に持ちたい車がない者は・・・。

 最近は、時代の流れが今までにない速度で進んでいる気がする。 
 この調子だと・・・。

 この調子だと、53に乗れなくなる日が意外と早くやって来るかも知れない。
 そんな予感がするこの頃である。

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30.デジタル写真と銀塩写真(平成13年2月)

 私はいわゆるブランド品には興味がないが、物の材質や性能にはこだわる方だ。
 例えばカメラや時計は、金属製でないと気がすまない。

 もちろんレンズや風防はガラス製に限る。
 「ヘビィ・デューティ」というキャッチフレーズにいたくしびれるのは、人間が軟弱のせいだろう。

 私のジープ病のルーツもこの辺に端を発しているのかも知れない。
 現在入手可能な最もヘビィ・デューティな車両の一台、ジープ。
 いまだに見ているだけでしびれてくるのは、まさか脳梗塞が原因ではあるまい。

 脱線するが、昨年携帯電話を購入した。
 IDOの製品で、耐ショック性に優れ、水深1mの防水機能、前面部分ジュラルミン合金製、さらに音質がよいcdma Oneがうたい文句の、C303CAという製品である。
 メーカーはGショックで有名なカシオだ。
ヘビイディューティが売りのC303CA
 携帯電話はあれば便利だが無くても問題はないと思っていた私だったが、この性能には全くしびれ、今までの持論はどこへやら、ただちに入手した。

 発売後間もないこの製品は、その大きさとゴツさが災いしてか、本体価格は1,800円だった。
 そしてさらに驚いたことに、私が購入した2週間後には本体価格0円と表示されるに至った。

 これにはガッカリしたが、知人が行った北海道のある魚河岸の関係者はほとんどこれを持っていたという話を聞いて、いくらか心が慰められた。
 この性能なら海水の入った魚の桶に落としても何ともないはずだ。

 問題の購入後の携帯電話使用状況だが、基本料金内に毎月600円分ついてくる通話料で見事納まっているのは言うまでもない。

 さて、デジカメについては家族からも要望が出ていたし、HPの静止画用として極めて便利と思われたので、先日キャノンのIXY DIGITALを購入した。
 購入の決め手はもろもろの性能もあるが、外装がオールステンレス製という一点である。
 ここでも私のこだわりが発揮された。

 画素数は210万画素。
 これで最大画面の最高画質を記録すると、サイズは1600×1200となり、ビットマップ方式で処理すると2〜6Mほどのデータ量となる。

 いろいろ撮ってA4サイズにプリントしてみた。
 130万画素のソニー・マビカに比べるとはるかに良い。
 ムシメガネで覗いて見ない限り、肉眼ではほぼ普通の写真並に見える。

 一方今まで私が採用してきた、35mmカラーリバーサル(銀塩写真)をフォトCDに焼きこむ方式だと、最大サイズは3072×2048でデータ量は18Mもある。
 この両者を比較するのはフェアーではないかも知れないが、絶対値の比較としては意味があると思った。

 デジカメからのプリントは、虫メガネで覗くと画像の輪郭に僅かにドットが見られるが、銀塩写真からのプリントはフィルムの粒子しか見えない上、色調、階調も豊である。
 これは最初から想像された結論であるが、ホームページサイズの画像の比較ではどうだろう。

 結論から先に言うと、ブラウン管上でも銀塩写真からの画像のほうがきれいに見える。
 カメラやレンズ性能の差が、記録方式以前の問題としてあるのかも知れない。
 それがたかだか100KB程度の画面でも現れたのだろう。

 この結果を見て私は、当分メインの画像は今の方式で行こうと思った。
 もちろん個人のHP制作上の実用性から言えば、利便性やコストの面でデジタル写真に軍配が上がることは言うまでもないが。

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31.あぶない話(平成13年3月)

 ちまたの噂によると、ジープ乗りには刃物が好きな者が多いようだ。
 そういう私も実は大好きである。

 ナイフ、包丁、ナタ、切れる物は何でも好きだが、1本何十万円もする高価なカスタムナイフや、日本刀のように実用性のないものにはあまり興味がない。
 実際に惜しげなく使って、自分で思い切り研げるものが興味の中心となる。

 「ジープ病患者に刃物」とは、「きち○○に刃物」の次に恐ろしい組み合わせのような気がするが、それは大変な誤解である。
 ジープ病患者は野営生活の経験が豊富な者が多いため、刃物の扱い方をよく心得ている。
ビクトリノックス パイオニアNO1
 私が現在所有しているナイフは3本。
 一番小さいのはフォールディング・タイプ(折りたたみ式)Gサカイ トラウト&バードの定番、ビクトリノックス社製のパイオニアNO1 AL、次がシースタイプ(折りたためないもの)で、G.サカイのトラウト&バード、そして最後は祖父が刀匠だったという地元の鍛冶屋さんに打ってもらった和式ナイフである。


 特製和式ナイフこの和式ナイフは、他の二つがブレードに単一の工業用ステンレス鋼を採用しているのに比べ、軟鉄の間に鋼鉄をはさんでたたき伸ばし、最後に焼きを入れるという日本古来の製法によるものである。

 ある仕事の関係で、個人的にこの鍛治屋さんと知り合いになった私は、「ナタでも包丁でも打ってやるよ」という言葉に飛びついた。

 私はいわゆる剣鉈といわれる、先がとがったナタのような大型ナイフをデザインして型紙を持参した。

 和式刃物の材料としては、近代製鉄法のものよりも、昭和初期まで行われていた砂鉄を原料とする「たたら製鉄法」による和鉄が優れているそうだ。

 従って刃物作りに熱心な鍛治屋さんは、日ごろから旧家が土蔵を壊すというような話を耳にすると、飛んでいって窓に使用されていた鉄格子やトヨ受けの鉄材を譲り受けて来る。
 ちなみに私のナイフの一部は、鎌倉の○○寺のトヨ受けとのことだ。

 鍛治屋さんからいろいろな講釈を聞きながら出来上がるまで立ち会ったこのナイフは、市販品に比べ無骨で多少左右非対象ではあるが実によく切れる。

 私は研いだ刃物の試し切りは、いつも一枚の広告紙で行う。
 ペラペラの広告紙を左手で垂直に持ち、上から刃を当ててすっと引く。
 ナイフであれ包丁であれ、切れる刃物はほとんど抵抗無く紙が二つになる。

 もちろんつけた刃の角度によってはこうにならないが、逆にこの程度切れるように刃をつけるのが好みだ。
 この和式ナイフと同等に切れるのが「正本」の出刃だ。

 比較的鈍角に研いだ出刃でさえ、紙に当てるとハラリと切れる。
 「正本」の刃物は、牛刀といい和包丁といい比較的軟らかい鋼材を使っているので研ぎやすく、研ぎ上げると実によく切れる。

 これに比較し、「杉本」の牛刀はかなり硬度の高い鋼材を使用している。
 研ぐのに若干手間はかかるが、これもよく切れる。
 ただしいずれも炭素鋼であるから、手入れが悪いとすぐ錆びが発生する。

 月に一度であるが、私は家中の刃物を研ぎ上げる。
 刃物研ぎは、私の趣味の中では一番実用的で重宝されているようだ。

 さて、私が晩酌をしているときに居合わせた客は受難である。
 私の客といい、子供の客といい、家中の刃物の切れ味テストに立ち会わせられるはめになるからだ。

 このナイフは鋼材がどうたらこうたらで、いやこの出刃は・・・。
 新聞紙を丸めて筒状にした物をバッサ、バッサと切りまくる。

 気の毒な客人は、刃物を振り回すやや凶悪化した酔っ払いの前で、機嫌をそこねないように神妙な顔をしてただただ講釈を拝聴し、または刃物の切れ味に驚いたそぶりを見せなければならない。

 そして、我が家の床の上にできた新聞紙の細かい切れ端の山を片づける愚妻もまた受難である。

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32.ジープとカーナビ(平成13年3月)

 とうとう念願のカーナビを取り付けた。
 一般論として、ジープにカーナビとは、ジープにカーステレオの次に不似合いな組み合わせかもしれない。(音楽ファンのジーパーの皆さんごめんなさい)

 言い訳がましいが、私の入手したカーナビはとにかく安かった。
 買値が定価の60%を切って5万これで全て 一体型カーナビ円台。
 しかも一体型で取り外しもワンタッチ。
 サイズは130mm×148mm×40mmと、片手に載ってしまうほどコンパクトだ。

 盗難予防に、車から離れるときは取り外してバックにしまえる手軽さである。
 オープン走行時、夕立がザバッと来る前に座席下の収納庫に放り込むことなどいとも簡単。
 また、カーナビが振動でもぎ取られそうになる悪路走行の場合も同様だ。

 それよりも何よりも、恥ずかしながら私は相当の方向音痴である。
 特に夜間のドライブは、懐中電灯で地図を照らし、老眼鏡をかけてと手間がかかる。

 さらに、あたりを見回しても暗いために目標物がはっきりせず、とんでもない方向を走り回った経験もしばしばある。

 さて、ジープ病患者に限らず、新兵器をどこに取り付けるのかを考えるのは楽しみなものだ。
 ジープは平面部分が多く、なおかつそこが鉄板なので、物を取り付けるのは大変楽である。
 しかしカーナビの場合は、目線の移動の問題があるので、取り付け場所はある程度限られる。

 あれこれ考えたあげく、1本380円の市販のステンレス製取り付け用金具をL字型に曲げ、デフロスターの吹き出し口を止めているビスから吊り下げて、その金具にカメラの三脚用ネジを流最適の位置に設置用して本体を固定した。(室内で使用する事を考慮してか、本体底部のネジ穴はカメラの三脚用ネジの規格が使われている)

 都合の良いことに、 幌天井のためアンテナは車外に出さなくても、ロールバーの上に乗せておくだけで良好に衛星の電波を拾ってくれる。
 また電源は12ボルト専用のため、無線機と同様片方のバッテリーから配線した。

 使用してみての感想。
 どの程度誤差が出るのかと心配したが、 ピタリと道路上に乗ってずれることなく走行状態が表示される。
 道路沿いの建物との位置関係が気持ち良いほどに合う。

 また通常画面で、道路沿いにはない約1Km四方の範囲のガソリンスタンドやコンビニ、その他めぼしい施設の位置がリアルタイムで表示されるので、見知らぬ土地への長距離走行にはきわめて有効な装備だと思った。

 さらに、道を曲がる場合は700m地点、300m地点、直前地点が音声案内されると同時に、2分割された右側画面に交差点の立体図が表示される。

 また、オートリルートという機能をオンにすると、設定ルートから数百m外れると音声案内とともに、その地点より目的地までの新ルートを自動的に再探索してくれる。

 これは目的地に行くまでに、地図上に表示された面白そうな場所に寄り道しながら旅を楽しむのにはうってつけの機能である。
 その上さらに、携帯電話を接続すればインターネットも利用できるが、コストの点で現時点では使うつもりはない。

 以上、最新のカーナビとしてはごく当たり前の機能であると思われるが、この価格とサイズの中に凝縮された便利さは、私にとって最近にない感激であった。

 ジープ乗りにあるまじき装備と思われようが、軟弱者と見られようが、はたまた方向音痴のノータリンと後ろ指をさされようが、禁断の木の実を食べてしまった私は、今後カーナビを手放すことはないだろう。

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33.嘘をつくカーナビ(平成13年5月)

 カーナビの威力を試す機会がやってきた。
 山梨県はあの有名な上九一色村にある富士ケ嶺オフロードコースにて、J・BOYSが主催する「第3回JEEPバカミーティング」が開催されるというのだ。

 過去2回開催されたという「JEEPバカミーティング」が、はたしてどのようなものであったか私は知らない。
 しかし想像するに、ジープ病患者が一堂に会することに間違いはなさそうである。
 これはぜひ参加しナイト。

 まずはカーナビ大明神におうかがいを立てる。
 自宅を出発地とし、富士ケ嶺オフロードコースを目的地に設定し、リモコンのOKボタンをポン。

 大明神は何やらゴニョゴニョゴニョとつぶやいた。
 CDロムドライブの発する作動音は、未開人が聞いたらたぶん神様のつぶやきに聞こえるに違いない。

 やおら画面にパッとご神託が現れた。
 なになに?距離が252Kmで所要時間9時間?しかも東京経由!画面上にはぐるりと大きく迂回しているルートが表示されている。

 気を取り直してもう一度おうかがいを立てる。
 「大明神様、もう少し直線のルートを」

 大明神は再びゴニョゴニョゴニョ。
 今度は気前よく、第2、第3ルートのご神託が下った。

 第2ルートは191Kmで6時間19分、第3ルートは168Kmで6時間13分。
 だんだん良くなるホッケのタイコである。

 その後試しに更におうかがいを立ててみたが、気を悪くしたカーナビ大明神は同じご神託を繰り返すばかりだった。

 選んだ最短距離の第3ルートは、藤岡・鬼石を経由して秩父へ抜け、大滝村から雁坂トンネルくぐって山梨県に達するものだ。
 さらに山梨市を通過し精進湖をかすめて、上九一色村の富士ケ嶺へ到達する。

 168Kmで6時間13分とは、距離の割にはずいぶん時間がかかるが、恐らく山間部の細い道が多いに違いない。
 もしこのルートを紙の地図帳で走ったとしたら、方向音痴の私にとって、走っている時間よりも地図帳を眺めている時間のほうが長いことになっただろう。

 5月4日(金)、私は午前3時に家を出た。
 胸の高まりを押さえてカーナビのスイッチを入れる。

 カーナビ大明神は真夜中の運転台に目覚め、ゴニョゴニョゴニョとつぶやき出した。
 現在位置が表示された後に、先日設定しておいた富士ケ嶺ルートの案内をお願いする。

 すると突然、大明神には似つかわしくない若い女性の声でルート案内が始まった。
 その指示は懇切丁寧、正確無比で、明け方の薄暗い見知らぬ道を次々と案内する。
 おかげさまで私は、走りを楽しむことだけに神経を集中できた。

 ゴールデンウィークの真っ最中とは言え、早朝の各ルートはガラガラだ。
 峠道では思い切りコーナーを攻める。

 とはいえ、下駄山のディーゼルジープでは、60Kmも出せば十分にストレスが発散できる。
 富士スピードウェイで、350Kmを出している感覚だ。

 進路の心配から開放されることがこんなに気楽なものだとは知らなかった。
 この調子だとどこまでも無限に走れそうだ。

 今年の夏は再び北海道にでも挑戦してみるか。
 そんな考えさえ脳裏に浮かぶ。

 やがて、奥秩父湖の手前700mより、Yの字を左手に進むように指示が出る。
 迷わず今までの太い道を捨てて左に進む。

 何とその道は、奥秩父湖沿いのすれ違いもやっとの細い道で、6Km後には元の道に合流している。
 静寂な湖畔の景色は素晴らしかったが、少々時間のロスになった。

 あとで地図を確認すると、従来の道が国道140号で、わざわざ奥秩父湖沿いの細道に迂回する合理的な理由は全くない。
 ささいな事だがこれはソフトのバグだろうか、それともカーナビが嘘をついたのだろうか?

 はたまた、湖好きの私に対するカーナビ大明神のお恵みだったのだろうか。
 往復340Kmをほぼ完璧に案内してくれた、今回のカーナビテスト走行で、心に残った唯一の疑問であった。

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34.中華鍋にはまる(平成13年6月)

 ジープ乗り=アウトドアマン=男の野外料理=焼きそば、とは乱暴な図式だが、ジープ病患者と焼きそばの縁は深い。

 そもそも私と焼きそばとの出会いは、小学校低学年頃より一人で行くようになった縁日に始まる。
 当時の食べ物で、私にとって相当うまいものにランクされていたのが、縁日の屋台の焼きそばである。

 子供の手のひらにものる大きさのヘギ(木を薄くそいだ、カンナの削りカスのようなもの)に盛られた焼きそばを、付属のヨウジで少しずつ食べるのが縁日の楽しみの一つだ。
 普通盛りが10円、大盛が15円と言えば時代もわかる。

 その日よりうん十年が経過したが、焼きそばは日常生活でもよく食べるし、野外生活での定番メニューでもある。
 さて、その身近な焼きそばだが、研究してみると奥が深い。

 まずは麺である。
 しばらく前まで、町内の八百屋さんなどで茶色がかったぼそっとした麺が売られていたが、最近は「○ちゃん」かそのもどきに制覇された感のする市販の麺である。

 私の好みはぼそっとして腰がある麺だ。
 そんな麺を探しているが、残念ながら未だ発見にいたっていない。

 次に炒める道具であるが、鉄板に金属ヘラが従来のスタイルである。
 その鉄板も最近はテフロン加工のホットプレートが主流になりつつあるが、テフロン加工の製品には金属ヘラが使えない。

 金属ヘラと鉄板、あるいは金属ヘラどうしが触れ合うチャリン、チャリンという音は、焼きそば作りに欠かせない伴奏でもある。
 合成樹脂製や木製ヘラから出る、ガタッ、ゴットという音ではどうも気分が悪い。

 さらに火力の問題がある。
 弱いとグツグツ煮るような状態になり、強すぎると音もなく鉄板一面に麺がこげついてしまう。

 これまでは、「焼きそば=鉄板」しか頭になかったが、ある日中華料理屋さんで使っている中華鍋に目が行った。
 中華鍋を左手でガッタン、ゴットンとあおり、右手に持った柄の長い中華オタマで器用に微量の調味料をすくい入れ、かき混ぜる。

 ジュー、ジューという威勢のよい音と共に、焼きそばやチャーハンが宙を舞い、時には鍋の油に移った火がボワーッと炎を上げる。
 そのくせ決して焦げ付いたりせず、水分が飛んでパサッ、しゃきっと仕上がる。

 そうだ!これだ!
 さっそくわが家の中華鍋で焼きそばを作ってみる。
 中華オタマがないので、とりあえずは味噌汁用のオタマが代用品だ。

 結構いける。
 すくなくともホットプレートよりはしゃきっと仕上がる。

 しかしやけに重い。
 片手であおるなんてとんでもない。

 我が家の古い中華鍋は、鉄プレス製で1.4キログラムの代物だ。
 良い中華鍋とはどんなものだろう?
 最高の中華鍋を求めてネットサーフィンしてみる。

 まず素材については、従来からの鉄製と新素材のチタン製があることがわかった。
 さらにそれぞれ、プレス製と打出製がある。
 プレス製は文字どおり、プレス機で素材をプレスしただけの代物だ。

 それに比べ打出製とは、職人さんがハンマーで素材をたたいて形にしたものだ。
 素材をたたくと、素材の中の微小な空洞がなくなり、軽く錆びにくいものになるそうだ。

 チタン製は非常に軽く錆びないが、熱伝導率があまり良くないことと(調理法によっては焦げ付きやすい場合がある)、鉄製に比べ値段が10倍はする。
鉄打出製中華鍋 優れ物
 結局値段も安く比較的軽い、「職人用鉄打出片手中華鍋30Cm(940グラム)」をネットで購入した。
 手元にとどいた中華鍋をしげしげと観察する。
 一般の鍋に比べ、座りの悪い底の湾曲はいったい何なのだろう?

 いろいろな解説を総合すると、中華鍋は万能鍋のようだ。
 底から側面にかけた形状が円を描いているので熱が早く全体に伝わる。

 揚げ物をする時は油が底にたまるので必要に応じた最少量ですむ。
 同様に水分が底に落ちるので、鍋の側面を使うと炒め物に焦げ目もついてしゃきっと仕上がる。

 さてさて使用しての感想だが、今までの物に比較し同じ鉄製でありながら大変軽いこと。
 また、熱伝導が良いという素材の特性より、家庭のガスコンロでも火力が充分全体に回り、水分が早く飛んで炒め物がしゃきっと仕上がる。

 その上、鉄板によく油をなじませると強火でも焦げつきにくく、お湯をかけてひとこすりすると汚れがさっと落ちる。
 焼きそば、野菜いため、チャーハンのランクが、一歩プロに近づいたような気分だ。

 以来、すっかり中華鍋にはまった私は、愚妻と共に毎朝この中華鍋製の野菜炒めを食べている。
 そしてもし、どこかの野営場で53の傍らで中華鍋を使って焼きそばを作っている者を見かけたら、それは私である。

 その時の合い言葉は、「中華鍋の具合どう?」 
 冷たいビールと共に、職人用鉄打出片手中華鍋製焼きそばを一皿ご馳走します。

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35.サブの卒業(平成13年6月)

 サブとはわが家で飼っていた犬の名前である。
 去る6月9日にこの世を卒業した。

 御歳14歳と4ヶ月。
 粗食に耐え、普段は無駄吠えをせず、自分より大きな犬に対しても決してひるまず、主人には忠実な野武士のような犬であった。

 我が家で最初に飼った犬がロンで、二番目が太郎だ。
 三番目と言うことで三郎からサブと命名された。
 ロンも太郎も10年未満で卒業したので、サブが一番長生きしたことになる。

 例の図式になるが、ジープ病患者=自然愛好家=動物好きで、私は子供のころからよく小動物を飼った。
 私が小学生の頃、時々校門の前にダンボール箱にヒヨコを入れた露店が出た。

 緑色の印をつけたものがオスで一羽5円、赤い色がメスで10円という店主の説明により、卵焼きを食べたい一心の私は、必ず赤い色がついたヒヨコを買った。

 飼育技術未熟のためほとんど死なせてしまったが、何回か成功したことがある。
 不思議なことに、メスと信じて育てたヒヨコには成長するに従い、赤々とした立派なとさかが出現し、おまけに気性も荒く、育て親の私のくるぶしを血が出るほどつっついた。 

 後で聞いた話だが、露店などで売られているヒヨコはメスを選別した後のオスばかりだそうだ。
 その他私は、カタツムリ、カブト虫、スズ虫、ヤドカリ、カメ、トカゲ、金魚、ジユウシマツ、セキセイインコ、手乗り文鳥、伝書鳩、ハツカネズミと実にいろいろなものを飼った。

 伝書鳩は小屋を屋根の上に置いたので、清潔癖の父親が大変嫌がった記憶がある。
 半年ほど経った後に、もう慣れただろうと思って放したら、それきり帰って来なかった。

 これも後で聞いた話だか、伝書鳩はつがいにして子供ができないと、帰って来ないそうだ。
 そう言えば、私の鳩君はチョンガーだったのだ。

 凛々しい表情のサブ犬は先の2匹が雑種なので、3匹目はすこし良い犬を飼おうということになり、血統書付きの柴犬にした。
 血統書には、父犬の名前が鉄錦号、母犬が菊仲姫号で、本人(犬)はコロ助号と記載されている。

 昭和62年2月20日生まれだ。
 父・母犬の名前に比較し、本人(犬)の名前が軽々しいのが印象的だった。

 「日本犬はやたら人間に媚びないようにしつけたほうがよい」とどこかで読んだ私は、あまり芸的なしつけはしなかった。

 その上鉄柵で仕切った庭に放し飼いにしておいたので、私以外の者にはなつかない自由奔放な日本犬に仕上がった。
 どうしてもクサリに繋がなくてはならない時などは、繋がれている間中何時間でも吠えまくった。

 放し飼いのくせに敷地外に出たがり、愚妻のすきをねらっては家に上がりこみ、居間を一気にかけ抜けて玄関から外に出ようとする。
 ある時、少しばかり開いていた裏木戸の隙間からするりとにげ出した。

 裏木戸を開けたのは父親である。
 あわてた父親は、電柱に自分の印をつけている真っ最中のサブを後ろからむんずと抱きかかえた。
 日ごろ自分はナンバー2だと思っているサブは怒り心頭に発し、思い切り父親の手にかみついた。

 53はサブより新参者だが、ジープに柴犬はお似合いだと思いある日乗せてみた。
 気丈な犬だが文明の利器は苦手なようだ。
 ふだん車などに乗ったことないサブは、荷台に乗せられてブルンとエンジンがかかったとたんおじ気づいた。

 ジタバタ暴れてさかんに幌を引っかいた。
 おかげで後面のフィルムがキズだらけになった。

 質実剛健な柴犬なので、どんなに寒くも暑くも一年を通じて戸外で飼っていたが、何回か家の中に入れたことがある。
 その時は非常に喜び、居間の片隅にうずくまり満足そうにしていた。

 しばらくしてふと見ると、今までいたはずの所はもぬけの空。
 ソロリソロリと伏せたまま前進して、いつの間にか居間の中央に幸せそうに横になっていた。

 しかしサブのその幸せも束の間。
 大抵30分くらいで外に出された。
すねた表情のサブ
 最近は大型犬を家の中で飼っているお宅も多いが、父親譲りの私の衛生感覚ではどうしても犬を家の中で飼うことができない。

 しかし、本来犬は群れで生きる動物である。
 人間と犬の区別のできないサブにしてみれば、どうして自分だけ戸外におかれるのか理解できなかったに違いない。
 時々悲しそうに吠えるサブの声は今でも耳に残っている。

 サブが卒業した今となっては、悲しい思いをさせないためにもう二度と犬は飼うまいと思った。

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36.あの穴のお話(平成13年7月)

 6年来の謎が解けた。
 53購入当時、両側ドアの幌骨に当たるところで幌布が擦り切れていて、小さな穴があいていた話である。

 開いた原因がわかった穴走行中のバタツキで擦り切れたものと思い、「しかし4,200Kmくらいで、たとえ小さいといえども穴があくものなのだろうか?」と長年疑問に思っていた。

 昨年の夏に、運転席のファスナーが壊れたのを機会に幌を新調した。
 以来何キロ走ると穴が開くものなのか楽しみにして、毎日のように観察を続けた。

 その結果穴が開いたのである。
 「穴の開くほど見つめる」という言葉があるがが、もしかしたら見つめすぎて穴が開いたのかもしれない。
 冗談はさておき、穴は開いたがそれは走行によるバタツキではなく、ドアの開閉による当たりで開いたのだ。

 私の53にはグラブバーがついていた。
 特にそのグラブバーを取り付けているボルトの頭に、ドアを最大に開けたときに幌骨が当たる。

 私は駐車時や掃除をするときにゴムバンドを用いてドアを開け放しにするが、ある日気がつくと幌ドアの問題の部分に黒いシミのような病変が生じていた。

 このシミはやがて穴へと成長しつつある。
 そしてある一定の大きさになった穴は、当たる面積以上には決して大きくならないのだ。
 グラブバーを取り付けていなくても、ほぼ同じ部分が窓枠に当たる。

 風であおられたときや、ちょっと力をいれてドアを押さえると知らず知らずのうちに当たっている。
 だから恐らく、ほとんどの幌ドアジープの同じ部分に穴が開いているはずだ。

 原因がわかれば、なんだと言うこともないささいなことだが、走行によるバタツキで穴が開くとしたら走行距離に比例する事になり、オドメーターの数字に疑念が生じることになる。

 それというのも、普通の車と違ってジープは、例えオドメーターが一回りしていてもきれいに補修してあれば、10万キロの差の見分けがつかないほどの耐久性があると信じているからである。

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37.出腹撃退記(平成13年7月)

 クロカン車に出腹は禁物である。
 ジープの腹も多少出ているが、それにも増して自分の出腹だけは何とかしたいと考えた。

 腹が出ると言うことは、余分な脂肪が腹や内臓の周囲についた結果である。
 余分な脂肪がつくということは食物の摂取のしすぎか、運動不足ということである。

 玄米が健康に良いという話を聞いて、私は20年近く前から玄米を食べている。
 ものの本によると、玄米のエネルギーは白米の20数倍あるそうだ。

 まけば芽が出るのが玄米である。
 まんざら誇張でもない気がする。

 玄米と菜食を組み合わせた玄米菜食主義の人もいるが、私の場合はそこまで徹していない。
 肉も魚も好んで食べる。

 エネルギーのある玄米だから、白米に比べて食べる量は少量でよい。
 医学博士の小倉重成氏は、その著書「自然治癒力を活かせ」の中で、玄米菜食・一日一食プラス鍛錬療法で、現代医学でも治療の困難な膠原病、気管支喘息、慢性肝炎、慢性腎炎、糖尿病、メニエール病等の難病が驚くほど早く回復していく様子を述べている。

 小食の薦めはマキストープ理論に例えられる。
 つまり、ストーブに燃料であるマキを入れすぎると不完全燃焼を起こす。

 人間で言えば過食であり、過食こそ万病の元である。
 ストーブに少量のマキを入れて、十分に酸素を供給してやれば、効率よく燃えてくれる。

 玄米菜食による小食(1日1食)と、毎日10Kmのランニングが小倉博士の難病治療の基本療法だ。 
 難病患者に効果のある療法なら、健康者が取り入れて悪いはずがない。
 健康増進とその副産物としての我が出腹の撃退方として、玄米プラス小食を取り入れることにした。

 平成11年6月。
 私はこの計画を実行した。

 ジープ通勤開始2ヵ月後である。
 いよいよ変人が奇人の領域にまた一歩近づいた。

毎朝・・・4Kmの早足歩行。
朝食・・・玄米・茶碗一杯、野菜(生、スープ、炒め物のうちいずれか)、魚等の動物性たんぱく質、味噌汁、漬け物。
昼食・・・なし(今までは外食)
夕食・・酒・一合半、一般的なおかず、玄米・茶碗一杯(昼食を食べたときはなし)、味噌汁、漬け物。

 従来との相違は外食の昼食をやめたことである。
 その結果最初の一カ月で体重が6Kg減少した。
 また若干高めだった、血圧、総コレステロール値も低下した。

 以来2年が経過したが、特別の季節を除き体重の増減はない。
 特別の季節とは、年末年始等の酒を飲む機会が多い季節である。

 一日2食では、必要なカロリーや栄養素が摂取できないのでは?という現代栄養学に基づく素朴な疑問が出るだろう。
 しかし、一般的に自然界の動物は満腹でいる期間はむしろ稀であり、空腹期間が圧倒的に長いと言われている。

 また、日本人においては白米3食の歴史は浅く、玄米・雑穀2食の方がずっと長いことを思い出すべきである。
 玄米を始め多くの食品の中には、未だ発見されていない多種の微量で有効な栄養素があるのではないか。
 カロリーと、既知の栄養素計算による現代の常識的食事方法が正しいと思えないのは、西洋型生活習慣病の益々の増加である。

 さて、2年間の人体実験の結果、我が出腹は見事に消滅し、廃棄しかないと思っていた10年前のスーツ類を始め、バイク用の皮パンツ(私にとって青春のシンボル)までがはけるようになった。

 一日2食ではさぞかし腹が減ってスタミナがなくなるのでは?と思われがちだか、事実は全くその逆である。
 確かに腹は減るが、白米を食べていた時のように力が抜けることはない。
 体が軽くなり、疲れを知らず、夕方になるほど力がわいてくる。

 「空腹を楽しむ」という言葉をどこかで目にしたが、なるほどそんな境地もあるものかと納得した。
 反面、たまには付き合いや休日などに昼食を取ることもあるが、むしろその日は胃が重く、いつもの調子が出ない。

 しかし食事は、一般人にとって栄養素の摂取と共に、人生における大きな楽しみの一つでもある。
 また、コミュニケーションを図る手段や、付き合いの場でもある。

 従って私は、この生き方を家族を始め周囲の者に押し付ける気は毛頭ない。
 変人の烙印をおされた、ジープ病患者に許された特権の一つであると思って。

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38.白神山地ジープ旅(平成13年8月)

 NKHの番組で、白神山地に関するドキュメンタリーを見た。
 白神山地とは、青森と秋田の県境に位置するブナ林を主とする山地で、現在では世界遺産に指定されている。

 番組のあら筋は、その白神山地の中央部を横断する道路の建設をめぐり、地元の有志やマタギといった人々が、白神山地の自然を守るために道路建設を阻止する物語である。

 たまたま東北旅行を計画していた私は、番組に登場する白神山地なる言葉にひかれ、ぜひその付近に行ってみたいと思うようになった。

 我が家では、毎年夏休みを利用して2泊程度の家族旅行を行っているが、子供も大きくなって今年の旅行は棄権するという。
 これはもっけの幸いとばかりに、愚妻と二人のジープ旅となった。

 ネットで宿泊施設を予約する。
 最近はもっぱら厚生年金、国民休暇村、かんぽの宿等の公的施設を利用している。

 これらには新しい施設も多く、料金も民間の宿泊施設に比べかなり安い。
 最近テント泊がめっきり少なくなったわが家の旅行にとって、大変ありがたい存在だ。


8月26日(日) 晴れのち雨
  6:00、両親、子供たちに見送られてわが家を出発する。
 本日はもっぱら移動に専念する日になりそうだ。
 新潟市までは関越高速、その先は酒田市まで一般道だ。

 今回の旅行は、カーナビ大明神という心強い味方がついている。
 すでに目的地はすべて入力済みだ。
  まずは関越高速に乗り、巡航速度を85Kmにとる。

 私の53は、80Kmを境に燃費が大きく変わる。
 80Km以下だと15Km/リットルも夢でない。
 100Km以上だと8Km/リットルに落ち込んでしまう。

 特に急ぐ必要もないジープ旅だ。
 燃費は良い方がありがたい。

 高速をノロノロ走っていると、時々ピタリと後につく車を見かける。
 1、2分後に離れていく車が多いが、中には相当長い間ついて来る車もある。

 これは観察者である。
 テーマは恐らく、「高速道路における幌式ジープの走行状態について」 であろう。

 観察ポイント1・直進安定性・・・一応まっすぐ走っているが、運転者の二の腕には相当力が入っているようだ。 
 額には冷や汗がにじんでいる。
 直進安定性はやはり悪いようだ。

 観察ポイント2・パワー・・・平坦路・上り坂でも速度が一定のところを見ると、パワーはまずまずのようだ。
 だが上り坂になると盛んに煙を出している。
 あの煙は何とかならないものか。

 観察ポイント3・静粛性・・・搭乗者同士がどなりあっているようだ。
 喧嘩でないとしたら、騒音がかなりひどいのだろう。  

 観察者にこう思われないように片腕を窓にかけ、上り坂でアクセルを急激に踏み込まないように注意し、愚妻と涼しい笑顔で会話をするのは結構疲れるものだ。

 やがて観察者は観察が終わると、レーンチェンジをしてすっと追い越して行く。
 そしてこちらもやれやれだ。

 高速道路はジープに全く似つかわしくないが、時間を稼ぐ手段としては有効だ。
 また金もかかるが、見晴らしの良いジープの運転台に座って、一般道とは全く異なる風景を楽しむのも良いものだ。
 上から見下ろすだけで、見なれたはずの景色が別世界に見えてしまうのは、いつ走っても不思議なものだ。

  車で走ることが好きな私の旅行スケジュールは、ついつい目いっぱい走ってしまうことが多いが、関越高速を新潟中央で降り、一般道を酒田まで走って本日の移動は終了。

  酒田では土門拳記念館に立ち寄り、雨模様になったので早めに本日の宿「かんぽの郷酒田」にチェックインした。
 しかし、「かんぽの郷酒田」の前でカーナビ大明神は大変頼りになるものだ。

 時々ウソをつかれて遠回りをさせられたり、ヘソを曲げて止まってしまうこともあるが、地図と格闘しながら右往左往することもなく宿に着くことができた。
 ありがたや、ありがたや。

 本日の走行距離385Km


8月27日(月) くもり時々晴れ
 本日は終日一般道を走ることになる。
 国道7号をひたすら北上する。
 国道7号は海沿いの区間が多いので、海無し県育ちの私にとって飽きが来ない。

 日本海沿いの風景はさびれた漁村が多く、いつ見てもわびしさを感じるが、能代市をすぎるあたりから周囲の樹木が針葉樹となり、高山の風景に似たものとなってきた。
 いよいよ本州最北の地に来た実感が湧く。
十二湖の一つ
 左手に海を見下ろし、右手に連なる山々を仰いで進むと、やがてあちこちの道標に「白神山地」の文字が現れる。

 今回の旅行は白神山地をトレッキングする余裕はないので、12の湖があるという「十二湖」に立ち寄った後、一気に岩崎村より白神ラインに突入した。

 白神ラインは、白神山地の北の縁を岩崎村より西目屋村まで結ぶ林道で、全長約70Kmのうち40Km余がよく整備された白神ライン未舗装路だ。

 白神ラインは、本州最北の深山の未舗装路としては、拍子抜けするほど良く整備されており、この時点では地上高の高い四駆でなければ走れないところは一ヶ所もない。
ブナの木
  しかし、ブナ林に囲まれたその距離は長く、辺境の林道走行を十分に堪能できる。

 そしてたぶん、通行人を猿、野うさぎ、キジさんが出迎えてくれる。
 もしかしたら熊さんも。

 我々は、今回の旅の目的でもあるこの林道をすばやく通りぬけるのが惜しくて、時々立ち止まって写真を撮ったり、低速の4速でのんびり走った。
 白神ラインは西目屋村を過ぎるとやがて弘前市に通じる。岩魚がウヨウヨいそうな渓流
 この道が今から何年前に建設されたか知る由もないが、人々の必要に応じて膨大な歳月と労苦をもって作られたことは間違いない。

 そんなことを考えながらトボトボと走っていたら、宿に着くのがすっかり遅くなってしまった。
 今宵の宿は、尾上町にある「厚生年金青森おのえ荘」。

 本日の走行距離 328Km。


8月28日(火) 晴れ時々くもり
 本日は蔵王まで一気に高速道路で移動する。
 普通の車だと、120Km程度の巡航速度で粛々と進む高速走行であるが、我が53だとたかだか85Kmの巡航速度でさえ怒涛の勢いで進むことになる。

  エンジン、ミッションの吠え声、幌のばたつきと下駄山タイヤの発する唸り音、車体に伝わる振動は、多用途自走機械を操縦している実感を十二分に堪能できる。

 今日も観察者が結構多いようだ。
 原色の2シーターのスポースカーや、たまには大型トレーラーの観察者もいるので、後からあおられるようでプレッシャーを感じる。  

 どこかの自衛隊部隊の移動があるようで、73式大型トラックや隊員が乗った大型バスが次々と追い越して行く。
  トンネルの中で、後方から異様な車影が迫って来たのでよく見ると高機動車だった。

 高機動車はトンネルを抜けると、100Km程度の速度でゆっくりと追い越して行った。
 逆光でシルエットとなった高機動車の後ろ姿は、一般車両とかけ離れた車幅と地上高が印象的だった。

  高速を宮城川崎で降りると、辺りはすっかり曇り空。
 本日の宿泊地は蔵王だ。

 蔵王といってもはずれなのか、カーナビ大明神の案内する目的地界隈には観光地のにぎわいはなかった。
 小雨が降り出しうっすらと霧さえ出てきた中、「宮城勤労総合福祉センター 蔵王ハイツ」に到着。

 本日の走行距離 374Km。


8月29日(水) 小雨のち晴れ
 ジープ旅行最後の日になった。

 3日間走りどおしだったので、観光地らしき風景を見物する事にした。
 宿泊地の比較的近くに、お釜(オガマ)という火口湖がある。

 昨日に引き続き、辺りは霧が巻き小雨模様で視界はすこぶる悪い。
 はたしてこんな気象で景色が見られるだろうかと、危惧の念を抱きながらお釜に向かって走る。

 すっかりあきらめかけていた景色であるが、高度が上がるに従って霧が晴れ、薄日さえさしてきた。
 そして、山頂に着く頃には快晴となり、眼下に雲がたなびく素晴らしい景色が展開した。

  何のことはない、山頂は雲の上なので快晴なのである。 
 今回の旅も、思いもかけない展開に出くわした。
  「お釜」は、初めてそれを見る人に感動をもたらすに違いない。

オカマではなくオガマ 火口に鎮座したエメラルド色の湖は、周囲にそそり立つ茶色の絶壁によく映え、神秘的な雰囲気をかもし出している。

上空を通過する雲が影を落とすと、湖面の色が一瞬のうちに変わり、風に乗って周囲の雲が霧と化して火口を覆う。

 地元の白根山で同じような風景を見ている我々にとっても、エメラルド色の火口湖は今回の旅の印象に残った。
  観光見物をはたした我々は白石インターより東北自動車道に乗り、帰路に着くことにした。

 自宅着18:30。

 本日の走行距離374Km。

 3泊4日、総走行距離1,461Kmのジープ旅が終わった。
 我が53の平均燃費は、11.5Km/リットル。

 この間に出合ったジープはただ一台。
 旅行3日目に東北高速道の反対車線を一瞬すれ違った、自衛隊の73式小型トラックがそれであった。

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39.さらば酒とタバコの日々(平成14年1月)

 健全なる一般人のイメージとして、ジープ乗り=野人=大酒飲みのヘビースモーカー があるかも知れない。
 品行方正で聡明なジーパーにとっては、はなはだ不本意なイメージである。

 そう言う私自身はここうん十年、大酒を飲むごとに「体にいいわけないよねぇ」と思いつつ、「少量なら体にいいのよねぇ」と言い訳をしながら、毎晩2合〜1合半の晩酌を欠かさず続けてきた。

  タバコについては人事異動をキッカケに、18年間吸わずにいたものが復活し、罪悪感からやめたり吸ったり忙しい日々を過ごしてきた。

 タバコ吸いはいやしいもので、吸いたくなるとシケモクを探したり、初対面の人にでもねだってしまう。
 特に酒が入ると、吸わないつもりでタバコを持参しなくとも、わざわざ買いに行くこともしばしばあった。

 ある宴席で、知人がこんな私をいましめるため、「そんな意志の弱いことではタバコなどやめろ。大体吸わない者が迷惑だ。貸してみろオレが全部吸ってやる」と言って、私から取り上げた開封したてのタバコを、全部くわえて火をつけた。

 私をはじめ出席者一同はあっけに取られて、回転式連発銃のような彼の口元を見つめた。
 そういう彼氏は、二十歳前からのヘビースモーカーだったが、ここ10数年はやめているそうだ。
 やめた原因が、非喫煙者の迷惑を顧みないタバコ吸いの無頓着さで、その姿を見て嫌になったそうだ。

 前置きが長くなったが、私は晩酌をやめた。
 私が酒を飲まなくなったキッカケは、昨年の9月24日のことだった。

  この日は秋のお彼岸の兄弟・家族の集まりがあり、弟と二人で酒を飲んでいた。
 いつものように一升ビンが空になる頃、私の心のどこかからこんな声が聞こえてきた。

  「もうお酒もこれくらいでいいでしょう。長い間充分飲んだでしょう」 そして次の瞬間、「うん、そうだね。もう充分飲んだからいいや」と答えている自分を感じた。

  以来私は付き合い酒以外の酒をやめた。
 ついでにタバコも止めた。
 禁酒・禁煙の秘訣を問われても、「自然に飲みも吸いたくもなくなっただけ」と言わざるを得ない。

 さすがに暮れ・正月は何日か飲んだが、その数は数えるほどである。
 「なにっ?好きな酒が飲めなくなった?そりゃぁ病気だ!」と言う者もいるが、もし病気でないとしたら、げに不思議な現象である。

 さらば、酒とタバコの日々よ。

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40.宇宙船寝袋号(平成14年1月)

 ジープ乗り=野営の達人=テント・寝袋生活という図式のごとく、私も寝袋を3種類5枚ほど所有している。
 厚いのが2枚、薄いのが2枚、中間が1枚の5枚である。

 ただし私は野営の達人でもないし、本格的な山登りのシーズンに合わせて買ったわけでもない。
 家族キャンプのために、人数分そろえているうちに、同じ物がなくなって多種類となっただけである。

 私は自宅では寝台に寝ているが、タオルケットであれ厚手の掛け布団であれ、寝具について具合がよいと思ったことがない。
 要するに、寝台からずり落ちるのである。

 夏ならばタオルケットが落ちてもどうということは無いが、冬場の掛け布団がずり落ちる過程は、はなはだ寝苦しいものである。
 その時は大抵、何者かに上からのしかかられている夢を見る。

  昨年の秋、最近めっきり使わなくなった寝袋を干していてふと気がついた。
 家庭においても、寝袋は合理的な寝具ではないだろうか?
 さっそく、その晩から試してみた。

 寝台の上に置かれた寝袋は、まな板の上に乗った安物のタラコのようで風采が上がらない。
 しかし試してみると、いやいやどうして具合がよい。

 まず、ずり落ちることは皆無である。
 もしずり落ちたとしたら、中身もろともなので問題はない。

 寝返りを打ってもピタリと密着しているので、スースーすき間風が入ることが無い。
 その上大変軽い。

 寒がりの愚妻は、冬場は電気敷布に実母より奪い取った羽毛布団を使用しているが、暖かさ/重量比率でもはるかに寝袋に軍配が上がる。

 秋口だと一番薄いものが適当だ。
 季節の変化に合わせて、より厚手なもの、そして二枚重ねと組み合わせる。

 一年で最も寒い現在は、厚手を2枚重ねてちょうど良い。
 それにしても、布団に比べ何と言う軽さと暖かさだろう。

 欠点はただ一つ。
 放屁すると・・・。
 あとはご想像にお任せする。

  「まるでミノムシみたいね。ガハハハ!」とバカ笑いする愚妻を尻目に、私はいそいそと宇宙船寝袋号に搭乗。
 今夜も夢の世界に向かって発進!

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41.年寄りの冷や水(平成14年3月)

 その昔、私の勤務先にオートバイで通勤している役員がいた。
 はじめは50ccのビジネスバイクだったが、ある日CM125というホンダのアメリカンに乗り換えた。

 50ccのビジネスバイクに比べると、125ccツインでアメリカンタイプのCM125は、はるかに大きくバイクらしかった。
 納車を勤務先で済ませた彼は、以来さっそうとCM125で通勤することになる。
 しかも、背中に摸造刀を背負って。

 なぜ背中に摸造刀なのか? 
 当時彼は居合いを習っていたので、通勤帰りの練習に必要だったのだ。

 50代後半のその役員の姿は、当時若者だった我々から見ると、まったく奇妙なものに見えた。
 彼が車の免許を持っているのか、いないのかと言う論議になったが、どうも持っているようだという推論に終わった。

 車が買えないほど役員報酬が少ないわけはない。
 となると、確固たる信念によってバイク通勤を続けているわけである。

  雨が降っても、風が吹いても、真夏でも真冬でも、時折模造刀を背負ってCM125で通勤する彼の姿を見て、役員らしくないとか、年寄りの冷や水だとか、物好きだとか陰口をたたく者もいた。

 私もはっきりそう言ったわけではないが、それに近い感情があった。
 私の勤務先は辺ぴな所にあるので、当時でさえ男性社員はほぼ全員車で通勤していた。

 せめて軽4輪にでもすれば、降雨時や真冬における社員の同情から逃れられたに違いない。
 年寄りの、ましてや役員のそうした姿は、痛々しい感じすらした。

 彼の年齢に近づきつつある今、私はふと自分の姿を彼の上に重ねて見た。
 彼の場合、バイクにまたがり背中には摸造刀。
 私の場合、10年落ちの幌ジープ。

 20代の若者の目に、この両者の区別はつくだろうか?
 いや、いやつくまい。
 若者の目には、どちらも同じように奇異な姿に映っているに違いない。

 私は今、当時のバイク常務の心境を理解した。
 それは、「敵幾千万とも我行かん!」の気概である。

 そして彼も、病気であったと…。

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42.ストレス解消(平成14年4月)

 先日ある会社の役員を、我が53に乗せる機会があった。
 たまたま帰る方面が同じだったので、送って行くことになったのだ。

 「いやー、こういう車好きだなー」
 彼は幌ドアを開けて53に乗り込みながら、第一声を発した。

 第二声は、「このドアどう閉めるんだい?」
 そして第三声は、「どこにつかまるんだ?」である。

 初めて乗る人にとって、まずドアの閉め方がわからない。
 そして大きくゆれるジープは、どこかにつかまらないと不安定である。
 しばらく私の運転や、走行装置を興味深げに見ていた彼は、「これはストレス解消になるな。そうだろう?」と言った。

 53に乗って、「疲れるだろう?」「寒いだろう?」「暑いだろう?」と言う人は大勢いる。
 しかし「ストレス解消になるだろう?」と言った人は初めてである。

 普段高級車ばかりに乗っている方の発言とは思えない。
 私は彼の直観力に感心した。

 「実はそうなんですよ。各部の操作は重いし、走行は不安定だし、うるさいし、さぞかし疲れるだろうと思われていますが、稀有な機械を操作しているということが快感なんですね」

 「うまい例えではありませんが、山登りの感覚に似てますかね。人は何であんなに苦労をして山に登るのだろうと言いますが、それは愛好家にしかわかりません。また、車に弱い愚妻にとって、バネの硬いジープだと全く酔わないんですよ」

 私の言うことにいちいち「うん、うん」とうなづいていた彼は、やがて自宅前で53から降りた。
 その降り方はさっそうとしていて、危なげがない。
 人によっては、降りる際に膝を鉄板にしたたか打ちつけたり、へたをすると転がり落ちるような降り方をする者もいる。

  ジープへの乗り降りを見ていると、その人の個性が現れて実に面白い。
 冷静で観察力の優れている人は、ジープの構造をよく見て、岩登りの3点確保の要領で一歩一歩行動する。

 それに比較しおっちょこちょいは、ジャングルジムによじ登るようなかっこうでで乗り込んだり、降りるときなどいきなり上半身をジープの外に投げ出そうとする。
 足は車体の中に残り、次に車体のふちに引っ掛かり、頭から転がりそうになる。

 ドアの閉め方も面白い。
 人によっては降りるや否や、普通の車のように力まかせにバタンと打ちつける者がいる。
 幌ドアは軽いので壊れはしないが、気分が悪いのでドアに関しては、閉められる前に自分で閉めることにしている。

 「ストレス解消か。その通りだな」他人に言われて、私はジープ病の一面を再認識した形になった。
 私がいくら53に乗っても疲れないのは、運転そのものがストレス解消になっているからに他ならないのである。

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43.フリーハブ(平成14年4月)

 平成4年製のわが53は、今年の1月で製造後丸10年が経過したことになる。
 ますます快調で、特に悪いところはない。

 親戚の整備屋さんには大変申し訳ないが、車検は昨年よりネットで知り合ったK氏の所にお願いしている。
 K氏は一般車検・整備はもとより、ジープの改造に力を注いでいる若き経営者である。
 特にJ57と、そのエンジンG54Bのチューンには情熱を傾けている。

 前々から、53の整備はジープを知りつくしている人に依頼したいと思っていたが、掲示板ヘの彼の書き込みが縁で、「渡りに船」とばかりにK氏にお願いすることにした。

 K氏の願望は、J57をベースとした最強のジープを作る事である。
 ドラッグレースであれヒルクライムであれ、最速でなければ気がすまない。
 G54Bから最大のパワーを絞り出すために、カム、カムシャフト、バルブ、ピストン等のあらゆる部品について、その形状、材質が吟味され、メーカーに特注されている。

 勿論そのパワーに負けないだけのツインプレートクラッチの採用、特殊合金を使ったクロスレシオ・ミッション・ギアの製作など、J57に特化したその情熱の傾注ぶりは相当なものがある。

 K氏の工場を訪れた何回目かのことである。
 K氏は私に「ヒデさん、エンジンを載せ替えませんか? 53のディーゼルエンジンは30系の連中に人気があるから、すぐはけますよ」と、いともたやすく言った。

 53のディーゼルエンジン4DR6を、2600ccのカソリンエンジンG54Bに載せ替えないかと言うのである。
 G54Bはスタリオンにも搭載されている。
 中古の単体が手に入るそうだ。

  「いやぁー、私は53のこのディーゼルエンジンは大変気に入っているんだよ。信頼性もあるし、第一燃費が良くて私のように毎日使う者にとって助かるよ。何しろ、軽油でリッター11キロだから」

 聞いてみると、チューンされたG54Bの燃費はハイオクで3Km台だと言う。
 しかしガソリンエンジンは、腕次第で相当なチューンが可能な素材であるそうだ。
 特に自然吸気はその効果が著しい。

 自分で設計した部品により、エンジンからモリモリとパワーが出て、その結果いろいろなレースで常勝したら、これはまた面白いに違いない。
 そして同好者が、同じようにチューンアップしたり部品を交換すれば、K氏の努力も報われ商売も繁盛する。
 趣味と実益の一致とはこのことである。

 ただし現状は、そううまくはいかないようだ。
 部品の製作に相当な費用もかかるし、同好者の数も限られている。
 私も何か協力したいが、完成されたディーゼルエンジンはいじりようもないそうだ。

 先日、10回目の車検を迎える53と共にK氏の工場を訪れた。
 改造のために、年間を通じてほとんど工場入りしているK氏のJ57と共に、お客さんの古い53が整備を受けていた。
 見るとウオーンのフリーハブを装着中である。
目立った燃費の改善はなし
 K氏は車検の打ち合わせが終わると、「ヒデさんもフリーハブを付けませんか? 燃費も多少良くなるし、ヒデさんみたいに2輪走行が多い場合、フロントデフの負担が軽くなりますよ」と言った。

 私はエンジンの換装をするほどの勇気もお金もなかったが、フリーハブを装着するに足る興味と、小遣いも何とかたまっていたので、「うん、そうだね。お願いするよ」と即座に答えた。

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44.軟弱者のフルオープン(平成14年4月)

 今年の春は猛スピードでやってきた。
 3月だというのに夏日が続いたり、桜の開花が2週間も早いなど異常なことだらけである。
 おかげで私は、二つのお花見を葉桜の下で行った。

 桜もすっかり散ってしまった4月の半ば、あまりの好天に私は53をフルオープンにすることにした。
 ジープ界にはツワモノが多い。

 スノボーにフルオープンで行くT氏。
 年間を通じてビキニトップで過ごすD氏。
 軟弱者の私は真似すらできないが、そんな私も時折53をフルオープンにする。

 オープンの儀式はまず洗車から始まる。
 きれいに洗ってから幌と格闘しないと、手も着衣も真っ黒になるのだ。

 さて、ドアをはずし洗いたての幌を留め金具の拘束から開放して、一面ずつおりたたむ。
 最後にひとかたまりとなった天井の部分がずり下ろされると、53の運転台はまぶしい太陽光線にさらされる。

 続いて、細い幌骨を一本一本取り外し、ボルトで固定されている大骨を取り除くと、いよいよ53はフルオープンとなる。
 さらに幌の陰に積もったホコリをふきとり、フロント・ウインドウをヨイショとばかりに倒せば、53は全く異質の乗り物へ変身する。

 感覚的にはアイアン・ホース(鉄の馬)、大型バギー、4輪オートバイ、走行機械というイメージだ。
 私はこの日のために53に乗っているわけだが、軟弱者の私は53をオープンにするのは年に数回がいいところである。

 洗車をした上での幌のとりはずしと、一走りした後の幌の装着は、まず天気と体調に恵まれないとその気にならない。
 軟弱者の私は、オープン走行の翌日は決まって体中が痛む。
 幌とベルトとの格闘で、普段使わない筋肉を使うからである。

 ツワモノで名高いT氏など、かつてロッククライミングで鍛えたD氏でさえ満身の力を込めてもどうにもとめられない幌のフォックを、いとも簡単に片手でヒョイととめてしまうそうだ。
 ジープとは、本来そう言う人たちのための乗り物であったことを思い出す。

 さて準備もすっかり整ったので、私は53に搭乗する。
 鉄板で構成されたこの走行機械は、乗ると言うよりも搭乗すると表現した方がおにあいだ。
 好天の割にはやや肌寒い気温なので、だいぶ面白みは欠けるが、軟弱者の私は一度倒したフロント・ウインドウを立てて走ることにした。

 フロント・ウインドウを立てると、53はやや車らしくなる。
 それでも一歩道路に乗り出せば、53は全く異質の存在である。

 すれ違う車や歩行者から、過去の亡霊を見るような、異次元の物体を見るような、驚きと、物好きに対する軽蔑と、ほんの少々の憧れが入り混じった独特な視線を感じながら、私は嬉々として、もえぎ色の榛名山に向かった。

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45.尾瀬とジープ(平成14年8月)

夏がくればおもいだす       水芭蕉の花がさいてる
はるかな尾瀬遠い空        夢見て咲いてる水のほとり
きりのなかにうかびくる       しゃくなげ色にたそがれる
やさしい影野のこみち       はるかな尾瀬遠い空

 「尾瀬」という文字を見たり言葉を聞くたびに、私の心の中に小学校唱歌「夏の思い出」のメロディーが流れて来る。

 それは二度と戻ることのできない、懐かしい古き良き時代への憧れでもある。
 しかし、10代の終わりに初めて尾瀬に入った私にとって、この歌を無心で歌っていた頃は本物の尾瀬を知ることはなかった。心が癒される風景
 したがって、すでに私の心の中にあったこの歌のイメージが、後日実在の尾瀬に重ね合わせられることになったのだろう。

 物理的にも、精神的にも私を取り巻く社会の環境がすっかり変わり、幼い頃親しかった身近な人々や風景、あたり前だった価値観が失われつつある現在であるが、尾瀬は多くの人々の努力によりこの歌のメロディーや歌詞とともに、昔のままの姿を保ち続けているような気がする。

 私にとって尾瀬とジープは、昔のままの姿を保ち続けているというところに共通点がある。
 そして単に昔のままというだけでなく、両者はそれぞれの分野で突出している。
 片や大自然の中でも類い稀なる高層湿原であり、片やある目的のために一国の運命をかけて創り出された工業製品の傑作である。

 ジープについては、それが何のために、また、どこの国のために創り出されたものなのかを問うことは、今となっては無意味であろう。
 かつては武器であった日本刀が今では美術品であるように、極度にその目的に特化したジープも、工業美術品(こんな言葉があるとしたら)の域に達していると思う。

 尾瀬とジープ、失われたら二度と手に入らないという点も両者の共通点である。
 それを認識している多くの人々の努力によって、尾瀬はかろうじて保存されている。

 しかし、残念ながらジープは多くの人々の願いもむなしく、生産が打ち切られてしまった。
 それだけでなく、今や環境保護の観点からも、ジープ(内燃機関)の生存期間はあまり長くないだろう。

 木道は尾瀬のシンボル私は昨年の秋以来、思い出したように尾瀬に足を運んでいる。
 尾瀬の中に立ち、尾瀬に包まれていると、「夏の思い出」を歌っていた頃の私に帰ったような気持ちになるからだ。

 アプローチの山道を黙々と歩いた後に、青々と開けた湿原の木道に立つと、私の心は煩わしい日常生活の呪縛から解き放たれるのである。

 私の世代は同様な考え方の人々が多いせいか、尾瀬にはやたらと中高年の姿が目につく。
 

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46.改めて53を考える(平成14年9月)

 製造後10年余、購入後7年余が経過した平成4年製の我が53について改めて考えてみた。

 外観的には、ラダーフレームの内側に若干の錆びが発生し、燃料注入口の下部の塗装が幾分光沢を失ってきたが、洗車したての我が53にはとても10年物とは思えない輝きがある。
 もっとも2年前に幌とドアを新調しているので、見た目のイメージアップに相当貢献していることは否めないが。

 機械的には今のところ全く不具合はない。
 2年半以上前に、悪夢のようなフロントデフ交換という事件があったが、それ以前もそれ以後も消耗品を除き、修理はリア・ホイールシリンダーカップキットとブレーキスイッチを交換した程度である。

 一般乗用車で故障の多いパワーステアリング、パワーウインドウ、エアコン、ABS等が装備されていないため、壊れるところが少ないからとも言えるだろうが。

 足回りに関しては、一般乗用車での寿命は約6年程度と言う人もいる。
 経年変化で新車時に比較しショックも抜けてフワフワし、スプリングのヘタリで車体も傾き、あちこちにガタが出て剛性感の低下を感じるものだが、わが53の頑丈なラダーフレームとリーフスプリングの乗り味には、10年経っても相変わらずのソリッド感があり、あまり変化が感じられない。

 内装(?)に至っては、鉄板、鉄棒、鉄パイプ、ガラス、ビニール、幌布とごくごく一部のプラスチックで構成されており、汚れればいつでも丸洗いができる。

 運転中は外気が吹きぬけていることが多いので排気ガスの匂いは若干ただようが、中古乗用車に染みつくエアコンのかび臭さや、何ともいえない特有の車臭さ(それにタバコ臭さが混じると最悪)とは全く無縁である。
 年を取らない車とは我が53のことである。

 新車で買えるシーラカンス(生きた化石)とは、まだ新車が製造されていた頃の三菱ジープに対する陰口であったが、確かに原型よりほとんど進化していない我が53は、そのシンプルで頑丈な構造と構成素材によっても、時間の経過に封印がされている感じがする。

 そして更に齢を重ねると、さすがに塗装の光沢が失われてくるが、今度はそれがしぶさとなって違った魅力となってくる。
 古ぼけた塗装がしぶさとなって、より愛着を感ずることの出来る車は、世界広しと言えどそう多くはないだろう。

 改めて我が53について考えた時、こんなコンセプトの車を再び作ってもらいたいと思う気持ちがふつふつと湧いてきた。

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47.生きがい(平成14年9月)

 「ベンツ買おうと思うんだけど、どうかね?」
 ある日、知り合いの社長は唐突に切り出した。

 頑張り屋のその社長は、サラリーマン時代、結婚前に早くも家を建てやがて脱サラ。
 とにかく若いうちが勝負とばかりに、がむしゃらに働いた。

 努力の結果事業も順調に推移し、10年程前に市街により近い土地を入手して第二の家を建てた。
 しかし、ふと気がつくとサラリーマンで言えば定年間近の年輩になり、あまり楽しみのない自分の姿に気がついた。
 最近はどこへ行っても、何を見ても感激がない。

 そこで、楽しみのために高級車に乗ろうという考えが浮かんだ。
 考えてみると、今まではトラックと仕事用のライトバンにしか乗っていなかった。

 シーマから出発した車選びは、やがてベンツとなった。
 どうせ買うなら、より見栄えがする車の方が良いとは自然のなりゆきである。

 そして冒頭の「ベンツ買おうと思うんだけど、どうかね?」という質問となったわけである。
 私はさすがに、「ジープにしたら?」とは冗談にも言えなかった。

 人生の最終ラウンドで、初めて何の楽しみのない自分に気がついた人にとって、それを車に求めるとしたら、まずは自他共に認める圧倒的な価値のあるものでなくてはならない。

 私にとってはジープしかないが、この社長の求めている物はジープとは思えない。
 「セルシオにしたらどうですか。ベンツにひけを取らないし、故障はずっと少ないですよ。社長の性格からすると、故障したらガッカリするでしょう?」

 社長の性格とは、短気ということである。
 期待をして裏切られると、何でも即座に放り出しかねない。

 私は車はもともと嫌いではないので、折りにふれ車に関する情報に接している。
 どの車が絶対的に優れているのかという観点で研究もしてみた。

 その結果、当たり前の事だが全ての車には長所も欠点もある。
 要はその人にどんな車が合っているかということだ。

 Aさんが最高と言う車が、Bさんにとって最高とは限らない。
 どんなに良い車でも、経済力のない人にとって高価格車の維持は無理がある。
 また一面いかに高性能車でも、故障が多くてはそれに付き合える者でなければお手上げだ。

 「ジャガーはどうかね?」
 あれから数ヶ月、久しぶりに会った社長は今度は開口一番こう切り出した。
 「毎日注意して見ていると、やたらベンツが目につくんだよ。それに比べるとジャガーはあまり見ないからね。」

 「私の知り合いに昔からジャガーに乗っている人がいるけど、その人は心底ジャガーが好きなんですよ」と私は答えた。
 私は、社長と言えどもかなりの大金を出して生きがいを買おうとしている人に向かって、いいかげんなことは言えないと思った。

 私も知っているが、ポルシェ病、ベンツ病、BMW病、ジャガー病、レンジローバー病と、高額医療費のかかる病が巷に溢れている。
 それを承知で感染するのは良いが、これらの病は、この社長といえども素人の生きがいとしては、少々高くつくのではないか。

 私は治療費が大変安い部類であろう自分のジープ病に、改めて感謝した。

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48.ショック交換(平成14年10月)

 闘病記46話で、一般乗用車の足回りは寿命が6年程度だと書いていて、ふと我が53の足回りが気になりだした。
 板バネがへたるほどの荷物はふだん積まないが、そう言えばショックはあやしい。
 10年6万Kmといえば、抜けていて当然の時間と距離だ。

 気になりだすと、こんなものかと思っていた乗り心地に急に関心がいく。
 路上のデコボコを越えたときの収まりがあまりよくない。
 ピッチングは承知の上で乗りつづけていたが、妙にポンポンとはねる感じだ。

 以前レガシイ四駆セダンに乗っていた時も、6年くらいでショックを交換しようと思い立ったことがあった。
 しかし、マックファーソンストラットのショックは、コイルスプリングをはずさないと交換できず、工賃が結構かさむので断念した。

 その点わが53のショックは単独で付いているので、ボルトさえ外れれば自分でも交換できそうである。
 しかし軟弱者の私は、ボルトが錆びて固着でもしていようものなら手の皮をあちこちすりむいたり、へたをするとまた尺骨神経麻痺を起こしかねない。
 やはり専門家にお願いする事になった。

 雑誌のページを飾っている赤や黄色のカラフルなショックが脳裏に浮かんだが、たいした走りをしない私の場合は純正のショックで十分だ。
 何よりも、1本4千円少々という値段が気に入った。
 そうだ、ついでにステアリングダンパーも交換しよう。

 ショックが入荷したという連絡を受けて、会社の帰りにいつものK氏の工場に立ち寄ることにした。
 夜でも大丈夫かと問い合わせると、働き者のK氏は毎日午後11時ごろまで工場を開けているとの返事が返ってきたからだ。

 ショックとステアリングダンパーの交換作業は、心配されていた錆びによる固着がなかったために、午後7時過ぎに始まって約1時間でスムーズに終了した。

 「あれっ?クラッチのつながりがよくないなあ。オレの好みに調整していいですか?」
 リフトより降ろしたわが53を移動させながらK氏が言った。

 「うん、お願いするよ」
 私は特に不具合を感じてはいなかったが、プロのK氏の好みとやらに興味がわいた。

 錆びによる固着のため、ショックの交換よりサービスのクラッチ調整の方がむしろ手間取った。
 部品をはずし、大量の防錆剤を吹きかけて動きを回復させた後に、無事調整が終了した新しいクラッチのつながり具合は、私にとって驚異的だった。

 今まではジワリとかなりの踏力でペダルを床まで押しつけたあと、約4割もどった所でクラッチがつながった。
 調整後は、ペタンとほとんど抵抗がなく9割方ペダルが沈み、残りの1割に軽い抵抗がある。
 そして足の力をゆるめると、床よりその1割戻ったところであっという間にクラッチがつながる。

 従って慣れないとガクンと急発進するが、少し慣れれば非常に楽である。
 これがプロ好みのクラッチ・フィーリングというものか。

 調整一つで、クラッチの感じはずいぶん変わるものである。
 標準調整のフィーリングしか頭になかった私にとって、目からウロコの思いであった。

 さて肝心の走りの変化はどうだろう。
 結果は、K氏の工場より自宅に帰るまでの10Km弱の舗装路で、はっきりと体感できた。
 アスファルトの補修部分でポンポンはねていた挙動がすっかり影をひそめ、ドッシリと落ち着いた感じになった。

 バネ下の上下振動が、短時間で確実に収束しているのがよくわかる。
 私はショック4本の交換で、わが53の走りがこんなに改善された事に大変満足した。

 愚妻の車酔いにも更に好結果をもたらすだろう。
 これで私がジープを降りる日が更に遠のくというものだ。

 そうそう、ステアリングダンパーの交換結果だが、軟弱な私の走りの範囲においては、その変化は感じられなかった。

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49.たかがハンドル、されどハンドル(平成14年10月)

 わが53のささやかな悩み。
 それはハンドルのセンターずれである。
 53のハンドルのデザイン上、直進状態では真上のスポークが進行方向にまっすぐ向かっているはずである。

 直進時における気になるスポークの位置走行中わが53のハンドルは常に左右に小刻みに回転しているが、真上のスポークはどうもおおむね1時の方向に向いているようだ。

 7年前の53購入直後、それは2時の方向を示していた。
 あまりにもずれていたのですぐに調整してもらったが、その結果が現状である。
 以来こんなものかと思いながら乗ってはいたが、気になりだすと気になるものである。

 エアバックが内蔵されている最近のハンドルのはずし方は知らないが、一昔前の車ではまずバッテリー端子をはずし、ホーンボタンを押しつけながら反時計方向に回転させるとボタンがはずれナットが現れる。

 わが53の場合は、ハンドルの裏側より3本の小ビスでホーンボタンが固定されている。
 これをはずすと、グラリとホーンボタンがとれる仕組みだ

 あとはナットにレンチを掛けてゆるめてはずし、ハンドルを引き抜いてキザミのついている軸に合わせて、一山か二山修正したい方向にハンドル回してセットするだけである。

 きわめて簡単な作業であるが、軟弱者が行うと結構な手間がかかる。
 まずは目標のナットの取りはずしである。

 ナットのサイズは22番だ。
 工具箱をのぞきこむと、ラチェットレンチのソケットが21番までしかないことに気がついた。

 しかたがないので工具箱をかき回してやっと22番のスパナを見つけるが、見るからに粗悪品のそれ(何かの付属工具)は、サイズも短小ではなはだ頼りない。
 へたをするとナットの角を容易にナメそうである。

 気を取り直してさっそくナットにかけてみる。
 左手でハンドルが回転しないようにしっかりと押さえ、両足をふんばり、右手に握ったスパナに満身の力を掛ける。
 が、ビクともしない。

 何回頑張っても回らない。
 手に痛みを感じて軍手をはずすと、手のひらにはスパナによって紫色のアザができていた。

 まずい!
 また尺骨神経麻痺を起こしそうだ。

 何か道具はないかと家の周りを探してみるが、延長パイプのようなものも見当たらない。
 しかたがないので、とりあえずこの日は断念することにした。

 数日後、会社の昼休みにホームセンターでKTC製22番のソケットを購入した。
 翌日の休日には朝から再び挑戦する。
 大型のラチェットレンチは見るからに頼もしい。

 バッテリー端子をはずし、3本の小ビスを取り除くと、グラリとホーンボタンがはずれて眼前にナットが現れる。
 私ははやる心を押さえて、おもむろにラチェットレンチをナットにかける。
 左手でハンドルを押さえ、両足をふんばり、右手に握ったラチェットレンチに徐々に力を入れる。

 アレッ? 回らない!
 ついに渾身の力をこめるがナットはガンとして回らない。

 整備士氏は何という締め方をしてくれたのだ。
 私はあまりにも固く締め付けられたナットを前にして、前回の作業を行った整備士氏に対し無性に腹が立った。

 いつものK氏の工場へ持っていこうかという弱気がチラリと脳裏をよぎったが、あまりにも情けないので即座に否定した。
 「ハハハ、ヒデさんは力がないねぇ」、というK氏の顔が思い浮かぶようだ。

 もう一度やってみよう。
 私は失敗したときの工具への投資の悔しさと、整備士氏への怒りと、尺骨神経麻痺への恐怖が胸中に交錯する中、何回目かの挑戦を試みた。

 全身の筋肉が呻吟し、血圧が急上昇し、脳内血管が破れようとしたその時である。
 あれほど頑なに回ろうとしなかったナットが、バネワッシャーが挿入されている為か、粘り気のある感触でわずかに回り始めた。

 私は力を使い果たす寸前であったが、こらえてそのままナットを回し続けた。
 とれた!ナットがとれた! 
 五百数十円の投資は無駄ではなかった。

 私ははずしたハンドルを、ミゾの一山反時計方向にずらせて装着し、直ちに試運転に出発した。 
 直線の道路に出るまで若干の不安があったが、間もなくその不安は払拭された。
 53のハンドルのスポークが、直進時にまっすぐ向いているということが、こんなに気持ちの良いものだとは知らなかった。

 幸せな気分の元は身近なところに転がっているものだ。 
 これでまた53の運転が一段と楽しくなりそうだ。

 たかがハンドルされどハンドル、向きひとつ。 

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50.最終生産記念車(平成14年11月)

 平成10年夏、J55にてジープの生産が終了した。
 その最終生産記念車の300余台は、数週間で売れ切れたという。
 一説によると、エンジン4DR5が300個余ったので、最終生産記念車と銘打って在庫処分をしたという噂もある。

 実際、私が最終生産記念車の話を聞いて近くの三菱ディーラーに駆けつけたときには、既に完売となっていた。
 私はジープの今までの売れ行きから、この最終生産記念車の売れ足の速さについて、奇異な感じを受けたのを今でも覚えている。
 正直なところ、私は最終生産記念車がアッという間に売れ切れたことに関して、あまり良い印象を持っていない。

 さてその最終生産記念車が、先日より私が53を購入した三菱ディーラーの中古車展示場に並んでいる。
 ベージュの車体色は遠目でもそれとすぐわかる。
 値札には175万円と大書されていた。

 最終生産記念車とはいえ、4年落ちで175万円とはよい値段である。
 4年前には心が動いた最終生産記念車であるが、私の現状とジープの将来を考えると、さすがのジープ病といえども分別臭くならざるを得ない。

 しかし、すぐ売れてしまえば目障りでないが、何日も売れないで置いてあるとどうにも気になるものである。
 私はこの最終生産記念車については検分をしないつもりでいたが、すぐに売れる気配もないので、ある早朝こっそりと展示場をのぞいて見た。

 平成10年10月初度登録。走行距離176Km。
 あちこち細部を検分したが、使用された形跡なし。
 新古車である。

 ただし不思議な穴がある。
 リアゲート右側に開けられた約20cm間隔の直径5mmくらいの4つの穴。
 補助タンクのキャリアでも付けていたのだろうか。

 私は新古車と思われるこの最終生産記念車を前にして、例によって推理にふけった。
 前の所有者は恐らく投資目的でこの最終生産記念車であるJ55を購入したに違いない。

 ほとんど乗られていないこと、各所がまったく痛んでいないことがそれを物語っている。
 車庫か倉庫で大切に保管されていたのであろう。

 しかし何年経っても値上がりの気配がない。
 それどころか、年々厳しくなるディーゼルエンジンの排ガス規制により、もしかしたらジープそのものに乗れなくなる日が来るかもしれない。 
 それがはっきりしたら、値上がりどころか価格は暴落する。

 あせった所有者は、最終生産記念車を手放すことにした。
 下取り価格は、予想よりもはるかに低いものであったに違いない。

 生産終了となった中古ジープがなぜ値上がりしないのか、実は私も不思議である。
 新車が手に入らないとなると、年々減少する絶対数により中古車価格が上昇してもよいはずである。
 しかしそうならないということは、市場の原理からいえば、値段が上がるほどの需要がないということに他ならない。

 もともとジープはそういう乗り物だからこそ、一部の熱心な愛好家に支持されながらも、最終生産車まで大きな変化がなく推移し続けたのだ。

 そしてそれが歴史の舞台から消え去る時も、その儀式は粛々ととり行われたのである。
 最終生産記念車と言われる、300台余の少しばかり色合いの異なるJ55と共に。 

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51.続・宇宙船寝袋号(平成15年1月)

 ちょうど一年前の第40話で、家庭用の日常寝具として寝袋が大変優れていることを報告したが、ここ一年余り使用し続けて、その驚くべき優秀性が更に実感できた。

 私は薄手、中厚手、厚手の3種類の寝袋計5枚を所有していて、気温によって使い分けていることは第40話にも書いた。
 数があるので、気温の低下に応じて次第に厚くし、昨年の厳冬期は厚手2枚を重ねて使用した。
 しかし今年は、その厚手を一枚で過ごしている。

 軽量な寝袋とは言え、2枚重ねるとやはりやや拘束感が生じてくる。
 それに出入りも若干面倒になる。
 何か良い方法がないかと試していたら、良い方法があった。

 方法はいたって簡単である。
 寝袋にスッポリもぐりこみ、頭部のひもを絞めていくと、開口部が鼻と口の部分ほどに縮小される。

 開口部が確保されているので新鮮な酸素が摂取でき、更に体温が寝袋の中にこもるので実に暖かい。
 自分の体そのものが熱源として利用できるわけだ。

 母親の胎内にいた時の記憶はないが、頭部もスッボリ包まれているので適度に雑音も遮断され、それに近い状態であることが想像できる。

 今思えば、これは寝袋の使い方として常識であるが、冬期キャンプの経験のない私は今更のようにその効果に驚いた。
 寒ければ2枚重ねという、どこかで読んだ記事をうのみにしていたのだ。

 普通の布団でも寒いとよくもぐりこむが、酸欠状態になり息苦しいことは皆さんもご経験のとおりである。
 原理は同じであるが、その性能には雲泥の差がある。
 もちろん布団は重い上に、寝台からは容赦なくずり落ちる。

 電気敷布と羽毛布団で土まんじゅうのように盛り上がった愚妻の寝台を横目に、私は今夜もきわめてスリムで軽量な宇宙船寝袋号に搭乗。

 「ハッチを閉めて急速発進!」
 「よーそーろー!」

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52.ジープのような万能ナイフ(平成15年3月)

 春の気配を感じる今日この頃、またぞろアウトドアの虫が起きてくる。
 野外活動の折に、ポケットからすっと取り出し、すぐさま使える小型ナイフはないだろうか。
 それには折りたたみ式が良いし、安全のために、刃を出した時にカチンと確実にロックのかかるものが良い。

 散歩もかねて、いつものアウトドアショップにブラリと出かける。
 決して数が多いとはいえないショウウインドウの中には、そこそこの品物が展示されていた。
 
 田舎の店なのでいたしかたない。
 それでも、その中でひときわ目を引くものを見つけた。

 金属の分厚いグリップは、フライリールのように丸い穴で肉抜きされている。
 刃の鋼材はATS-34である。
 そして刃の根元半分が波形になっている。

 この波形の部分は、ザイルやロープを切断する時にのこぎりのような役目をするらしい。
 デザインといい、その万能性といい、私が求めていたものである。
 しかし、なかなか購入の決心がつかない私は、およそ30分もガラスケースの前で悶々としていた。

 その様子を不審に思ったのか、一人の男性店員が近づいてきて、傍らの商品の陳列具合を直し始めた。

 商品を並べなおしながら、こちらの様子をうかがっているようだ。
 その店員の行動で、悶々としていた私の背中が押され、決意が固まった。

 私は店員に向かって厳かに告げた。
 「すみません、このナイフをください」

 持ち帰ったナイフをさっそくネットで調べる。
 米国ベンチメイド社の、レパード・半波という製品のようだ。
 調査によると、この製品は本国では生産がすでに終了していた。
 ナイフを買ったときの状況や、すでに生産が終了している点など、私のジープの状況にそっくりだと思った。

 フォールデング(折りたたみ)ナイフであり、落とさないようにクリップがついているので、私は目立たぬように上着のポケットに入れていつも持ち歩いた。
 厳密には銃刀法違反である。

 しかしなかなか出番がない。
 封筒の開封に用いてみた。
 雑誌や新聞紙を束ねるときの紐の切断に使用してみた。

 果物の皮をむいたり、魚をさばくには直刃の部分がやや短かい。
 事故脱出時の安全ベルト切断や、ロープ・ザイルを切断する機会などめったにあるわけではない。

 そんなこんなで、このナイフの存在は出番のないままいつしか忘れ去られた。
 机の引き出しから物置の棚の上に追いやられ、、外仕事の雑用に使われるまで落ちぶれた。

 ここまでが平成15年の話である。
 この話は以後の後日談で完結する。

 「なんだい、このゴルフバッグは?」
 時は平成24年9月のある日のことである。

 玄関先に古びたゴルフバックが、デンと置かれている。
 里帰りしていた娘の話によると、婿殿が当地でゴルフバッグを買い換えたので、古いものを処分してもらいたいそうだ。

 婿殿の頼みならむげに断わるわけにもいかない。
 しかし処分するといっても、そのままゴミ置き場に出すわけにはいかない。
 金属部分をはずして細かく解体し、燃える部分と燃えない部分に分別しなければならない。

 平成24年9月は残暑が厳しく、とてもすぐさま作業に取りかかる気にはなれなかった。
 暑いだけではない。

 外の作業では蚊がわんさと集まってくる。
 ゴルフバッグはそのまま物置小屋に放り込まれ、放置された。

 季節も過ごしやすくなった10月初旬、私は懸案のゴルフバッグの解体にとりかかることにした。
 空のバッグなのにずっしりと重い。

 よく見ると、古びてはいるがなかなか上物のようで、造りもしっかりとしている。
 解体作業も一苦労しそうだ。

 私はのこぎりと板金用の金バサミ、プライヤー、ドライバーなど、道具一式を用意して事に及んだ。
 しかし作業はなかなかはかどらない。
 はさみを入れるには、分厚いビニールレザーのどこかに切り込みを入れる必要がある。

 四苦八苦していると物置の棚の上に、あのナイフがころがっているのが目に入った。
 切り込みだけでもこれで入れよう。

 私はナイフをを握り締め、ブスリとゴルフバッグの分厚いビニールレザーに突き立てた。
 ストッパーが確実に効いているので、ためらいもなく力が入れられる。
 鋭い切っ先で刺して、波刃の部分でゴシゴシと切る。

 「あらら?、これは具合がいいや」
 刃渡り6.5cmの小型ナイフだが、鋭い切っ先は簡単に分厚いビニールレザーを貫通し、続く波刃はのこぎりのようにいとも簡単にバッグを切り裂いた。

 まるで獲物の解体のようだ。
 これが普通の直刃のナイフだったら、切り進むのに抵抗が大きくこの作業は結構つらいだろう。

 バッグの内部に潜んでいた円筒形のプラスチックの筒も、ブスリと刺してゴシゴシとやる。
 のこぎりはもとより、金バサミもほとんど出番のないまま、ゴルフバッグの解体が終了した。

 購入から9年目にして、このナイフの真価がわかった。
 ひとつ用途に特化しない万能ナイフ。

 ベンチメイド社製、レパード・半波。
 やはりジープのようなナイフであった。

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53.ジープと無線機(平成15年4月)

 ジープに付ける装備品として、無線機は一番おにあいだと思う。
 見知らぬ土地に旅した時や山の奥地でスタックした時に、案内を請うたり救助の連絡を取るのにうってつけだ。
 仲間とのツーリングの場面など、その効果は最大限に発揮される。

 また、430Mz帯について言えば、各所にあるリピーター(中継装置)を使えば、私の居住地からはほぼ関東一円の安定した通信が可能だ。
 携帯電話に比べ、設備さえすれば年間1局500円の電波利用料だけで使い放題だというのもありがたい。
 アンテナはmaldol製 HYPER-350 定格入力は最大350W だてに太いだけでなく電波の飛びも良い
 しかし私の最近の使い方は、そうしたアマチュア無線本来のものとはいささか異なる。
 53購入当初、それまでレガシー4WDセダンに付けていた、ケンウッド製のTR-851を付け替えた。

 これは、430MHzのオールモード・トランシーバーである。
 オールモードのわけは、混雑したFM帯を避け、非常に空いているシングル・サイドバンドの帯域で運用するためである。

 恥ずかしながら、ここ10年ほどは人様と話すのがおっくうで、愚妻(免許証・免許状保有)以外とは通信したことが無い。

 オールモード機は図体が大きく、またサイドバンドはチューニングがやや面倒だが、わが家との専用線として使うには大変具合が良い。

 FMの場合、しばらく話さないでいると同一チャンネルにすぐに他人が出てくるが、サイドバンドの場合はほとんどそういうことは無い。
 砂漠か大海原にただ一人と言ったあんばいで、ほっとすることこの上もない15mHの自宅タワーと430MHz用 15素子2列スタック八木アンテナ

 無線の免許は遠い昔に取った。
 コール・サインはコケむしたJA1コールである。
 しかし、このような引きこもり状態なので自慢にも何にもならない。

 大変重宝したTR-851だが、寄る年波には勝てず、次第に不具合が発生するようになった。
 しばらく直しながら使っていたが、全体の信頼性も低下したので、平成13年秋に更新する事になった。

DC-DCコンバーターと二段重ねしたTM-461 更新機種は同じケンウッドのTM-461だ。
 430MHzのFM専用機で、MIL(米軍規格)の振動・落下試験をクリアした優れもの。
 まさにジープの無線機としてふさわしい。

 サイドバンドには未練があったが、価格とサイズの点で泣く泣く妥協した。
 DC-DCコンバーターも装備し、正規の13.8Vを得て電源も極めて安定している。

 してその運用状況は?
 設備投資の割には、発信する言葉はもっぱら、朝に、「会社現着」、夜に、「会社を出た」、家に着いて、「門開けろ」の一日三言のみである。

 ああ情け無や。

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54.恐るべきデジタルカメラ(平成15年5月)

 古い人間かどうかはわからないが、私は愛用する道具のメインの素材として、金属を最も好む。
 金属は重厚で硬く、熱にも溶剤にも強く、さらに傷つきにくい。
 キラリと眩しい光沢を、あるいはいぶし銀にも代表される鈍い光沢を放つ。

 私にとって、金属の対極にプラスチックがある。
 軽薄で、割れやすく、熱や溶剤に弱く変形し、すぐに傷がつく。

 一片の金属に愛着は持てても、プラスチック片には愛着を持つことはできない。
 カメラなどはその筆頭で、今まではプラスチック製のカメラなどはとても所有する気が起きなかった。

 しかし最近デジタルカメラの性能が上がり、コストと利便性の面で無視し得なくなってあれこれ研究したあげく、とうとう自分専用のデジタルカメラを買った。
 Panasonic DMC-FZ1。Panasonic DMC-FZ1 ブラック
 軽々しくチャチで、正にプラスチックの塊だ。

 しかし価格に比較したその性能たるや、恐るべきものがある。
 有効画素数は200万画素と控え目だが、ライカDCバリオ・エルマリート光学12倍ズームレンズ搭載で、全焦点距離におけるF値が何と2.8と驚異的である。
 その焦点距離は、35mmフォーマットカメラに換算すると35mm〜420mmとなる。

 さらに、最望遠を手持ち撮影可能にするため、光学手ぶれ補正機能まで搭載している。
 複雑怪奇、耐久性不安、全て機械におまかせと、まさに「ジープのような」の正反対の代物である。

 しかし私にとって、パソコンの中で遊ぶ限り、壁紙にでもしなければ画質的にもほぼ満足できる上、経済性、使い勝手、デザインについても、プラスチックという筐体素材の不満を補って余りあるものがある。

 まさかこのカメラを、マイナス60度に達する極地探検に持って行く冒険家もいないだろうし、事実、取説に明記された推奨使用温度は0度〜40度と軟弱である。

 気候温暖な日本において、私のような軟弱者が、世界の中ではまだまだ平和なこの国のスナップ写真などを、散歩がてらに撮り歩くのにはうってつけなデジタルカメラである。 

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55.ジープとタラッペ(平成15年5月)

 タラッペとは、ウコギ科のタラノ木の新芽である。
 一般的にはたらの芽と言う。

 最近は栽培物が早期よりスーパーの野菜売り場に並ぶ。
 タラノ木は山の南斜面に生える植物だが、ずいぶん前から人気者の山菜なので、ボヤボヤしていると林道沿いのその芽はほとんど人に採られてしまう。

 この辺では、5月の連休前後が収穫時期だが、気の早い者は4月のうちにまだ芽の小さい枝ごと切り取ってしまう。
 バケツにさしておき、芽が大きくなってから食べるのだ。
 まさに非情なしわざだが、タラッペ採りを行っている私には非難する権利は無い。

 正しい方法として、収穫するのは二郎(二番目の芽)までで、三郎を採ってしまうと木が枯れてしまう。
 しかし私が二郎まででやめたとしても、それを知ってか知らずか、あとから来た者はとことん芽を摘んでしまう。
 立ち枯れたタラノ木を目にするたびに自責の念にかられるが、ジープ病とタラッペ採りは縁が深くて当分やめられそうもない。
厚手の皮手袋は必需品
 私にとってタラッペ採りにはいくつかの必需品がある。ピッケルがあると大変便利
 まずは厚手の皮手袋。
 何しろ幹にとげが生えているので、素手ではとても太刀打ちできない。

 次にピッケル。
 軽登山用の物で充分だが、斜面の上り下りに使用する他、高いところにある芽を採るのには欠かせない。

 高い枝のタラッペは、ピッケルのT字状の先を幹にかけ、手前に引き寄せ湾曲させて採るのだ。
 ただし、タラノ木は折れ易いので、折れる感触をつかんでいないと、簡単に枝や幹を折ってしまう。
 私には何回も苦い思い出がある。この先が役に立つ

 さて、目的の林道に53を乗り入れる。
 ギアは高速の1速か低速の3速だ。

 他車はほとんど来ないので、全神経を林道左右の斜面に集中する。
 トロトロと人が歩くほどのスピードで走るのは、ディーゼルの53にとって得意技だ。タラッペの天ぷらはビールのつまみに最高

 そして着座位置が高いので、ガードレール越しに下の斜面も良く見渡せる。
 まさにタラッペ採り専用車両と言っても過言でない。

 53を置いて山中を歩き回ったこともあったが、ちょいと行けるような所には意外と生えていないものだ。
 林道沿いでも距離をかせぐとボツボツ採れる。

 もっとも、あまり採れすぎても、結局ご近所様に配給することになる。
 あまり欲をかかずに、ビールのつまみの天ぷら用に、2、3回分採れれば充分である。

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56.ジープと大わらじ(平成15年7月)

 最近は大変物騒な世の中である。
 一昔前には考えられないような強盗殺人事件や、ピッキングによる盗難事件が後を絶たない。

 我が家には盗られるような物もほとんどないが、土足で屋内に侵入されただけでも気分が悪い。
 私はふと「村の入り口の大わらじ」の話を思い出した。新潟の寺の山門で見かけた大わらじ
 今では観光用になっているが、その昔、村の入り口に大わらじをつるして魔よけとした風習があったそうだ。

 あるいは汚い話で恐縮だが、太い竹筒に人糞をつめて押し出し、巨大な巻きグソを作って村の入り口に置いておく。

 つまりこの村には、こんな大きなわらじを履く巨人や、巨大な糞をする怪物がいるのだぞという威嚇である。
 だいぶ前に流行った、セダンのリアウインドウにヘルメットを置く行為もその類であろう。

 私は、我が家の入り口にデンと置かれた我が53をしげしげとながめながら考えた。
 私にとって可愛いジープであるが、不心得者が泥棒の下見に来た時にこの53を見て、どう思うだろうかと思いをめぐらせた。

 玄関先に、ジープなどというケッタイな乗り物が置いてある。
 安楽と快適性を求めてやまない今どきに、その対極とも、更には自虐的とも言えるジープなどに乗っているような人間は、恐らく普通の人間ではあるまい。

 相当の奇人・変人か、もしかしたら戦闘訓練でも経験した人間、或いは凶暴性のある人間かも知れない。
 泥棒業は効率の良い仕事が本命だ。
 変な者にかかわりあって、仕事に支障が出たり怪我でもしたら一大事だ。

 まともな家はいくらでもある。
 ここはパスした方が無難だ。

 泥棒と言えども同じ人間である。
 悪いことをする時には負の心理作用が働き、疑心暗鬼にもなる。

 大わらじを目にしてこの村には巨人が住んでいると想像するように、ジープを見て自分より凶暴性のある人間が住んでいると思っても不思議ではない。

 そう考えると、ジープは楽しく乗るだけでなく、防犯上でも結構役に立っているのかも知れない。
 いや、きっとそうに違いない。
 私の想像はいつしか確信に変貌した。

 となると、上品な高級外車を家の前に置いておくとどうなるのだろうか?
 いやいやこれ以上は言うまい。

 ジープを所有していない方々に贈る言葉。
 知り合いから、古い黒帯付きの胴着やサンドバッグ、ボクシングのグローブを譲ってもらいましょう。軒につるしたサンドバッグ
 そしてそれらを軒先や玄関先につるしておきましょう。
 先人の偉大な知恵は、きっと現代でも通用することでしょう!

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57.爺くさシート(平成15年7月)

 爺くさシートとは、「爺くさいシート」という意味である。
 私の53の運転席と助手席には、夏になると植物の茎で編まれた一対のシートが置かれる。
 植物の種類は定かではないが、あらためて見るといかにも爺くさい。

 二十数年前、エアコンの付いていない濃紺のレオーネ四輪駆動バンに乗っていた頃、真夏の暑さに耐えかねて購入したものだ。
純正座席にこのシートではお世辞にもカッコいいとは言えない 六方が鉄板とガラスでおおわれたその暑さは、幌ジープの比ではない。

 ビニールシートに接したシャツもズボンも、またたく間に汗でびっしょりとなる。
 少しでも汗を吸収するようにとカーショップで購入したのが、このシートである。

 レオーネ四輪駆動バンとは間もなくオサラバしたが、爺くさシートは物置の片隅に放り込まれたまますっかり忘れ去られていた。今やこの手の製品は皆無
 ジープに乗り出して間もなく、真夏になっても十分に耐えられる暑さだが、やはりシャツやズボンに相当汗をかくことに気がついた。

 長時間運転していると、背中や尻のふたご山周辺にあせもができる。
 その時ふと思い出したのが、この爺くさシートである。

 記憶を頼りに物置の中をかき回す。
 ありました、ありました。
 四半世紀の歳月を経ているにもかかわらず、爺くさシートはホコリまみれになりながらも十分に原型を留めていた。

 汚れを洗い落とし、干し上がった爺くさシートは実に具合がよい。
 少々汗をかいてもベタつかず、さっぱりとしている。
 おかげさまで私は、カユカユのあせもから開放された。

 以来、爺くさシートは私にとって夏の必需品となった。
 しかし真夏の一時期とはいえ、その後何年も愛用しているとさしもの爺くさシートもいたみが目立ってくる。

 繊維があちこちで切れ、ボロボロと細かい破片が散らばるようになった。
 私は同じような製品が販売されていないか、機会あるごとにカーショップの店内を探してみたが全く見かけない。

 数珠球の親分のような、木製の玉が連結された製品がかろうじて一種類あったが、ゴツゴツしていてジープとの組み合わせではいかにも背中が痛そうだ。
 また、イグサ製の座布団はホームセンターで見かけるが、カーシートとしての製品はどこにも無い。

 しかし、根気強くネットで検索した結果、私はとうとう現代版の爺くさシートを発見した。 年寄りには好まれそうな体裁であるそれは、背もたれと座る部分に竹の小片が連結された、いかにも涼やかな代物である。

 吸湿性は期待できないが、ビニール座席との間に空間が確保されて、通気性は良さそうだ。
 値段も手頃だったので、私はさっそく注文した。

 待つこと3日、居ながらにして新しい爺くさシートを手に入れた私は、さっそく53の運転席と助手席に置いてみた。

 外観は前のものより更に爺くさい。
 お世辞にもハイカラともナウイとも言えない代物だが、実に品良く律儀にできている。
 座ってみると具合も良さそうだ。

 余談だか、最近の乗用車でビニール製の座席が付いているものにはほとんどお目にかかれない。自然を生かした知恵は馬鹿にできません バンでさえ、少々グレードが上がると布製座席が普通である。

 布製座席は肌触りがよく吸湿性はあるが、何年かすると汚れが目立ったり、汗やホコリを吸いこんでイヤな臭いを発散するようになる。

 天井や床に張られた布製の内装材と、更にはエアコン内部の汚れがそれに拍車をかける。
 車に弱い者は、その臭いだけで車酔いを起こしかねない。

 しかし、ビニール製座席と総鉄板の我が53は、汚れれば丸洗いも可能である。
 それに加え、天然素材の爺くさシートと自然換気の快適性は、何物にも代えがたいものである。

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58.東北ジープ旅(平成15年9月)

 久しぶりに旅に出ることにした。
 夏と言えば、冷夏と言えどもどうしても北に足(下駄山)が向く。

 取っておきのジープ旅ということで、最初から子供達は同行させるつもりはない。
 愚妻のみが旅の伴侶となる。


8月26日(火) 曇りのち晴れのち雨
 午前5時10分。
 グワラン、ガラ、ガラと早朝の住宅街に4DR6型ディーゼルエンジンの咆哮がとどろきわたる。(ご近所の皆さんゴメンなさい)

 本日の目的地は、秋田県の田沢湖高原温泉郷である。
 カーナビ大明神によると577Km、8時間48分の行程だ。

 家族に見送られて出発する。
 いつものように佐野インターから東北自動車道へ。
 東北自動車道は時々利用するし、5年前には青森まで行っているので特に目新しさはない。

 同乗の愚妻は10分もすると「眠り姫」と化す。
 愚妻は普通の車だと酔い止薬を飲んだり大変な騒ぎだが、ジープだとその心配が全くない。
 大変不思議なことである。

 天候は時折太陽が顔を出したり曇ったり、あるいはザーッと雨が降り出したりと面白いように変化する。
 そのたびに窓のフィルムを閉めたり開けたり忙しい。

 窓を閉めきると、北上しているとは言え、エンジンからの熱が伝わり室内は蒸し暑くなる。
 ビキニトップのジーパーにしてみれば、雨が窓から吹き込むなどささいなことであろうが、神経細やかな私は車内が濡れると気分が悪い。

 そうこうしているうちに、窓のジッパーの後ろの部分のみを開けておくと雨があまり吹き込まずに、風が適度に入ることに気がついた。
 恥ずかしながら8年目の新発見である。

 我が53は東北自動車道を巡航速度85Kmで粛々と進む。
 車の群れが次々と追い越して行く。

 途中2回程自衛隊の部隊とすれ違った。
 大型トラックや新型73式トラックと共に数台の旧型73式トラックも通過した。
 何気なく見ている車列の中に、ジープを見かけるとハッとするのはジープ病特有の症状だろうか。
よく整備された湖畔
 盛岡インターで東北自動車道を降り、立ち寄り先である田沢湖へ向かう。
 田沢湖は水深423.4mと、日本一の深さを誇る湖だ。
 断続的に訪れる夕立のような豪雨の中、我々は田沢湖畔に到着する。

 あまり観光地化されていないその湖は紺碧の水を湛え、周囲を杉林の低山に囲まれていた。
 整然としたその杉林の中からは、煙のような雲が天に立ち上っている。
杉木立の中からわき立つ雲
 湖の周囲には、景色の変化を楽しみながら一周できる道路が備わっている。

 その道を半周ほどすると小さなマリーナに到着したが、湖面にポッンと係留されたボートからは先日までの夏の賑わいは想像できない。夏の面影はない
 やがて小雨が降りしきる中、田沢湖を後にした我々は最初の宿泊地である田沢湖高原温泉郷に到着した。

 本日の走行距離659Km。


8月27日(水)晴れ
 天気予報は快晴を告げていた。
 本日は距離は稼がずに観光に徹する予定である。
 まずは昨日雨にたたられた田沢湖畔を再び一周した後に、本日の主な目的地である角館(かくのだて)の武家屋敷に向う。
真っ青な空には真綿をちぎったような雲が
 真っ青な空には真綿をちぎったような雲がフワフワと浮かび、昨日は灰色の空のもとで静まり返っていた湖面には、晩夏の太陽光線がふりそそいでいた。
 しかしマリーナに係留されたボートからは、やはり夏の気配は感じられない。季節はもはや秋であろうか。季節はもはや秋
 田沢湖の陰陽両面を堪能した我々は一路角館へ。
 観光客でごった返す角館の武家屋敷は、町の一部が時代劇のセットかと見ちがえるような雰囲気をかもし出している。
 大半の武家屋敷は入館が有料であるが、我々はもっぱら無料の屋敷を見て歩いた。
武家屋敷の板塀。格子部分はのぞき窓。
 すでに近代建築に立て替えた一般住宅も、黒い板塀に白壁造りに統一されている。

 武家屋敷一帯からはるか離れた所にある役場や郵便局までも、黒い格子のデザインなどを取り入れている。
 これだけの屋敷を保存するのは資金が必要
 私はこれだけの数の武家屋敷が保存されていることに感心すると共に、今後もこれだけの建築物を保存するためには入館料も必要であると思った。

 真夏の陽射しの中、江戸時代にタイムスリップしたような気分に浸った我々は、本日の宿泊地である男鹿温泉に向かって出発した。

 本日の走行距離160Km。


8月28日(木) 晴れのち曇りのち雨
 午前5時前。
 紅色に染まった部屋の障子に気づき外を見る。
 地球最後の日を思わせるような、或いは紅蓮の業火のような朝焼けで、海や空一面の雲が燃え上がっている。
紅蓮の炎に燃える雲
 快晴ではこうはならないだろう。
 また雲が厚すぎてもこの景色は出現しない。
 私はまさに目が覚めるような風景を出現させてくれた天に感謝し、カメラのシャッターを押し続けた。核戦争直後のような風景
 定刻午前8時30分に我々は出発した。
 男鹿半島は朴訥な風景を展開していた。

 時折強く降る雨と、鉛色の海がそれに拍車をかけていた。
 絶壁下のわずかな平地に張り付くように点在する漁師町も、日本海のうら寂しさを漂わせている。
 ここではどんな人々が、どんな生活をしているのだろうか。

 私は想像もできないそれらの人々の生活を考えながら、そのひなびた風景を楽しみながらゆっくりと53を走らせた。
 次々と展開する絶壁沿いの高低差の激しい風景の中で、4DR6型ディーゼルエンジンの力強い鼓動だけが辺りにこだましていた。

 天候も思わしくないので、我々は早めに本日の宿泊地である由良温泉に到着する。
 道をはさんでホテルの玄関と反対側の駐車場に53を止めた我々は、全財産の詰まった巨大なバッグを荷台から降ろした。
 盗難予防のために全てをバックに入れて持ち歩いているのである。

 玄関先でたまたま客を出迎えていたホテルの女将が、我々の様子を見ていて飛んで来た。
 サービス精神旺盛な女将は、私が辞退するにもかかわらずその巨大なバックを運ぶと言うのである。

 よくよく見ると三十半ばのその女将は和服の似合う美人で、体も華奢なつくりである。
 商売とは言えいかにも気の毒だ。

 女将は躊躇している私の手からひったくるようにバックを受け取ると、腕にぶら下げてウンウンと運んでくれた。 
 大変ありがたかったが、後からついていった私は汗顔の極みであった。
 この時ほど、必要な物だけを入れた小ぶりなブランド物のバックであれば良かったと思ったことはない。

 由良温泉の売り物は日本海に沈む夕日である。天使の出現を思わせるような光が 我々もそれを楽しみにしていたが、時折窓ガラスを叩くほどの豪雨ではそれも絶望的である。

 黒いシルエットは白山島そんなことを考えながら、テレビを見ていた目をふと窓の外に向けたその時である。

 先程までの分厚い雲に切れ目ができて、神々しいばかりの光の束が海面に注いでいるではないか。

 私はあわててカメラを取り出し、夢中でシャッターを切った。
 この光のショーは30分程で終了し、後はただどんよりとした灰色の空間だけが残った。

 本日の走行距離206Km。


8月29日(金) 雨のち曇りのち晴れ
 ジープ旅最後の日となった。
 本日は無事自宅に帰ることに専念しよう。

 フロントで支払いを済ませて玄関にさしかかると、宿泊客を見送るくだんの女将がいた。
 我々が礼を述べると、雨も降っているので車を玄関先に回せと言う。

 私はホテルの玄関前に無骨なジープを横付けするのがためらわれたので体よく遠慮すると、それでは車まで荷物を運ぶと言うのである。

 私は再び大変恐縮し、何かお礼の一つでも言わなければならない気持ちになった。
 そこで、ウンウンと巨大バックを運んでいる女将に向かって、「いやー、大変お世話になりました。従業員の皆さんの教育も行き届いていて、大変気持ちのよい思いをしました」と、愚妻と昨日から話していたホテルへの感想を告げた。

 女将は、「たいしたことはありません。素人の集まりですよ」と謙遜していたが、巨大バックを運ぶ腕にもますます力が入ったようだ。
 その上雨の中、玄関先の路上に立ったまま我々が立ち去るまで見送ってくれた。

 手を振り満面笑顔の彼女であったが、今後はジープ乗りの荷物だけは決して持つまいと心に誓っていたにちがいない。
 我々の出発には、カーナビの設定やらホテル前での記念撮影やら多少の儀式が必要であったが、一切を省略して私は逃げるようにホテルを後にした。

 計画では新潟からは関越高速に乗る予定であったが、時間も早いので国道17号をのんびりと走った。
 天候は相変わらずぐずついていたが、心は軽やかだった。
 4日間53を思い切り間走らせたので、ストレス解消になったようだ。

 やがて時計を見ると程よい時間になったので、私は53を湯沢インターから関越高速に乗せた。
 非日常から日常の世界に戻るプロセスとして、10Km余りの関越トンネルの走行はふさわしい。
 ブォーンという下駄山の唸りと、次々と背後に飛び去るオレンジ色の照明光がタイムトンネルを連想させる。

 国境の長いトンネルを抜けると…。
 関越トンネルを抜けると、そこは群馬県。
 数分前の天候が信じられないような灼熱の太陽の下、喧騒にまみれたいつもの生活が待っていた。

 本日の走行距離337Km。
 3泊4日、1,362Kmのジープ旅が終わった。 

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59.ジープのようなデジタルカメラ(平成15年12月)

 「ジープのような」とは、革新的で性能がよく、シンプルで機能美にあふれた極めて丈夫な物を言う。
 私の趣味の一つであるカメラに関して言えば、35mmカメラの原型とも言えるA型ライカを出発点とする距離計連動式ライカ、同じく距離計連動式コンタックス、そして世界にその名を知らしめた機械式一眼レフのニコンF、F2がそれに相当する。

 最近のデジタルカメラに対する感想は第54話のとおりであるが、デジタルカメラの世界にもジープのような製品が早く出ないものかと待望していた。
ジープのようなデジタルカメラ オリンパスE-1
 それがついに出た。
 その名はオリンパスE-1。

 プロ用デジタル一眼レフでは後発であるオリンパス株式会社が、起死回生、社運をかけてプロユースに開発した、入魂の製品(まるでジープのよう)である。

@革新性…フォーサーズシステムの採用…「画質」と「機動性」を両立するために撮像素子に4/3型撮像素子を採用した、レンズ交換式デジタル一眼レフカメラの新規格。
 レンズやボディのマウントをオープン規格とすることで、メーカー間のレンズとカメラの互換性も可能にする次世代の規格。

A性能…デジタルカメラ専用設計のレンズにより、従来のフィルムカメラ用として設計されたレンズでは実現が難しい、画像周辺までの高解像を実現。また、大幅なディストーションの低減と忠実な色再現も実現。

 スーパーソニックウェーブフィルター(超音波防塵フィルター)の採用。
 スーパーソニックウェーブフィルターは、オリンパス独自の技術で開発した、世界初のダストリダクションシステム。

 撮像素子前面を超音波で振動するフィルターで密閉することにより、レンズ交換時にボディ内部に入り込むゴミやホコリだけでなく、内部で発生するゴミの問題を大幅に低減。

 付着したゴミやホコリを、超音波で振動することで瞬時に払い落とし、画質の劣化を防止した高品質で美しい画像を得ることができる。
 レンズ交換式一眼レフの課題であったゴミ・ホコリの心配からカメラマンを解放。

B堅牢性…ボディには、軽量で堅牢なマグネシウム合金を採用し、プロ仕様のスペックを搭載しながら、660gの軽量化を実現。
 シャッターユニットには、プロユーザーの過酷な使用を考慮し、15万回の作動をクリアした耐久性の高い金属幕縦走りフォーカルプレーンシャッターを搭載。

 各部のスイッチ、各端子のカバー、電池カバーなどのボディの細部、またレンズに至るまで、各所にシーリングを施すことにより、高い防滴性と防塵性を実現し、プロカメラマンの過酷な条件下での撮影をしっかりとサポート。(以上@〜BはオリンパスE-1のカタログより引用)

 私はこのキャッチフレーズにいたくしびれた。
 殺し文句は、やはりマグネシウム合金ボディと高い防滴・防塵性、15万回保障の高耐久性シャッターである。
 また、撮像素子に付着する厄介なゴミ問題を根本的に解決している姿勢もすばらしい。

 ましてや、レンズやボディをオープン規格として、メーカー間のレンズとカメラの互換性を可能にするとは、悪く言えばオートフォーカス一眼レフの開発を断念していたオリンパスだからとも言えるが、実現すれば革命的なことである。

 勿論、デジタルカメラとして部分的に更に高画質・高性能な物も存在する。
 マグネシウム合金ボディや高い防滴・防塵構造も初めてではない。

 しかし「ジープのような」物にはトータルバランスが重要である。
 価格と全体の性能が、総合的に優れてバランスされていなければならない。

 シンプルということについて、デジタルカメラに昔の銀塩カメラのような構造的なシンプルさを求めるのは、所詮無理な話である。
 機能美についても個人の主観もあるので、まずまず良しとしよう。

 デジタル一眼レフはまだまだ価格が高い。
 購入するには一大決心がいる。
 しかしランニングコストを計算すると、大変経済的であることが判明した。

 オリンパスE-1の場合、36枚取りフィルムを200本(同時プリントを含む)撮ると元が取れる計算になる。
 年に1本しか撮らない人には200年かかることになるが、私の場合は2〜3年でそれに達するだろう。

 私は4ヶ月ほど熟慮した結果愚妻に申し出た。
 「デジカメを買うことにした。とりあえず購入資金を無利子で融資してもらいたい。長期分割で必ず返済するから」  
 

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60.臀部に皮膚癌発生(平成16年4月)

 臀部とは、平たく言えば尻である。
 その尻に皮膚癌が発生した。

 私の尻ではない。
 我が53の尻である。

 しばらく前から気になっていた。
 後部ナンバープレート付近の塗装面が、デコボコと盛り上がって来た。
 もしかしたら錆が浮き出てきたのかもしれない。

 ドライバーの先などで突っついてみれば即座に判明することであるが、結果が恐ろしくて実行する勇気が無いまま今日に至った。
 先日12回目の車検に出した時に、恐る恐る主治医に聞いてみた。
 私、「後ろのナンバープレート付近の塗装がデコボコしてきたのだけど、錆でも浮き出てきたのかね?」

 主治医、「どれ、どれ…。あっ!これは来てますねぇ。見た目は塗装が盛り上がっている程度ですが、実は内部は腐っているのですよ。この部分は裏側から別の鉄板が張り合わせてあるので、どうしても錆びやすいのです。人間で言えば癌ですね。放っておくとどんどん腐ります」

 気のせいか、深刻な事態を告げるはずの主治医の声には、何か楽しいことを発見した時のような張りと響きがあった。
 私、「ゲゲッ! まだ当分乗るつもりなのだけど、どうしたらいいのかね?」

 主治医、「方法が二つあります。錆びた部分を削って、パテを盛って修復する方法と、悪い部分を切り取って、新しい鉄板を溶接する方法です。前者はいずれ錆びてくるでしょう」

 主治医も癌とはうまいことを言う。
 放っておけば穴が開くことになるし、その穴は際限も無く広がっていくだろう。

 確かにこれは癌だ。
 また、その修理方法も人間の癌の手術に似ているようだ。

 人間の場合、癌の部分を含めて周囲の組織を大きく切り取って摘出するように、ジープの場合は錆びた部分の周囲をそっくり切り取って、新しい鉄板に置き換えればその部分は再生する。

 昔から、ジープのボディは後ろのナンバープレート付近が錆びやすいとは聞いていたが、要するに裏から別の鉄板で補強されている部分に水分が留まって錆びやすいということだ。

 主治医の話だと、更にフロントフェンダーの一部も錆びやすいと言う。
 フロントフェンダーの場合はそっくり交換することも出来るが、いずれにせよ、穴が開く前にその部分を切り取って張り替えれば良いわけである。

 衣服で言えば、昔から継ぎはぎという手法があった。
 車の場合は、恐らく見た目には全くわからないように塗装されてくると思われるので、修理代はかかるが問題は根本的に解決されるわけである。

 修理代の概算見積もり額を聞きながら、次第に私の心は固まった。 
 「死ぬまで乗るつもりなので、徹底的に修理してくれるかね」
 私は強い決意を持って主治医に依頼した。

 気は持ちようだ。
 フロントデフの時もそうであったが、これで又、53の一部が新品になるわけである。

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61.ブリキのおもちゃとジープとミニ(平成16年6月)

 その昔、子供のおもちゃと言えばセルロイドや木かブリキ製であった。
 特に男の子にとっては、ブリキのおもちゃはなじみが深い。

 ブリキとは、「薄い鉄板に錆びないようにすずめっきをしたもの」と辞書にある。
 おもちゃの鉄板にすずめっきがしてあったか否か定かではないが、自動車、オートバイ、飛行機、ロボット、ジョウロ、風呂に入れる金魚までほとんど何でもブリキでできていた。

 プレスで作るためか、細かいディテールはかなりいい加減なものであったと記憶している。
 従ってリアルさにおいては、後に出現しあっという間におもちゃの世界を席巻した、プラモデルには遠く及ばない。

 そのブリキのおもちゃに、だいぶ前から価値が出て高値で取引されていると言う。
 子供の頃の物をとっておけば良かったと思うが、まさか何十年後にそんなに価値が出ようとは、親も子供も夢想だにしなかった。

 金属製の玩具の価値が見直された結果なのか、希少価値なのか判断に迷うが、一部であれその価値を認める人種が存在することは確かだ。

 一方、私の会社の同僚に、ローバーのミニに乗っている者がいる。
 同年輩なのだが、当時一部の若者にとってミニ・クーパーやビートルが憧れであった。

 その夢を温め続けてきた彼はついにミニを手に入れたが、6年前に新車で買ったミニがこのまま通勤で距離を伸ばすと早くいたんでしまうので、つい最近通勤用に中古の同じローバー製の小型車を買った。
 私がミニとの相違をたずねると、「運転して楽なのは最近の方だ。しかし、運転して楽しいのはミニの方だ」という答えが返ってきた。

 私はブリキのおもちゃやミニのことを我がジープの上に重ね合わせてみた。
 少々不細工な全金属製で、はるかなる過去の遺物ではあるが、いまだにファンがいるという点でジープとブリキのおもちゃの共通点がある。
 運転は楽ではないが、運転していて楽しさがあると言うところはミニに似ている。

 「コストの為に材質にはこだわらず、見てくれがスマートで便利で楽に扱える物」、が圧倒的な人気を博している現代ではあるが、私にとってジープとは、「不便ではあるが、その材質と形に意味があり、使うことにより日々楽しみが得られる物」であると改めて感じた。

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62.擬似ジープ病患者(平成16年7月)

 「はい、暑い中ご苦労様でした」
 さる真夏日の夕方、社屋のガラス清掃の終了報告を受けた私は、若い現場監督にねぎらいの言葉をかけた。

 「ところで…」
 現場監督はおずおずと話を続けた。
 「なんでしょう?」

 私はさらにどんな話があるのだろうかと、けげんに思いながら聞き返した。
 「○○さんはジープに乗っていらっしゃいますね? 私もジープに憧れていまして、女房をなんとか説得しようと思っているんですよ」

 そうか。
 彼は前回の作業のときに、会社の駐車場で私がジープから降り立つのを見ていたのだ。

 「そうですか。ジープはいいですよ。何しろ本物の道具ですからね。4駆はいろいろありますが、ジープは全く別物です。一点の妥協もない本物の道具です」
 ジープの話が始まると、それまでの発注者と業者という垣根がはずれて話がはずむ。

 彼の質問は、購入価格、エンジンの排気量、燃費、最終製造年、型式の種類、耐久性、乗り心地など多岐にわたったが、全くの初心者の彼にとって、私のつたない話でも十分に知識欲を満足させたようだった。

 最後に私は、「多少高くても程度の良いものを選んでくださいね。ジープは愛情をもって接すれば30年は乗れますから」と付け加えた。
 現場監督は、「それでは帰るときに○○さんのジープをゆっくり見させていただきますね」と言って立ち去った。

 彼が奥さんを説得して、見事ジープのオーナーになることができるかどうか、私にはわからない。
 半年に一度私の勤務している会社に作業に来るので、いずれその結果はわかるかもしれない。

 私はその時が楽しみでもあり、また不安でもあった。
 従って、のど元にまで出た jeep-fan.com のURLはとうとう告げずに別れた。

 それを告げるのは、もう少し彼の病状が悪化してからでも遅くはないと考えたからである。

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63.さようなら 雨の日のゴトゴト音 その@(平成16年10月)

 実に不思議なことがある。
 雨の日に必ず発生するゴトゴト音だ。
 発生場所はエンジン付近。

 道路の継ぎ目や、アスファルトが補修してあるような部分を走ると、かなり重い部品がおどっているようにゴトゴトと始まる。
 不思議なことに、晴天では発生しない。
 雨が降り、下回りが濡れると必ず発生する。

 路面状況に関係があることから、左右フロントの足回りが疑われるが、音そのものは中央部分より聞こえる。
 気のせいか、その振動がクラッチやブレーキを踏む足に伝わってくるようでもある。

 ハンマーを持って車体の下にもぐりこんで見た。
 鉄道の機関手がよくやっているあれである。
 ハンマーでカンカンとたたくと、部品に亀裂が入っていたりゆるんでいると音に変化が出るそうだ。

 ジープは最低地上高が高いとは言え、クリーパーに横たわり車体の下にもぐ込むと眼前の余裕はあまりない。
 目の前にシャフトや鉄骨がせまり、目の焦点も合わないありさまだ。

 気休めにあちこちをカンカンとたたいてみたが、みな同じように聞こえる。
 とてもこの程度では原因はわかりそうもない。

 今度はボンネットを開けて、上からのぞきこんでみる。
 各部をハンマーでたたいたり、L型レンチの柄でこじってみたがガタや遊びは発見できなかった。

 そこでお決まりの推理となる。
 現象は、雨が降ってある部分が濡れることにより、部品の固定がゆるみガタが発生するということである。

 言い方を変えると、乾燥した状態ではかろうじて摩擦によりガタの発生が抑えられているということだ。
 濡れることにより摩擦係数が減少し、それによって発生するガタとは一体なんだろう?

 足回りが一番怪しいが、その音の質はキシミ音ではなくて、質量がかなりある鉄の塊のような部品が動いている音だ。
 イメージ的には、バッテリーくらいの大きさと重さの物がガタついている感じだ。

 しかも中央の、上でも下でもない中間部分から聞こえる。
 するとエンジン回りか?
 あるいは足回りで発生した音が、シャフト伝いに中央で聞こえるのか。

 この現象については、かれこれ一年ほど前から発生している。
 そしてその音を聞くたびに、首をひねる日々が続いている。
 私にとって、原因の究明と問題の解決が当面の楽しい課題でもある。

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64.さようなら 雨の日のゴトゴト音 そのA(平成16年10月)

 掲示板の読者の叱咤激励の声を受け、私はそろそろ雨の日のゴトゴト音と決別すべき日が来たことを感じた。
 今度出たら主治医のところにかけこもう。

 その日は意外と早くやって来た。
 いつものように仕事を終わって会社を出ると、雨はすでに上がっていたが、駐車場の地面はしっとりと濡れている。
 しかし、路面はところどころ乾いており、走行中に下回りが水しぶきをかぶる状態ではない。

 なのに出た。
 しかも、道路に出て10mも走らないうちにゴトゴトと始まったのである。

 実に不思議な現象だ。
 どうも濡れるからではなく、湿度が関係しているようだ。

 私は走りながらこのまま主治医のところへかけこむ決心をした。
 しかし、主治医の工場に連絡をしておいたほうが賢明だ。

 エンジンが回っている53より携帯電話を用いて会話をするのは、かなりの通信技術がいる。
 私の携帯は昔の機種なので音量が低いのだ。

 了解度5は相手の話の7割程度。
 後の3割は話の前後の脈絡で補うしかない。

 そしてこちらは怒鳴るようにしゃべらないと、エンジンの騒音に負けてしまいそうだ。
 事情を知らない相手だったら、この人は何で怒鳴っているのだろうと思うに違いない。

 「もしもしKさんですか?ジープ病のヒデです。例の音が出ているのでこれからそちらに向かうけど、Kさんいます?」
 「いますよ。持ってきてください。願わくは、こちらに着くまでにその音が消えないことですね。ガハハハ!」K氏の快活な返答がうれしかった。

 私が工場に到着すると、K氏はさっそく助手席に乗り込んできた。
 まず私が運転をして、路面の悪そうな裏道を走る。
 「ゴトゴトと盛大に出てくれよ!」と内心思いながら走り回ったが、不思議と一人で乗っているときほど音が出ない。

 たまにゴトッというので「今聞こえた?」とK氏に言うと、「えっ? ちょっとわからなかったなぁ」という答えが返ってくる。
 何回かそんなやりとりがあった後に、今度はK氏に運転を代わったが、結果的に確信を得られなかったようだ。

 「どうも持ち主にしかわからない微妙なものがあるなぁ」とつぶやいていたK氏は、「俺より耳のいいやつを連れてくるね」と言ってK氏の仲間のT氏に調査を依頼した。

 T氏はコースを変え、スピードの出る幹線道路を走った。そして結果的にある程度音の出る場所を特定できたようだ。
 工場に戻るとT氏はK氏に、「どうも足元の中央部分から出ているようだよ」と報告した。

 K氏は「ディーゼルのエンジン・マウントはなんだったっけなぁ」と言いながらボンネットを開けた。
 そして私に懐中電灯の光を当てながら、「エンジン・マウントのゴムは、自分のようにレースをやっていると消耗品なんですよ。普通に乗っていても12年と言うともうそろそろかな」と言った。

 そして今度は、下のほうからミッション・マウントを照らしながら、「ミッションの方が危ないかなぁ。エンジン・マウントの交換は結構な作業になるので、とりあえずミッション・マウントを交換して様子を見ましょうか?もし違っていても、かなり痛んでいるので無駄になることはありませんよ」と言った。

 恥ずかしながら、私はミッションにマウントがあることを知らなかった。
 車体の下にもぐった時にも気がつかなかった。

 私は、エンジン・マウントの交換はエンジンを半分下ろすような作業になると聞き、何とかミッション・マウントの交換でおさまってくれればと内心思った。

 「そうだね。そうしよう。お願いしますよ」私は即座に答えた。
 「わかりました。ではすぐに部品を手配しますから、来週の火曜日の夜また来てください。代車を用意しておきます」とK氏は言った。

 帰る道すがら、不思議なことに先程まであれほど出なかったゴトゴト音が盛大に出始めた。
 何かの意志が私をからかっているようだ。

 ミッションマウントの不良という情報がインプットされたせいか、やはりミッションのあたりから聞こえるような気がする。
 私は心の中で、「今に見ていろゴトゴト音め。きっと退治してやるからな!」とつぶやきながら家路を急いだ。

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65.さようなら 雨の日のゴトゴト音 そのB(平成16年10月)

 火曜日の夜、約束どおり私はK氏の工場へ53を預けた。
 1〜2日あれば終了するという。

 翌日の午後、K氏から電話がかかって来た。ミッション・マウント
 「ヒデさん、ミッション・マウントの方は終わったけど、ナックル・カバーが片方破れていますよ。どうします?」
 「それは困ったなぁ。部品を取るのに2日くらいかかるでしょう?」

 「部品なら手元にありますよ。消耗品なので自分用に在庫しているから」
 「それは良かった。お願いしますよ」

 「ついでと言ってはなんですが、もう片方はどうします?」
 私は反対側のまだ破れていないナックル・カバーも交換することにした。
 片方が破れたということは、早晩残りのほうも破れるに違いない。

 先日はシフトレバー・ブーツが破れているのに気がつき、部品を取り寄せて自分で交換したばかりだ。
 ゴム製品は室内の部品といえども、経年変化で必ず劣化するらしい。

 ましてや、風雨や泥にさらされるナックル・カバーは、過酷な環境で酷使されている。
 破れ目から泥が入って、金属部分がガリガリになったら一大事だ。
ナックル・カバー
 「それで、いつ頃取りに行ったらいい?」
 「そうですね、今日はちょっと無理かな。明日の夜までに仕上げておきますよ」

 翌日の夜、私はK氏の工場へ53を引き取りに行った。
 あいにくK氏は東京へ出張とのことで不在だった。

 K氏の工場からの帰り道、数日ぶりに乗る53は若干の違和感があった。
 ジープってこんな感じだったっけ。

 違和感は数キロ走ることによって払拭されたが、ブレーキの感触は以前と確かに違う。
 かなり深く踏み込んで、初めてジワリと効くフィーリンク゜だ。

 以前は中間くらいの位置で、硬くゴクッと効く感じであった。
 慣れないと、床までペタンと踏み込みそうな不安があったが、慣れるとディスクブレーキのようなフィーリングである。

 もしかしたら、K氏好みの調整を施してくれたのかも知れない。
 私は後日その点を確認しようと思う。

 さて、肝心のゴトゴト音であるが、もちろん乾燥しているので帰路において発生することはなかった。
 問題は雨の日である。
 雨の日に音が出なければ、原因はミッション・マウントであり、交換することによって私はゴトゴト音を見事追放したことになる。

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66.さようなら 雨の日のゴトゴト音 そのC(平成16年11月)

 一般的にあまり好まれない雨だが、待つとなるとなかなか降らないものだ。
 数日の好天が続いた後、やっと待望の雨が降った。
 私は期待と不安の交錯する中、いそいそと53に乗り込んだ。

 昨夜来の雨で道路にはあちこちに水溜りができている。
 雨脚はあまり強くないが、湿度は十分である。
 恐る恐る自宅の門を出て幹線道路に入る。

 出ない!あのゴトゴト音が出ない。
 いや待てよ、結論を出すのはもう少し路面の悪いところを走ってからだ。

 私はアスファルトのつぎはぎの上を選んで走った。
 13キロ程の片道通勤距離を走り終えるころになっても、ゴトゴト音はついに出なかった。

 やったー。そうか、原因はミッションマウントか。
 私は異音もなくなり、フロントの足回りもオバーホールしたことによる、こじっかりとしたシャーシの感触を楽しんだ。

 しかし不思議なものである。
 いくらマウントがへたったとは言え、湿度によって異音が出るとは。

 ジープのような軍用車両にそのような繊細な一面があるとは信じられない。
 気圧が下がると痛む、人間様の神経痛のようだ。

 でもまあ原因も分かったし、直ればそれでよいことだ。
 私は久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで会社に入った。

 雨は帰り道も降っていた。
 しかしもう憂鬱になることもない。

 そうそう、ブレーキの具合も良い。
 やはり主治医が調整してくれたのだ。

 「フロントはブレーキから何からすっかりやりましたよ。自分の場合はヒール・アンド・トゥがしやすいように、ブレーキの位置はもっと下なんですが、そんなものでどうですか?」主治医の言葉が思い出される。

 ブレーキの具合も良くなったし、ミッション・マウント、ナックルカバーも新しくなった。またこれで53の寿命が少し延びた。
 私はルンルン気分で家路を急いだ。

 と、その時である。
 路面に段差のついた部分をガタンとおりた時、「ゴトッ!」という音がしたような気がした。
 私の胸中に不吉な黒雲がわき上がった。

 「まっ!まさか!」
 私はラジオを消し全身を耳にして次の段差を待った。
  …。 ゴトッ、ゴトゴト。

 「でぇっ! でたぁ〜!」
 路面のつぎはぎ部分を通過したとき、今までなりをひそめていたゴトゴト音が派手に出はじめた。

 間違いない!あのゴトゴト音だ。
 くそっ! まだ生きていたのか!

 私は目の前が真っ暗になり、暗澹たる気持ちになった。
 何としぶといゴトゴト音だ。

 家に帰りいろいろ考えた。
 残るはエンジンマウントだが、雨の日に限られるこの現象はまったく別の部分かもしれない。

 しかし、きっと退治してやるぞ!
 私は固く心に誓いながら晩酌の焼酎をあおった。

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67.さようなら 雨の日のゴトゴト音 そのD(平成17年2月)

 雨の日のゴトゴト音。
 実に不思議な現象だ。

 しかし、その原因部位は徐々に絞られてきた。
 ある快晴の日曜日、久しぶりに洗車をした私は水をかけたラジエター回りや足回りを乾燥させるために、郊外に向けて乗り出した。

 すると程なく、ゴトゴト音が出始めた。
 いつもは雨の日にしか出ないゴトゴト音が、湿度の低い快晴の冬の日に出たのである。

 しばらく天気が続いたもので、鳴りを潜めていたゴトゴト音がしびれを切らして出てきたわけではあるまいが、私にはピンと来るものがあった。
 そうか、足回りだ!

 洗車で水がかかったのは、ボディの下では足回りしかない。
 足回りに原因があるに違いない。

 そうこうしているうちに、タカモトさんと言う方より掲示板に「シャックルのゴムブッシュを交換したら、突起物をのりあげる際にいつも出ていたゴトゴト音がなくなった。」という書き込みがあり、私の推測は確信に変わった。

 私はさっそく主治医にメールを入れた。
 「さて、ここのところ晴天が続いているので、例のゴトゴト音とは無縁の生活を送っておりますが、昨日私の掲示板にヒントとなるような書き込みがありました。その方の場合は、ゴトゴト音(突起物を乗り越えるとき常時出ていた)の原因は、シャックルのゴムブッシュのへたりだったそうです。私の場合も水がからんでいますが、各種マウントを始め、ブッシュなどのゴム部品が怪しいことには変わりありません。ゴムブッシュも経年変化でだいぶいたむようなので、この際ダメもとでフロント、リアサスのブッシュを全部交換してみようと思うのですが、費用を見積もっていただけるでしょうか? ブッシュは純正部品で結構です」

 主治医からさっそく返事が来た。
 「リーフのブッシュですが、1個2、3百円程度で24個使用しています。かなりやってみる価値はありそうですね。そのあたりの部品は常に在庫しておりますのでいつでもオッケイです。あとリーフにまつわり、音が出る部分がもうひとつあります。リーフ板の重ね合わせてある間にもブッシュを使っていて、これがへたるとハンドル操作時にゴトゴト音がします。今回のヒデさんのケースとは違いますが。日程が決まりましたら連絡をください。代車を用意しておきます」

 ゴムブッシュを24個も使用しているとは知らなかった。
 また、リーフの間のブッシュについても知らなかったが、この際だから徹底的にやってもらおう。

 私は53の使用予定を見はからいながら、いよいよ入院の決心をして主治医にメールを送った。
 「それでは、いよいよゴドゴト音の退治に取りかかります。ブッシュの交換をお願いします。リーフの間の物もついでにお願いします。代車の準備ができ次第ご連絡下さい。こちらはいつでも結構です。よろしくお願いします」

 数日後の夜、私は会社の帰りに53とともに主治医の工場に立ち寄った。
 工場の一般車検の車が並んだ片隅には、エンジンが下ろされた主治医のジープが置いてあった。

 前回ここをのぞいた時は、主治医は自分のジープのハンドルシャフトを交換している最中だった。
 数日前に優勝したレースで、衝撃のあまりにハンドルシャフトが曲がってしまったそうだ。

 主治医のジープは、一年を通じ工場の片隅で治療中のことが多い。
 主治医のけたはずれたジープ病にはいつも感心するやら、この情熱がはたしていつまで続く物やら興味しんしんである。

 主治医の話では、リーフをばらすのに結構手間がかかるので、治療費と入院期間を多少見てくれとのことである。
 「万一ゴトゴト音が治らなくても、ブッシュの交換は十分に価値がありますよ」と言う主治医の言葉に同意して、私はまだ当分53に乗るつもりなので、全てをおまかせする事にした。

 打倒! 雨の日のゴトゴト音! 今度こそは退治してやるぞ!

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68.さようなら 雨の日のゴトゴト音 そのE(平成17年2月)

 「部品が入ることになったので、作業にとりかかります。ただしやはり民間用は無いので、防衛庁用となります。サイズが合えばいいのですが」
 我が愛車を入院させた数日後、主治医より電話が入った。
 部品とは、板バネの間に緩衝材として入っているゴムパッキンのことだ。クレーンで吊られた我が53
 民間用の部品がなぜ無いのかは想像の域を出ないが、今時純正の板バネをばらして、その間の数個のゴムパッキンを交換する作業など皆無に等しいのだろう。
 と言うか、そんな作業が発生すること自体予想されていないのだろう。

 板バネを損傷すればアッセンブリーの交換になるだろうし、大体少々が音が出るかも知れないと言って、板バネを分解して間のゴムパッキンを交換してくれる者など、我が主治医くらいなのかもしれない。

 私は、電話で伝えられたそのゴムの部品について、はたしてどんなものであるのか急に見たくなったので、会社の帰りに主治医の工場に立ち寄ることにした。

 すっかり日も落ちて、あたりも真っ暗になった工場の中央には、天井よりクレーンで吊られている哀れなわが53の姿があった。
 それは、整形外科病棟に入院中の重症骨折患者のようであった。

 分解された板バネそしてその足元には、試しに分解された板バネが置いてある。
 板バネを分解するには、束ねている4箇所の金属部品をバーナーであぶって、やわらげてから広げなければならない。
 面倒な作業であることには間違いない。

 問題の部品は直径数センチのゴムの円盤状の物である。
 まるで黒いピップエレキバンのようだ。

 新品のときはもっと膨らんでいたのだろうか?
 金属板の間にはさまれるという過酷な状況で、13年ももまれていたことになる。黒い円盤状のものが問題のゴムパッキン まだ形があること自体が不思議な気もする。

 板バネの所定の位置にはくぼみができていて、ゴムパッキンがずれないようになっているが、一部はとんでもない位置にずれていたそうだ。

 そのせいか否かは不明だが、板バネのある部分には金属同士がこすれあったような痕もあった。
 はたしてゴドゴト音の原因は、この板バネの間のゴムパッキンの磨耗や位置の異常だったのだろうか。
 あるいは、その他のリーフ回りのゴムブッシュなのだろうか。

 同時交換なので、いずれが原因なのかは分からないが、部品を全て組み付けて問題の雨の日に走ったときに、はたして憎っくきゴトゴト音が退治できたか否かの結論が出る。
 ここまでくれば、その日はそう遠いことではない。

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69.さようなら 雨の日のゴトゴト音 そのF(平成17年3月)

 カタッ、カタ、カタ、カタ!
 「ダメだ!こりゃあ!」

 主治医の工場を出た私の幸せは、30秒しか続かなかった。
 何と雨でもないのに、最初の路面の継ぎはぎで例の憎っくきゴトゴト音は、私をあざ笑うかのように発生した。リーフ間に入っているゴムパッキン しかもその音質が、ゴトゴトよりカタカタと軽やかになっている。

 思えば今回の入院は長引いた。
 板バネをバラし、バネ間のゴムパッキンを交換した。

 バネが錆びていたので、ワイヤーブラシで錆を落とし再塗装もしてもらった。
 本命のゴムブッシュも全て交換し、ついでにへたっていたタイロッドブッシュ、錆びていたブレーキホースも交換した。
 首を長くして待っていた約10日間であった。

 週末が雪になりそうな天気予報を見て、待ちきれない私は主治医に電話を入れた。
 その結果、金曜の夜には何とか仕上がるとの回答を得た。合板製の除雪具

 雪が積もったら、先日製作した除雪具の性能も確かめなければならない。
 それは合板製のお手軽な物であるが、ジープが役立つ道具であることを証明するにはうってつけの物だ。

 金曜日の夜7時過ぎ、私は会社の帰りに53を引き取るために主治医の工場に立ち寄った。
 わが53は整備を終え、試走や各部の増し締めの後、丁寧に洗車されて置いてあった。

 「お世話になりましたねぇ」
 私は商売とは言え、面倒な作業を引き受けてくれた主治医に礼を言った。

 「ヒデさんの性格から、リーフの間から錆がしみて出てくると気分が悪いでしょうから、ワイヤーで磨いて塗装しておきましたよ。足回りのブッシュ類は全部交換しました。これで様子を見てください。」
 私はしばしの雑談の後に、はやる気持ちを抑えて53に乗り込んだのだった…。
足回りのゴムブッシュ
 雨も降っていないのに、残念ながらまた音が出たのは、サービスでしてくれた洗車の水が回ったからだろう。

 先日も晴天の日に洗車した後、ゴトゴト音が発生したこともあった。
 その場合、しばらく走っていると乾燥と共に音が次第に小さくなり、やがて止まってしまう。

 早速音が出たとは言え、あれほど一生懸命に整備をしてくれた主治医に、すぐに報告するには気がひけた。

 ましてや、閻魔顔を想像すると愚妻にはもっと言いにくい。
 この件はしばらく私の心の中にとどめておこう。
 
 次の晴天の日曜日、私は足回りから始めて、順番に各部に水をかけては試乗して音の発生源特定を試みた。
 最後はエンジン・ルーム全体を水浸しにしてみたが、とうとうゴトゴト音は出なかった。

 修理後初めて雨が降った日、ゴトゴト音は屋根付き駐車場から出発してしばらくの間はなりを潜めていたが、数キロ走行した頃からカタカタと軽快に出始めた。

 またある日は昼頃から雨が降り、会社の駐車場にあった車体は午後7時過ぎに帰る頃にはすっかり濡れていた。
 しかし雨は上がり、路面もほぼ乾燥していたので興味を持って走り出したが、50mも走らないうちにカタカタときた。

 下回りはたぶん濡れていないはずなのに…。
 更に、修理以降は音の質に微妙な変化があり、ゴトゴトではなくカタカタとなったようだ。

 そうそう、フリーハブを装着しているので、停止した状態のフロント・ドライブシャフトの連結部分に水がかかると、摩擦係数が低下して、上下の振動でカタカタと遊びの音が出るのかと思ったこともある。
 すかさずハブをロックしてシャフトを回転させてみたが、音には何の変化も無かった。

 あれやこれや考えて、できることは全てし尽くした感がある。
 エンジンマウントのブッシュはまだいじっていないが、到底あの重いエンジンを支えているブッシュが、雨水ごときでフヤケルはずも無い。

 憎っくき雨の日のゴトゴト音は、更に耳障りなカタカタ音になりますます意気軒高である。
 敵ながらあっぱれなヤツだ!

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70.さようなら 雨の日のゴトゴト音 そのG(平成17年7月)

 あれから約4ヶ月が経過した。
 その間桜が咲いて散り、新緑の季節もいつしか真夏日の連続する盛夏となった。

 憎っくき雨の日のゴトゴト音は、しぶとく出続けている。
 ある日は雨にもかかわらず音がしないことがあった。
 あれっ?いよいよ引っ込んだかな?と期待したのもつかの間、通勤の帰りの道になると派手にカタカタと始まった。

 あれは忘れもしない7月10日(日)深夜のことである。
 私の掲示板にRocky山崎さんよりこんな書き込みがあった。
 全文を引用する。

 「管理人さん、はじめまして。千葉県船橋でJ55に乗っています。闘病記の続きを楽しみにしていますが、ゴトゴト音直りましたか?実は私のJ55も同じ症状なのですが、一度ボンネットの蝶番のところをチェックしてみてください。この蝶番に水とかオイルを垂らすと再現しませんか。私の場合はこれでした」

 翌11日、私はさっそくCRC 5-56をボンネットの蝶番に吹き付けて出勤した。ボンネットの蝶番に雨水が浸透するとゴトゴト音が発生 最近は通勤経路の道路もあちこち舗装し直されて、ジープと言えども快適な乗り心地である。
 こういう良路では、さしものゴトゴト音もなりを潜めている。

 やっと、道路の片側に数十メートルごとにマンホールが設置されている、ゴトゴト音テストコースに到着した。

 こういうパルス状の振動が、ゴトゴト音の好物である。
 私は路肩近くを走行し、ゲタ山でマンホールのふたを踏み続けた。

 カタッ、カタ、カタ、カタ。
 晴天にもかかわらず、罠にはまった憎っくきゴトゴト音は盛大に出始めた。

 「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」 ではないが、2年近くにわたって私を悩ませ続けてきたゴトゴト音の正体が、白日のもとにさらされた瞬間であった。

 そして、私の目からポロリとウロコが落ちた瞬間でもある。
 エンジンルームの中央部分より音が聞こえてくるので、ボンネットの下にばかり注意が向いていたが、ボンネットの蝶番とはまさに死角であった。

 雨水の浸透により摩擦係数が低下した蝶番が左右に動き、それがボンネットの微妙な動きとなり、ボディのどこかに当った音が回りまわってゴトゴトあるいはカタカタと、エンジンかミッション辺りから聞こえて来るのだ。
 原因がわかると説明は簡単にできるが、これを発見しご連絡いただいたRocky山崎さんには心より感謝申し上げたい。

 たぶん、この手の悩みは当事者にしか理解できないものであり、そして当事者にしてみれば、愛車を解体してでも突き止めたい悩みでもある。

 原因がわかれば放っておいてもどうということもない問題であるが、私は長年の宿敵を完全に追放する材料を入手するために、市内のホームセンターに向かった。

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71.さようなら 雨の日のゴトゴト音 そのH (平成17年7月)

 2年近くにわたって私を悩ませた、世にも不思議な雨の日のゴトゴト音。
 原因がわかれば笑ってしまうようなものだが、この類の悩みはそれぞれの人生にも結構あるのかも知れない。

 他人にしてみれば想像すらできない他愛もない悩み、しかし当事者は悶々として海に飛び込もうとさえ思いつめている。
 やはりそんな時は、思い切って誰かに相談してみることだ。
樹脂製のパッキン。裏に粘着テープがついている。
 ホームセンターに到着した私は、各種部材売り場に直行した。
 イメージ的には、断面が四角形のある程度の太さのゴムヒモ状の材料を求めていたが、隙間をふさぐのは面でなくて点であっても良いことに気がついた。

 いろいろ物色しているうちに、半透明の樹脂でできた、半球状のパッキンに目が行った。 
 こすれたり、隙間が開いてガタが出そうな所には、これを貼りつけよう。

 53のボンネットを持ち上げて構造を詳細に観察した結果、Rocky山崎さんのご指摘のとおり、ボンネットの左右の付け根に付いている、ゴムのパッキンの調整が本命であることがわかった。パッキンの受けの部分。一部だけ当る所が光っていた。
 観察を続けると、助手席側のパッキンの一部の面が当って、受けの部品がピカピカに光っている。
 パッキン全体が当れば、音の発生は抑えられると思われるが、先のとがったハンマーで叩くと甲高い音が出るように、ゴムとは言え一部のみが当ると結構耳障りな音が発生するのかもしれない。

 さらに、パッキンは12番のボルトで2箇所固定されており、助手席側はかなり締まっていたが、運転席側に関してはユルユルであった。
 つまり、助手席側のパッキンの一部で、ボンネットの付け根の部分を支えていたことになる。

 支点としては極めて不安定なので、雨水の浸透で蝶番がわずかに左右に動いただけで、ボンネット全体の動きとなり、更にその支点自体がゴトゴト音を発生する原因になっていたと思われる。

 ガタを調整するゴムパッキン。あまり突き出すとボンネットが浮き上がる。私はボンネットが変形して隙間があまり開かない程度に、パッキンの頭を突き出し、しっかりと固定した。
 ボンネットが多少持ち上がり、左右のストッパーが若干かけにくくなったが、憎っくきゴトゴト音の息の根を止めた手ごたえを感じた。

 かくして私は、献身的な主治医の協力と、掲示板来訪者の叱咤激励と情報提供、そして私自身のささやかな努力により、雨の日のゴトゴト音と決別したのである。
 
 さようなら、雨の日のゴトゴト音!

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72.ドアのファスナー壊れる(平成17年8月)

 壊れた。
 運転席側のドアのファスナーが壊れた。
 前回新調したのが平成12年7月だから、ちょうど5年持ったことになる。

 前回もそうだが、ファスナーの機能が一番必要な真夏にとつぜん故障が発生する。
 運転席側は毎日とは言わないが、結構頻繁に開け閉めする。

 最近は金属製のファスナーはめったにお目にかかったことは無いが、ジープの幌のファスナーは金属製であって欲しい。
 さりとて、金属製なら樹脂製より耐久性があるのかと問われれば、専門知識が無いので返答に困るが、金属製のほうが丈夫なような気がする。

 会社のプリンターなどを開けてみると、ギアに樹脂製のものが多用されているが、酷使される機器のギアはすり減って白い粉をふいている。
 そこまで酷使される物はあまりないのかもしれない。
 ろくろく使われずに、廃棄処分されるものが多いから、樹脂製でもクレームが来ないのだろう。

 ファスナーは消耗品である。
 交換すれば、ドアそのものはまだまだ使える。

 しかし、修理代がばかにならない。
 ドアのファスナーの修理をしたことはないが、幌本体のファスナーの修理代は13,000円だった。
 ドアのファスナーも恐らく同等の費用がかかると思われる。

 新しいドアの価格が税込み35,490円であるから、5年使ったドアのファスナーの修理代は3分の1強である。
 それならいっそ、ドアを新しくしたほうが…、という心理になる。
 自分でなおせばファスナー代ですむが、時間と技術力の問題もある。

 ドアなど使用していないジーパーも大勢いる中で、たかがファスナーが壊れただけで大騒ぎするのは大変心苦しい。
 とりあえず、夕立の豪雨のときに雨水が浸入しないように、太目の糸で縫いつけておいた。

 しかし、暑い。
 左右の窓のフィルムを下ろしておくと、真夏と言えどもさわやかな風が運転台をふきぬけるが、片方が開かないとそうはいかない。
 まして運転席側なので、直射日光があたると温室のようになる。

 ネクタイをしめたワイシャツの首のあたりに汗がしみ出し、ジワリとなまあたたかくなる。
 額に汗が噴出しタラリと頬をつたう。

 そういえば、わが家ではずいぶん前から「スポーツ刈り禁止令」が出ており、昔に比べ総量が減少したとは言え、7:3のヘアースタイルも頭部の温室効果にひと役買っている。
 毎日通勤で使っているものなので、ドアだけはずして修理に出すわけにもいかない。

 前回のものを取っておけばよかった。
 4年ほど取っておいたのだが、だいぶ古くもなり、どうにも邪魔になって昨年の暮れの大掃除の際に捨ててしまったのだ。
同じ色とは言えしばらくはツートンカラー
 そういえばどなたか、幌の天井部分を残して軍用車風に使っているというお話を聞いた。
 ジープ乗りは物を大切にし、トコトン使いきるのが伝統だとしたら、まだまだ修行が足りないことを実感した。

 今回はその轍を踏まないために、5年後のためにはずしたドアはきれいに洗って保存し、修理も時間をかけて自分ですることにしよう。
 私はやっと大枚を払う決心ができたので、さっそく地元の三菱自動車部品販売会社に電話を入れた。

 「もし、もし、ジープJ53に乗っていますが、運転席側のドアを1枚ください」

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73.ジープジャンボリー その@(平成17年10月)

 「第6回ジープジャンボリー」なる、ジープ愛好家のためのイベントが、9月17日(土)・18日(日)に、山梨県は富士山の麓にあるスタックランドファーム・オフロードコースで開催された。
 主催は「4×4CLUB INFINITY」さんだ。

 私は以前よりこのイベントの存在は知っていたが、メカにも強くないし、本格的なオフロード走行も行わないただのジープ好きだ。
 また、年齢的にも若い皆さんとは話が合わないだろうと思っていたので、はなから参加する気はなかった。

 しかしS氏より再三のお誘いを受け、やっと重い腰が上がった。
 皮肉なことに、誘っていただいたS氏は直前に仕事が入ってしまい、あまり気が進まなかった私の方が参加することになったのである。

 話の様子では、当サイト掲示板の常連の皆さんが何名か参加するという。
 掲示板で文章は交わしているが、お会いしたことが無い方と会うということは、いつの場合も楽しみでもあり、また一抹の不安もつきまとう。

 文体は人柄を現すとは限らないが、文体の特異な方は、その性格も特異なのではないかなどという想像もふくらんでしまう。
 B氏の特異の文体がそのまま性格に反映されているとしたら…。
 想像は私の脳裏をかけま回った。
  
 皆さんのお話の中からつかんだイメージや、画像を頂いた方のナンバープレートだけが手がかりであるが、私は一応会場での合言葉を提案した。

 その合言葉とは、このサイトのタイトルでもあるが、「Jeep」と言われたら「Forever」と答えるものである。
 はたしてどんなことになるのやら、キャンプ道具や食料を満載したわが53は、9月17日(土)午前9時に自宅を後にした。

 快晴に恵まれた会場までの約160Km余りは、手頃なドライブコースである。
 最近ご機嫌ななめ気味のカーナビ大明神をだましだまし、奥多摩の山岳ドライブを楽しんだ。

 カーナビ大明神は、ジープの振動に辟易してよくストライキを起こした。
 画面が固まるなどというのは序の口で、突然裏蓋が開いているだの、CDがはずれただのと言うご神託を、毒々しい赤い文字で画面いっぱいに表示する。

 そのたびに、本体をはずしてうらブタを閉めなおしてみたり、CDを入れなおしてみたり、ご機嫌をとるのが容易ではない。
 そんなこんなをくり返していると、いつしか富士山のふもとの、のどかな田園地帯に到着した。快晴に恵まれた会場広場
 公道から会場への細い道を入ると、とっつきに受付のテントがあった。
 係りの方が2〜3人いらっしゃったが、ノーマルに限りなく近いわが53はむしろ珍品に映ったようで、皆さんはわざわざテントから出てきてしげしげと観察してくださった。

 午後2時過ぎの到着とあって、会場のあちこちにはすでにテントが張られ、その付近に各自の愛車が鎮座していた。

 皆さんは昼食の後片づけや、テントサイトの整理に忙しそうだ。
 私は会場隅の草地にスペースを見つけ、とりあえず山岳用テントを設営した。

 テントを設営するなんて何年ぶりだろうか。
 もしかしたら、10年ぶりくらいかもしれない。
 私がアウトドアの生活から遠ざかって、それほどの年月が過ぎ去っていたということだ。

 さてさて、ベースキャンプができたので、次なる行動はお仲間の探索である。
 まぶたの母ならぬ、まぶたのジープの記憶をたよりに、広場を歩き回ることにした。
 多少の余裕ができたせいか、広場の様子が目に飛び込んでくる。
不動の存在感
 多くの皆さんはコースで遊んでいらっしゃるようで、広場に置かれている車両の数はそれほど多くなかったが、自衛隊の73式トラック風の車両、MB、バリバリにチューンされた幾多の車両が目につき、オーナーの思い入れが想像された。戦闘機ともいえるような迫力
 ショップの車両などは、部品の見本市のような装備である。
 ジープの可能性は本当に幅が広い。

 広場を半周ほどしたところで、何やら見覚えのある車両の一群が停車していた。

 何と言っても帯広ナンバーは一番目につく。
 もしかしたらこの車両群が、常連の皆さんの愛車なのかもしれない。

 私はちょっとワクワクしながら、様子をうかがった。
 しかし、車両の後ろに設営されているテントサイトには人影がない。

ジープショップさんの車両 よくよく見ると、黒々とした立派なひげに顔半分がおおわれた、中肉中背の男性が一人で作業をしているようだ。

 私は車両の前に戻って、もう一度ナンバーを確かめた。
 その中の一台に栃木ナンバーを確認した。

 栃木ナンバーでひげと言えば…、くまひげさんが連想される。
 私は思い切ってひげ面の男性に声をかけてみた。
掲示板常連さんの愛車群
 「こんにちはー、Jeep!」
 「????」
 「Jeep!」
 「…。 …。 …。」

 どうも反応が悪い。
 もしかしたら、掲示板を読んでいないのかもしれない。
 それとも、私のイメージが彼の頭の中であまりにもかけ離れていたので、ピンと来ないのかもしれない。

 私はコンタクトのモードを通常会話レベルに変えた。
 「もしもし、くまひげさんですか?」

 「えっ?どちらさまですか?」
 「ヒデですよ。ジープ病のヒデですよ!」

 「あっ、ヒデさんですか!」
 かくして、未知との遭遇の第一幕は何とか無事に上がったのである。 

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74.ジープジャンボリー そのA(平成17年11月)

 話し声と共に、近くのコンビニへ買出しに行っていた一行が帰ってきたようだ。
 その一行とは、まなしろさん、高野@J53さん、カッチーさんだ。

 さっそくくまひげさんに紹介していただいたが、誰一人としてイメージどおりの方はいらっしゃらなかった。
 イメージとは自分が勝手に作り上げたもので、現実との差が大きい場合が多い。
 イメージを温めた期間が長ければ長いほど、そのギャップは大きくなるのではないだろうか。

 ある小説で読んだことがある。
 舞台は一昔前の外国の話だが、文通によるお付き合いをしていた若い男女がいた。
 ある時、二人はお互いの住居地のほぼ真ん中の駅で逢う約束をした。

 女性は長い時間をかけて列車に乗って指定の駅に到着したが、約束の時になっても男性が現れない。
 さんざん待った末に、やっとイメージどおりの男性が現れたので、二人は意気投合してハッピーエンドを迎えた。
  
 ただし、この話には落ちがある。
 文通していた当の男性は急用ができて、約束の場所に行くことができなかったのである。
 では、駅に来た男性とは?

 そう、女性がいだいていた男性のイメージにぴったりの赤の他人だった。
 こんなストーリーだったと思うが、昔読んだ小説なので曖昧な記憶しかない。
 お話の世界のことだが、イメージが人間に強い作用をもたらし、支配さえすることは想像できる。

 私はジープの話や世間話をしながら、イメージと現実とのギャップを埋める作業を続けた。
 小説とは逆の作用で、お話をしているとイメージが次第に現実に重なってくるから不思議だ。

 よくウマが合うとか合わないとか言うが、あれは心の波長が合うか合わないかと言うことだと思う。「アル中ハイマーの世界」の舞台となったくまひげさんのテントサイト
 それは直感でわかる場合もあるし、ある程度の時間が経たないとわからない場合もある。
 しかし、皆さんとはどうやらウマが合いそうだ。
 それを確信したのは、後のアル中ハイマーの世界(宴会)を共通体験してからのことであるが…。
 
 さて、個人情報漏洩にならない範囲で皆さんをご紹介すると、まなしろさんははるばる北海道は帯広より、会社の長期休暇制度を利用しての参加とのこと。

 一方高野@J53さんは福島県からの参加で、お二人は途中で合流して、長野県の純&智パパさんのところで前夜祭を打ち上げてきた剛の者だ。
 
 カッチーさんの住居地は神奈川県の厚木である。
 そして、栃木県のくまひげさんと私を合わせて、5人の関係者が初めて富士山の麓で顔を合わせた事になった。

 また、この段階ではまだ噂の域を出ないが、当サイトの有名人BUNさんが空路で長崎よりいらっしゃるという話である。
 ジープジャンボリーへ空路で?

 はたしてこの前代未聞の事態が起こるのか、我々はその時を待った。

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75.ジープジャンボリー そのB(平成17年11月)

 BUNさんの到着を待ちながら、我々はお互いの車を見物したり、あるいは新たな知り合いを紹介していただいたりと、同好者の集いを堪能した。大穴にトライするmiki号(9/18)
 くまひげさんに我々が紹介していただいたのが、サイト「みきさんち」の主mikiさんである。

mikiさんは、街中でお会いすればとてもジープでクロカンをするようには見えない、どちらかというとやや華奢で気品ただよう美人だ。

 ところが、ジープの運転台に座りハンドルをにぎるや否や、顔つきがきりりと引きしまり、ワイドタイヤのmiki号をいとも軽々とあやつり、急坂、大穴、岩場などものともせずに走破してしまうらしい。

 いやはや、人は見かけによらないものである。
 そして、満身創痍の愛車miki号には、百戦錬磨の武将のような風格がある。
 軟弱者の私は驚くやら感心するやらで、mikiさんのお話にしばし聞き入った。

 宴会場「くまひげ亭」にて@(イメージ画像) 初秋の日差しが傾いた午後6時過ぎ、私はくまひげさんのテントサイトの脇にテーブルを設営した。
 私がこのサイトの管理人として皆さんにふるまうために持参したのは、愛飲している25度の芋焼酎とアサヒスーパードライ、中華なべによるヤキソバ(第34話で紹介)である。

 ヤキソバはベーシックな男の野外料理として大変手軽である。宴会場「くまひげ亭」にてA(イメージ画像)
 その製作過程は企業秘密に属するのでお教えできないが、結果的にみなさんにおいしく食べていだけたようなので、第34話の責任をまっとうできたと思っている。

 くまひげ亭の炭火焼肉をいただきながら、ビールの杯を重ね、芋焼酎のコップが傾き、純&智パパさんに頂いた日本酒の一升瓶が宙を舞いだした頃、まなしろさんが、「間もなくBUNさんが到着しますよ!」と叫んだ。
 BUNさんより携帯に連絡が入ったようだ。

 「えっ!本当に来たんだ!」
 我々は、長崎より空路ではるばる会場入りするという、BUNさんを出迎えるために立ち上がった。
宴会場「くまひげ亭」にてB(イメージ画像)
 キャンプサイトのランタンがそこかしこにまたたく会場広場の入口に、やがて一条の光がさし込んだ。
 どうやら車のヘッドライトのようだ。
宴会場「くまひげ亭」にてC(イメージ画像) その光こそBUNさんの到来を告げるものだった。

 かたずを呑む我々の前に現れたのは、一台のトヨタ自動車製のファンカーゴだ。

 ファンカーゴは並み居るジープのシルエットの中を、場違いをものともせずに乗り込んできた。

 後のお話の中で、BUNさんは東京で行われた知人の結婚式に出席した後、都内よりレンタカーのファンカーゴを借りてJJ会場に駆けつけたということである。

 こうして予定されていた当サイトの六人衆がめでたく集合した。
 BUNさんの登場により、ご持参のバーボンウイスキーが加わり、宴はいよいよたけなわを迎えることになる。

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76.ジープジャンボリー そのC(平成18年1月)

 宴たけなわになるにつれ、酔いのために私の記憶もあやしくなる。
 従って、多少事実と異なる記述があったとしてもご容赦願いたい。


 「純&智パパさんに電話がつながりましたよ!」再びまなしろさんが叫んだ。
 怒号渦巻く中、まなしろさんの携帯電話が手渡しされ、私の耳元にあてがわれた。

 「いやー、純&智パパさんですか。大変な騒ぎで申しわけありません。お耳にかかるのは初めましてです。どうもお酒の差し入れありがとうございました!」、 私は差し入れていただいた一升酒のお礼を言った。

 アルコールにより記憶が薄らぐ中、純&智パパさんとの会話がその後どのようなものであったか、正確にここに再現できる自信がない。 従ってその雰囲気にとどめるが、純&智パパさんも機会があったらJJ等に参加して、是非皆さんにお会いしたいという主旨だったと思う。

 家に戻って発見したことだが、純&智パパさんはそのときの模様を「実況中継」と称して、私の掲示板に書き込んでくれた。
 印象に残るのは、純&智パパさんは大変理性的で、繊細な声の持ち主であったことだ。
 長野のシュワル・ツネッガーと言われる、純&智パパさんの風貌からは、若干意外であった。
ジープ万歳!
 夜も更けるに従って、会場広場のランタンの明かりが一つ消え、また一つ消えていく。
 しかし、くまひげ亭のキャンプサイトの盛り上がりは、とどまるところを知らない。

 そのランタンの明かりに誘われるように、いろいろな客人が訪れた。
 ジープセンターのタコさん。

 続いて黒岩社長。
 ジープセンタースタッフの皆さん。

 お向かいに陣取った、東京都在住の限定車J55氏。
 ジープセンタースタッフのカメラマン氏とは、写真談義にも花が咲いた。

 いやはや皆さんお疲れさまでした。
 まだまだ書くべきことはたくさんあり、また宴たけなわではありますが、JJの巻きはこの辺でお開きにさせていただきます。

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77.なめた話(平成19年1月)

 平成11年6月の第15話で紹介したが、私は堅くしまったハブナットを十字レンチで満身の力を込めて回した結果、手のひらの神経を傷め、尺骨神経麻痺をおこしてしまったことがある。
 以来、何とか力を入れずにナットをまわす方法はないか考えてきた。

 ある時は愚妻に十字レンチを押さえてもらい、片側を足で踏みつけたり、飛び乗ったりもした。
 しかし力のかかり具合が不安定で、へたをするとレンチがはずれたり、転倒しかねない危険を感じた。

 また、硬く締まったナットが回転する際に、ガキッとボルトが折れるようなかん高い音がするのも心臓によくない。
 レンチの柄を延長すれば、より少ない力で作業ができることになり、これは小学校の理科の時間に教わったことである。

 そこで、十字レンチに草かきの柄を縛りつけて、レンチの延長効果をねらった。
 かなり古いその草かきの柄は、体重をかけるとナットが回ると同時にボキリと折れてしまったが、私は手ごたえを感じた。

 コンパクトさと耐久性を考えると、付属工具のL型レンチに鉄パイプの組み合わせが一番よさそうなことはすぐに想像できる。
 付属工具のL型レンチの柄にピッタリの鉄パイプとは、水道パイプをおいて他になさそうだ。
 私は知り合いの工事屋さんに、水道パイプの半端品を頼んでおいた。

 長さ1メートルほどの水道パイプは、間もなく手に入った。L字レンチに水道パイプを接続 私はさっそくL字レンチの柄を差し込んで試してみた。
 実に具合がよい。

 十字レンチでは回らないほどにしまったナットも、パイプの先を持って回すとグニュリと回る。
 力を入れすぎないように、ゆっくりと回せばナットを痛めないだろう。

 軟弱者の私にとって、タイヤ交換の際の固いナットはずしは悩みのタネだった。
 しかしパイプ1本のおかげで、私の悩みは完全に解消されたのであった。

 今年も先日、私はいつものようにスタッドレスに交換した。
 今回は水道パイプより短く、座席下の小物入れに入る長さの鉄パイプを手に入れたので、これを試すことにした。
 出先でのタイヤ交換の際にもパイプが必要となるが、1メートルの水道パイプでは長すぎる。

 とはいえ、水道パイプを切ることは躊躇されたので、適当な短いパイプを探していたのである。
 壊れた電気スタンドの支柱パイプがそれである。

 まずは十字レンチを使い、これで回らないナットにL字レンチとパイプの組み合わせで試してみる。
 少し力を入れて静かに回すと、グニュリとナットは回った。
 なかなかの優れものだ。

 付属のダルマジャッキの鉄パイプとほぼ同じ長さで、ジャッキの鉄パイプが中にスッポリと入ってしまう。
 収納性も抜群だ。

 心の中でほくそえんでいた私だが、今回はどうもナットの回転が渋いようだ。
 いつもなら、一度ゆるんだナットは指先でクルクルと回るほどだが、どうも様子がおかしい。
 最後まで十字レンチで相当の力を入れて回さないとナットがはずれない。

 しかも、助手席側の前・後輪の全てのナットがそんな状態である。
 何本か多少渋いものがあることは以前より承知していた。

 そう言えば主治医が、「ハブナットが渋いようだが、心当たりがあるか」というようなことを言ってたっけ。
 私は特にないと答えておいたが、主治医は次回の車検ではハブボルトとナットは交換したほうがよいだろうと言った。

 今回スタッドレスにはきかえた際に、私はハブボルトとナットのミゾにCRC-556を吹きかけ、汚れをウエスできれいにふき取ってみた。
 しかし、そのくらいではナットの渋さには微塵の変化も見られない。

 気になった私は、掲示板に「ハブボルト・ナットの不仲」というタイトルで相談してみた。

 「先日スタッドレスタイヤに交換した時に気づいたのですが、助手席側の前・後輪の全ハブボルト・ナット(10箇所)の回転がきわめて渋いのです。十字レンチで最後まで相当の力を入れて回さないとはずれません。一年前には何本か渋い所がある程度の認識でしたが、今回は助手席側の前・後輪の全ての箇所なので驚きました。(運転席側は正常です)特に無理な作業をした覚えはありません。ハブボルトのネジ山が変形した結果だと推測しますが、どなたか同様の経験のある方はいらっしゃいませんでしょうか?このまま使い続けると、ナットが回らなくなる恐れがあるような気がします。4月の車検時にハブボルト・ナットを交換しようと思っています。」

 親切なアドバイスが多数寄せられた中で、決定的だったのは「純&智パパ 」さんの一文であった。

 「きつく締まったモノを力パイプや長いモノで弛めるのは超危険です!!ナットをなめたり、ボルトがねじ切れる原因になります。これは渋いっ!と思った時はレンチに力パイプを掛けたり長モノを掛けたりせずにハンマーでカチンッと叩いてみましょう♪それで緩むはずです。じわ〜っと力を掛けるとネジ山が緩む前にナットの山をなめてしまったりボルトがちょん切れたりする事故が多いです。(原理上当たり前なんですが)」

 なんと私は、一番してはいけないことをボルトとナットのためと思い込んで平然としていたのであった。
 無知ほど怖いものは無い。
 その結果ナットの山をなめてしまったようだ。

 今もってピンとこないが、かたく密着したボルトとナットの接着面を、瞬間に引き離すように力を加えないと、密着したボルトとナットの山を徐々にこじるようにして変形させてしまうのであろうか。
 あるいは、その接着力でボルトさえもねじ切ってしまうのであろうか。

 そうか、ダルマ落しの原理だ。
 ダルマをたたく速度が遅いと、全体が崩れてしまう。

 ある部分だけを抜くには、たたくハンマーにそれ相応の速度が必要である。
 それはボルトとナットにしてみれば、瞬間に回転させる力である。
 私はやっと納得した気分になった。

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78.ジープのようなリール(平成19年5月)

 「ジープのような」とは、革新的で性能がよく、シンプルで機能美にあふれた極めて丈夫な物を言う。
 私の身近なところで、ジープのような物がまた一つ見つかった。

 スピニングリール・ミッチェル408。
 数あるミッチェル・シリーズ中、最小のリールである。

 釣りに興味のない方にはいささか退屈な話であるが、このフランス製のリールの誕生は1948年にさかのぼる。
 以来2001年にシリーズの製造が終了するまで、約53年間にわたって作り続けられた。
 ミッチェル408は1960年代に登場したようだが、私はこれを1980年頃入手した。

 ミッチェル408にアメリカ製ガルシアの5.5フィートのグラスロッド(渓流用)、一回り大きいミッチェル410と同じくガルシアの6.5フィートのグラスロッド(湖用)の2セットが、第一次ルアーブームの私の釣り具だった。
 価格はリール、竿がそれぞれ12,000円くらいだったと記憶する。ジープのようなスピニングリール・ミッチェル408

 当時国産のスピニングリールには、ルアーフィッシング用として使用に耐えられるものが無く、スエーデン製のアブ・カーディナルがミッチェルと双璧をなしていた。

 金子陽春著「ルアーフイッシング 入門から研究へ」、常見忠著「ルアー野郎の秘密釣法」などが当時の私の愛読書だった。 

 餌釣り→ルアーフィッシング→テンカラ釣り(和式毛ばり釣り)→フライフイッシング→餌釣りと一巡した私の渓流釣りは、平成3年(16年前)の職場の人事異動で中断せざるを得なくなった。

 渓流魚(主にヤマメ・イワナ)は非常に敏感な魚で、人の気配を察すると岩や石陰にかくれてしまう。 場合にもよるが、渓流に人が入った後は半日くらい釣りにならない。
 現場より管理部門(総務部)に移った私の休日は、それまでの主に平日から日曜・祝日(後に土曜も)となった。

 異動後たまには渓流釣りに出かけてみたが、林道には車が点在し渓流は歩行者天国のようであった。
 これではとても釣りにならない。

 何度かこんな経験を重ねると、釣行自体がストレスとなる。
 最初から日曜・祝日が休みの釣り人は、それが当たり前であるが、平日の釣りを知っている私にとっては、耐えがたいものであった。

 人のいないところへ行けば良いことはわかっていた。
 しかし軟弱者の私には、道なきルートを登る山越えや、数日がかりの源流釣りなど到底無理だ。
 「ええい、やめてしまえ!」私はいつしか渓流釣りの道具を納戸の奥にしまいこんだ。

 前置きが長くなったが、私は最近再びルアーフィッシングの道具を納戸より出してきた。
 ある環境の変化(定年退職)から、再び平日の釣りが可能になったのだ。
 少なくとも、ここ20年は使われていないルアーフィッシングの道具たちは、当時のままのコンディションを保っていた。

 今やロッド、リール、ルアー共に国産品の台頭が著しい。
 かって双璧をなしたミッチェル、アブのスピニングリールであるが、少なくとも新製品において見る影も無い。
 隔世の感とはこのことだ。

 それに比べ国産のスピニングリールは一万円きざみで、シリーズの最高峰は小型リールでも7万円以上の価格がつけられている。
 こんな高価な製品や品数が本当に必要なのだろうか?
 驚きと疑問が交錯する。

 いわく、「一切のボルトを排除した、フラッシュサーフェイスデザインのボルトレス超軽量マグネシウムボディ」、「軽量冷間鍛造アルミニウムのAR-Cスプール」、「超々ジュラルミン冷間鍛造マスターギアに特殊表面処理」、「コンピュータ解析により理想の歯面を追求した<SR-3Dギア>」等々、その金ピカ、銀ピカな外観と併せて、最新高級SUVのカタログに出てきそうな、キャッチコピーとイメージである。

 手にとって見ると、確かにその回転はスムーズ極まりなく、音もたいへん静かである。
 振動など皆無に等しい。

 しかし何と言うデザインと色彩だろう!
 モデルチェンジも激しいようだ。

 それに比較し、私のミッチェル408はあまりにも素朴だ。
 何十年と同じモデルが黙々と作られ続けていた

 完成され形は変化のしようがない。
 それはまさしく、最新高級SUVとジープとの比較に匹敵する。

 ショーケースの中の、目もくらむようなそれらのリールたちの残像を、自宅に戻ってわがミッチェル408に重ね合わせた時、50年近く前に設計されたこのリールの、完成されたデザインや性能が当時革新的だったことを再認識した。

 そしてあらためて惚れ直すと共に、時代と共に真に優れた物もいつしか忘れ去られ、消えていく宿命にあることを感じた。
 国産リールが台頭していく中で、リールの代名詞と言われたミッチェル社は次第に経営不振に陥り、身売りをして品質を落としていった悲しい史実もある。

 私は、釣りという趣味を通じて優れた道具にめぐり合った喜びを感じると共に、古き良きものが加速度的に失われつつある現代において、「ミッチェルよお前もか!」という感慨をまた一つ持ったものである。

 これはとりもなおさず、一つの時代が過ぎ去ったと言うことか。
 私の時代が…。

 久しぶりに手にしたミッチェル408。
 真にジープのようなリールであった。

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79.ジープのような大型ナイフ(平成19年5月)

 またまた、ジープそのものの話題でなくて大変恐縮であるが、最近念願の万能大型ナイフを入手した。
 伝統工芸士 佐治武士氏(さじたけし)作 黒打剣鉈(くろうちつるぎなた)7寸。

 これもまたお題目のようで毎回恐縮であるが、「ジープのような」とは、革新的で性能がよく、シンプルで機能美にあふれた極めて丈夫な物を言う。
 ナイフそのものは極めてシンプルな道具であるが、総合的にジープのようなものとなると選択が難しい。

 高価な物や、外観が華美なものはハードな使用がためらわれるし、ジープのようなという表現にそぐわない。
 切れ味はもちろんのこと、手にしたバランス、強度が充分ということは言うまでもない。佐治武士氏作・黒打剣鉈・7寸 これまで小型のナイフは何本か所有しているが、一本で全てをまかなえる万能ナイフを探していた。

 万能とは、野外において小枝を削ってハシを作り、調理に使用し、焚き木用のマキを割り、進路となるヤブを切り開き、万一遭難した時に小屋がけ用の太い枝を切り取り、また万一、山中で熊等の野獣に襲われた時には防衛用の武器となる、そのような使用に供する物を言う。

 洋式ナイフでは大型のボウイナイフなどその候補であるが、高価なことと、鉈のような使い方にはやや重量不足の嫌いがある。

 よく切れ、廉価で実用的なものとして、古くから山で生活する人々に使用されてきた和式ナイフに目がいった。

 剣鉈は鉈とナイフが合体したような形状の刃物である。
 長い間、山仕事や狩猟刀として使われてきた。
 誰がこれを考案したか知るよしもないが、当時としてはきっと革新的なものであったに違いない。

 数ある和式ナイフであるが、性能、デザイン、風格の面で、私は佐治武士氏の作品に惹かれた。
 佐治氏の作品は驚くほど種類があるが、私はその中から上記の一本を選択した。
 佐治氏の作品としては、最もシンプルかつ廉価な品物である。

 刃渡りは7寸(210mm)で、軽すぎず重すぎず私にとってはちょうどよいサイズである。
 黒打とは、鍛造した際の鋼の風合いを残す仕上げで、 黒い部分は酸化鉄(黒錆)で鉄分子として構成が安定しており、天然の防錆材となっている。

 この部分を磨くと「ミガキ仕上げ」と言い、洗練された印象となるが、炭素鋼を使用した和式ナイフゆえに錆が目立つようになる。
 炭素鋼の包丁の錆には苦労させられたが、錆が目立たないと言うのは実用上ありがたいことである。

 宅急便で届けられた剣鉈を私はさっそく研いでみた。
 マキを割るような使い方もするため、刃はやや鈍角につけ刃こぼれをを防ぐ。

 とは言え、例の広告用紙によるテストでは、垂直にした紙がハラリと切れる。
 板切れをマキ用に割ってみたが、もちろん刃こぼれは皆無である。
 日常の生活ではほとんど出番のない大型ナイフであるが、渓流釣りを再開する私にとって、心強い道具となりそうだ。

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80.改めて私の釣りを回想する(平成19年7月)

 私と魚とのつき合いは、小学校低学年の頃までさかのぼる。
 私の家は、田んぼや小川に囲まれた田園地帯ではなく、市街地のはずれとは言え、20分も歩けば市の中心部に行ける場所にある。

 しかし街中と言えど城址の堀があり、各種の水路があり、そして自宅より1Km程のところには川が流れていた。
 向かいの家の同級生の「けいちゃん」と一緒に、私はよく網とバケツを持ってそうした場所に出かけた。
 獲れるのはメダカやどじょう、フナ、ザリガニの類であったが、子供心に網を片手にワクワクとした日々を送っていた。

 ある夏の日、私とけいちやんはいつものように川に出かけた。
 夕方になっても二人が帰ってこないので、心配をした母が自転車で迎えに来た。
 川原でひとしきりお小言を頂戴した我々は、母親が運転する自転車に乗せられた。

 当時の自転車は黒塗りの丈夫な作りで、女性にとっては大きく重く、乗り降りの際にも難儀をする代物である。
 まるでジープのような自転車で、どこかに「ノーリツ号」と書かれていたのを記憶している。

 けいちゃんが荷台に、私はサドル前のパイプに座布団をのせてまたがった。
 国道を兼ねている川原の土手にはゆるい坂がついており、坂を下り終わったところに小さな橋がかかっていた。

 母の運転する自転車がその橋にかかった時に、はるか前方におまわりさんの姿が見えたそうだ。
 3人乗りをとがめられるのを恐れて、母は橋の欄干に自転車を寄せて、子供達を降ろそうとした。

 片足をついたものの、母は自転車と子供達の重さに耐え切れず、思わずバランスを崩した。
 今で言えば、立ちゴケというやつである。

 自転車がどうっと倒れると同時に、私の目にはひらりと橋の下に落てゆく母の後ろ姿が映った。
 欄干の隙間が大きかったようだ。

 幸い橋の高さはさほどでなく、かなりの水量がクッションとなり、母は打撲一つしなかった。
 しかしその褐色に濁った水は、近くの焼酎醸造会社から排水された、芋の悪臭漂う汚水であった。

 私の記憶にはないが、母は一部始終を目撃していた近くの人の好意で、服を借りて自宅まで帰ったそうだ。
 もちろん家に帰ってからは、両親からあらためてこっぴどく叱られたことは言うまでもない。
 この話は、私の放浪癖と魚獲り好きを証明するエヒソードとして、母の口から繰り返し語り続けられている。

 私がなぜ魚獲りが好きだったのか、思い当たるフシがある。
 父も祖父も魚釣りには無縁であったが、聞くところによると曽祖父がかなりの釣り好きだったらしい。

 曽祖父は居間にかけられた額縁の人であったが、廊下の棚には、その曽祖父が使った多数の釣り具が残されていた。
 それはひびの入った竹竿であり、色あせたウキであり、硬くなったテグスであり、錆びついた種々のハリであった。
 私は半分朽ちかけたそれらの道具で釣りをしたことはなかったが、子供心に好奇心をかき立てられたことは間違いない。

 学年が進むにつれ、私が手に持つ物は網から竿に変わった。
 中高一貫教育の私学に進んだ私は、中学の高学年まで暇さえあると川で釣りをしていた。

 しかし面白いもので、私の釣り歴はそこで一度途絶える。
 趣味がやがてラジオとなりアマチュア無線となり、写真となって社会人の生活を迎える。
 後に思うと悔やんでもも悔やみきれないが、一番時間も行動力もあった大学時代に、私は一度も釣り竿を手にしたことはない。

 社会人となって間もなく、会社に釣り好きの連中がいることを知った。
 ある日、新潟の山奥で釣ってきたと言って、バケツ一杯の獲物を見せてくれた。
 ほとんどが尺バヤであったが、後で思うとイワナも一割くらい混じっていたようだ。

 当時の私は、ヤマメやイワナの存在すら知らなかったが、ただただその釣果に驚くばかりであった。
 途絶えて久しかった狩猟本能に、再び火がついた瞬間である。

 新潟県奥只見の銀山湖。
 そしてその周辺の袖沢をはじめとする数々の沢。
 そこがイワナの宝庫であることを知ったのは、しばらく後のことになる。

 袖沢には間もなく行く機会があったが、私がそこで夢中になって釣ったのは、淵に群れをなしていた産卵期の尺バヤであった。
 私は意気揚々とビク一杯のハヤを持ち帰った。

 川の上流部、すなわち渓流と呼ばれる領域には、まるで川の宝石のような、ヤマメやイワナという陸封型のマス類がいるということを知るまでに、あまり時間はかからなかった。
 何と言うことだ! 奥只見まで行ってハヤを釣っていたとは。

 私は今までその存在さえ知らなかった渓流釣りの本を読みあさった。
 今となっては、一番最初のイワナをどこで釣り上げたか記憶にない。

 恐らく職場の釣りクラブで行った、袖沢が初体験と思われる。
 私の家から奥只見まで片道約160Km。
 まだ関越高速はなかった時代である。

 国道17号を車で飛ばすこと4時間余。
 更に、奥只見ダムサイト下の駐車場に車を置いて、歩くこと約2時間でやっと袖沢の釣り場にたどり着く。
 電源開発のために、袖沢沿いには車が走行できる未舗装路がついているが、入口にはゲートがあり一般車両の進入はできない。

 銀山湖とは、只見川をせき止めて作られた巨大なダム湖である。
 たくさんの沢が流れ込んでいるので、まるで手芋のような形をしている。

 袖沢は只見川にダムサイト下流で合流する大支流の一つである。
 山水画を思わせるような、切り立った山々の底を蛇行しながらゆったりと流れる袖沢は、私の渓流釣りの原点となった。

 2間半(4.5m)の振り出し竿にミミズの餌で始まった私の渓流釣りは、やがて第一次ルアーブーム(私の造語)の影響でルアー釣りへと進んだ。
 金子陽春著「ルアー・フィッシング 入門から研究へ」がその引き金となった。

 スプーンのような金属片や、魚の形をした木切れで魚が釣れるとは!
 驚き以外の何ものでもない。
 常見忠著「ルアー・フィッシング」を読んで、50cm級のイワナ釣りを夢見た。

 釣り場はいつしか渓流から、銀山湖や群馬県利根郡にある丸沼に変わった。
 当時のルアー釣具として国産品には見るべき物はなく、竿はフェンイックやガルシア、リールはミッチェルやアブが幅をきかせていた。

 私は6.5フィートと5.5フィートのガルシアのグラスロッドに、ミッチェル410と408のリールをセットした二組の道具を持って、毎週のように丸沼に通った。

 個人所有の丸沼の歴史は古いが、いわば広大な釣堀である。
 当然、釣り料やボート代がかかる。
 釣友からもらったありがたくもない私のあだ名。
 「金権釣り師」がそれであった。

 加藤須賀雄著「かげろうの釣り」を読んだのはいつの頃だろうか。
 機械仕掛けのやや粗雑なルアー釣りに比べ、小さな毛鉤による繊細な釣りは、手先の器用な日本人や、日本の細い渓流にあった優雅な釣り方に見えた

 和式の毛鉤釣りを「テンカラ釣り」と言う。
 奇妙な響きであるが、天から毛鉤を落とすのでテンカラと言うらしい。
 竿は3m少々の胴調子の物で、竿よりもやや長いテーパーラインの先に1.5号のリーダーをつけて毛鉤を結ぶ。

 胴からしなる竿にテーパーライン。
 これをムチのように振って、目指すポイントに毛鉤のみポトンと落とす。
 時には竿を操作し毛鉤に様々な動きを加えて、水面をただよう羽虫を演出する。

 するとどうだろう。
 突然水面がガバッと割れて、ヤマメやイワナが毛鉤をくわえて反転する。

 その瞬間に合わせるわけだが、ヤマメが毛鉤をくわえている時間は0.2秒とも言われている。
 それを過ぎると違和感を覚えたヤマメは、毛鉤を吐き出してしまう。

 見て合わせるわけであるから、タイムラグも当然ある。
 多少は運動神経も関係してくると思われる。

 しかし、合わせがうまくいくと、ガクンという衝撃とともに、ビューンと魚が空中を飛んでくる。
 その興奮は、餌釣りやルアー釣りでは味わえないものである。

 心臓が口から飛び出すとか、血わき肉おどるという表現があるがまさにそれである。
 魚をビクに収めた後まで、心臓がバクバクと鼓動し手足がワナワナと震える。
 私はすっかり毛鉤釣りの虜になった。

 私の毛鉤釣りはやがて和式から洋式に変わった。
 洋式とは、当時はやり出したフライフィッシングである。

 私の教科書は、田淵義雄、シェリダン・アンダーソン共著「フライフィッシング教書」となった。
 そして私の手には、7フィート11インチのカーボンロッド(4番ライン)が握られていた。

 フライフィッシングはシステマチックな釣りである。
 毛鉤の種類は驚くほど多い。
 そしてそれらにはきちんと名前があり、巻く材料も巻き方も決まっている。

 竿とラインの太さ、リールの容量の組み合わせは決まっており逸脱は許されない。
 システムの組み合わせにより、同じ毛鉤釣りでありながらテンカラとは比較にならないほどの広範囲、多種多様の魚に対応できる。
 しかし私は4番ライン、すなわち渓流域限定でフライを楽しんだ。

 再び私が餌釣りにもどったのは、阿部武著「東北の温泉と渓流」に出会ったからだ。
 餌釣りは決して原始的な釣り方ではないし、安易な釣り方でもない。
 その昔、職漁師は毛鉤釣りが普通であった。

 当時は魚影が濃かったので、餌を取る手間のかからない毛鉤釣りは、イワナを獲って生活の糧にしていた職漁師が一般に用いていた手法である。
 それがだんだん魚影が薄くなるに従って、生餌を用いた釣り方が革新的な方法として普及してきたというくだりに、私は目からウロコの思いがした。

 しかしその餌釣りは、やはり私が入門したものとは明らかに違う。
 二間半(4.5m)の延べ竿に、1.5号のみち糸がひとヒロ(両手を広げた長さ…約1.5m)以下の仕掛け。
 短い場合、仕掛けの長さは30cmほどしかない。

 餌は砂虫かチョロ(いずれも川虫)でオモリはつけない。
 いわゆるちょうちん釣りである。

 これで、長い仕掛けではとても振り込めないヤブ沢のわずかな空間に餌を落とす。
 時には毛鉤のように餌を操作し水面で引く。

 竿は常に水面と平行になっている。
 すると突然ガバッと水面が割れて、場所に似合わない良型のイワナが顔を出す。

 竿を強めにあおって合わせをくれるが、問題はその後である。
 そのまま竿を上げたのでは、魚ははるか頭上に宙吊りとなる。
 竿を手元からたたみながら、周囲の立ち木に仕掛けが絡まないように注意をして魚を取り込む。

 これは居合道のような釣り方である。
 極端な話、水面さえ見えればどんな小沢でも通用する釣りである。
 私は人が見向きもしない小沢を求めて、山中を徘徊した。

 ある年の初夏のことである。
 群馬県はみなかみ町にある、谷川温泉付近のヤブ沢に入った。

 沢はスキー場の敷地内を流れており、私は両側に茂るボサや木の枝と格闘しながら釣り上った。
 中型のイワナがポツポツと釣れて、まずまずの釣果である。

 沢はやがてうっそうとした樹木帯を離れ、あたりが熊笹に覆われた開けた場所を流れるようになった。
 こういう場所は大変釣りやすくて助かる。
 私は良い沢を見つけたとほくそえんだ。

 と、その時、50mほど離れたヤプの中から、突然「クェーッ、クェーッ」という鳴き声がした。
 その甲高い音質から最初は鳥かとも思ったが、そのような鳴き方をするのはキジくらいしか思いつかない。
 しかしキジなら聞いたことがあるが、「ケーン、ケーン」である。

 次に野犬の遠吠えかとも思ったが、それにしては鋭く短かすぎる。
 渓流釣りでは、猿やカモシカをたまに見かけることがある。
 しかし彼らは鳴き声を発する前に去って行く。

 となると…、もしかして…。
 もしかして熊では…。

 私は頭から冷水を浴びせかけられたように、全身が寒気立った。
 腕を見ると大きな鳥肌が立っている。

 これまで、立ち木についた熊の爪跡を見たことはあるが、実物に遭遇したことはない。
 熊の前足の張り手をくらうと、顔の半分がなくなるそうだ!。
 恐怖心がどっと心に溢れ出る。

 その熊がもしかしたら50m先のヤブの中にいるかもしれない。
 「クエーッ、クエーッ」という甲高い声は、怒った熊が発したテリトリーを侵犯している私への警告ではないか。
 想像は確信に変わった。

 熊だ!熊に違いない!
 私は仕掛けを引きちぎり竿をたたむと、もと来た方角に向かって一目散に駆け出した。

 前述したが、平成3年2月。
 職場の人事異動により、私の釣り人生はここで中断することになる。
 釣りはフナに始まりフナで終わると言われるが、私の場合は餌釣りに始まり餌釣りで終わったと言えるかも知れない。

 現場勤務の私の休日は主に平日であったが、管理部門に移ると日曜が休日となった。
 先行者がいるととたんに釣れなくなる渓流釣りは、日曜休日はまことに具合が悪い。

 何度か出漁したものの毎回ほとんど釣れず、釣りがかえってストレスなった。
 私は思い切って渓流竿をしまうことにした。

 以来、渓流釣りからすっかり遠ざかっていた私だが、数年間にわたり海の船釣りに通ったこともある。
 しかしこれは船頭まかせの釣堀のようなもので、自分の足と目で見つけたポイントから、渓魚を釣り上げる喜びはない。

 同様に、海の投げ釣り、鯉の投げ釣り、ヘラブナ釣りに凝ったこともあるが、釣り場の環境などで、心底心地よいと思ったことは一度としてない。
 やはり、川底まで見通せるような透明の流れと、周囲を覆う、うっそうとした緑の木立、できることなら上流に人家のない山奥の渓流が私の理想の釣り場である。

 昨年12月末をもって早期定年退職した私は、16年ぶりに平日に釣りのできる身となった。
 となると、残された私の人生のメインの過ごし方は、渓流釣りしかない。

 そしてやっと登場することになったが、今ではジープという心強い味方がある。
 ジープはまさに、渓流釣りのためのマシンといっても過言ではない。

 かつては、レオーネ4WDセダンで渓流釣りに行っていた。
 林道とは言え、急な登りの穴だらけの悪路では、車体全体がゆがむ思いをした。
 前進を断念したこともしばしばある。

 四駆ではあるが、やはりこれは渓流釣りの車ではないと思った。
 本当は好漁が期待できる雨天など、ウエーダーにずぶ濡れのカッパを着たまま、何の気兼ねもなく運転席に乗り込めるのは、今となってはジープくらいしかない。

 さて、渓流釣りをどの釣り方で再開するかの答えは、消去法ですぐに出た。
 悲しいながら体力の問題で、源流やヤブ沢での餌釣りはもう無理だ。
 それに熊も怖い。

 一方、優雅で繊細な釣りであるが、細かい毛鉤を結んだり作ったりするフライフィッシングもどうも億劫だ。
 そうなるとやや粗雑とは言え、大物も期待できる本流でのルアー釣りしか残らない。

 狙いは40cmオーバーのヤマメやイワナ。
 結構面白そうじゃないか!

 3月の声を聞くと、私は納戸の奥に大切にしまっておいたルアー釣りの道具を出してきた。
 ルアー釣りをしなくなって、20年以上が経過しているだろう。
 しかしそれらの道具は、昨日しまったと言ってもおかしくないほどの光沢を持って私の前に現れた。

<釣りとは、歳月に耐えぬいてきた希望だ。人間の精神にとっては、希望こそがすべてだ。希望がなければ、憧れも、よりよき明日への夢も、次のキャストでデカい魚がかかるはずだという信念もありはしない。希望がなければ、不思議に思うこともなく、謎もなく、わざわざ旅をする必要もない。フィッシャーマンとは、楽天的な種族だ。慢性的楽天家と言っていい。まばらな当たりしかないときに楽天性を保持するなんて、ひとえに、希望にすがっているからだ。「一匹もかからないのにどうして一日中釣りなんてできるんだ?」と尋ねられたとき、真のフィッシャーマンなら、こう答えるだろう。「待て!今、ピクッとした!」。そして再びラインがたるむと、こう続ける。「きっとまた食いつくぞ」まさにこれこそ、希望というものだ。>
 
 ポール・クイネット・著、森田義信・訳「パブロフの鱒」より。

 上記の言葉どおり、私は多くの人々が惹かれてやまない魚釣りという行為の中に、希望の本質が隠れていることを見出した。
 であるから釣りは、現在に至った私にとっても、まったくその魅力を失っていない。

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81.ジープ乗りの思想(平成19年12月)

 ジープ乗りの思想とはどんなものか。
 平たく言えば、ジープに乗り、ジープに憧れ、ジープを愛する人々の考え方はどんなものかということである。

 まず、ジープ乗りは物を大切にする。
 愛車のジープを大切にする。

 すでに生産を終了して9年が経過するジープは、程度の良い物は次第に手に入りにくくなっている。
 だから大切にするという一面もあるが、ジープの道具としての真価を見出しているが故に、大切にしているのである。

 ジープは昔も今も極限状態(戦争)で使用される道具である。
 そのため、道具として極めて合理的にできている。

 私は戦争を肯定するわけでは決してないが、極限状態で使用される道具には、道具としての究極の性能が備わっているので、その魅力に惹かれる。

 恐らくジープのあらゆる部位は、徹底的な合理性によってデザインされているはずだ。
 例えばそれは、地図を広げるための広々とした平らなボンネットや、ブッシュによって破損を免れるための中央に寄せられたヘッドライト、行動の障害とならないための、倒すことのできるフロント・ウインドウなどである。

 それらの部位の集合体がジープであり、全体としても機能美溢れるものとなっている。
 確かにオリジナルに比べ、ライセンス生産された最終型三菱製ジープは、幅も広くなりボンネットも高くなった。

 厳密に言えば、機能美バランスが崩れてしまったかもしれないが、一部のマニアを除いて、多くの者はそうしたジープしか容易に所有できない現実がある。

 とにもかくにも、ジープ乗りはこうしたジープの本質を意識、もしくは無意識のうちに感じ取っている。
 このことにより、必然的に愛車を大切にしなくてはという気持ちがわいてくる。
 二度と生産されることのない、かけがえのない道具として。

 道具を愛するジープ乗りのこの気持ちは、恐らく全ての優れた道具に対して適用されるであろう。
 そもそも、ジープ乗りの道具に対する選択レベルは相当に高い。

 従ってジープ乗りは、いわゆる流行物やブランド物には全く影響されないし、興味も無い。
 また、やたらと物を所有したがらない。

 真の道具を必要最小限所有し、それを大切に使用する。
 それらの道具は一生ものと言われる。

 そして、壊れたら直してとことん使い切る。
 物を大切にすると言うことは、すなわち物に感謝することであり、必然的にその感謝の気持ちは物にだけでなく、人間に対しても、自然に対しても向けられる。

 それは、家族愛、隣人愛、郷土愛、人類愛となって、さまざまな行動に現れる。
 ジープ乗りは、金権・物質主義、使い捨て主義、自己中心主義、ブランド主義、ニヒリズム、自然破壊の対極にいる。
 故に、往々にしてジープ乗りは個性的である。

 個性的を通り越して、時には変人・奇人・狂人に見られることもある。
 しかしそれは、決して不名誉なことではない。

 一億総白痴化進行の中にあって、確固たる価値観と見識を持ち、礼儀を重んじ、人に、動物に、物に、自然に感謝しながら思いやりを持って質素に生きる人生は、決して悪いものではない。

 それらは、かっての日本人にとって極々当たり前のことであった。
 私もいつしか、そういうジープ乗りになりたいと思う。

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82.ジープの形をしたスポーツカー(平成20年4月)

 「サプライズな代車を用意しますよ。」
 受話器ごしに、主治医ははずんだ声で答えた。
 我が53の、車検時の代車の話である。

 主治医と車検の打ち合わせを電話でしていたところ、本日すぐにでもよいということになった。
 「来る時は、一枚余分に着て来てください。」

 主治医はこんなことも言った。
 一枚余分に着て来い?

 何か寒さと関係があるらしい。
 「サプライズ」とは「驚くこと」という意味である。

 寒い上に驚きの代車とは…、もしかしてバイクだったりして!
 バイクはしばらく乗っていないし、単気筒の400ccだったらどうしょう。
 400ccのエンジンを、キックでをかける自信はもはやない。

 いつもは下取りの軽四が代車である。
 私の家の周辺は道幅が狭いので、代車としては大きな車より小さな車のほうがありがたい。

 主治医にはいつもそのようにお願いしている。
 代車が主治医所有のデリカワゴンの時は、自宅の駐車場に入れるのに往生した。

 約束の時間に、私は主治医の工場にでかけた。
 工場周辺の桜は六分咲きである。
 今週末はさぞかし花見客でにぎわうことだろう。

 工場の中には、何もついていないフレームの上に、がらんどうのボディが載っているジープがぽつねんと置かれている。
 私は大変なオーバーホールだと思った程度であったが、主治医の説明を聞いて驚いた。

 何とボディはカーボンファイバーの特注品で、「腐らないボディを」というオーナーの注文により、型起しから主治医がたずさわっているという。
 さすがに補強を入れないと強度に問題があるということで、ボディの内側には細い角パイプの補強材が入れられている。
 想像以上に手間がかかっているため、納期は予定より大幅に遅れているそうだ。

 そうそう肝心の車種はJ-57だが、特にレース用などのチューンはしないとのこと。
 しかし、オーナーといい、主治医といい、その情熱はハンパではない。

 話がはずみいつしか1時間半以上がすぎ去った。
 いよいよ代車を借りて帰ることになった。

 「今日の代車はアレですよ。ヒデさんに別の世界を知ってもらおうと思って。いつも奥さんしか知らないのではつまらないからね」
 主治医は珍妙な例えを述べた。
 そしてその指先は、店先にデンと置いてあるハイチューンの57を指していた。
10R-15ワイドタイヤ
 「えっ!、あんなワイドタイヤ回せないよ。しかもあの小径ハンドルでは」
 私は自分の53の215SR15スタッドレスでさえ、うんうん唸りながら切っていることを思い出した。

 「平気、平気、パワステだから。ただし、クラッチをつなぐコツがあるから、その辺を一回りしてきて。」
 主治医はそう言うと、57に乗り込んだ。
 「まず燃料噴射ポンプのスイッチを入れて、アクセルを3回ほどゆっくり踏みま小径ハンドルではたして回せるだろうかす。」
 アクセルをバタバタあおると、プラグがかぶるそうだ。

 昔の車はチュークがあって、その引き具合や、アクセルワークが悪いとプラグがかぶってどうにもならなくなったものだ。

 その時は目一杯アクセルを踏みながらスターターを回すと、大量の空気が入ってプラグが早く乾くんだったっけ。

 主治医がおもむろにスターターを回すと、ズドドドッ、ブォーン、ブォーンと野太い排気音があたりに響きわたった。
 何という迫力。
 こんな怪物にはたして乗れるのか。

 不安にかられる。
 私は主治医が道路に出してくれたスーパー57に乗り込んだ。

 バケットシートに4点シートベルト。
 ブルン、ブルンという振動は、往年のスポーツカーを彷彿させる。

 「クラッチがすぐつながるから、ゆっくりつなぐと同時にアクセルを吹かしていってくださいね。」
 クラッチは恐ろしいほど下でつながった。
 あっという間のエンスト。
ジープの形をしたスポーツカー
 「いやー、すぐつながるねぇ。」
 私は照れ笑いを浮かべながら2度目に挑戦した。

 少しアクセルを吹かし気味にして、ゆっくりつなぐ。
 スルスルと車が発進するので、さらにアクセルを踏み込む。

 スーパー57は、「へたな運転手だなあ」と言わんばかりにガクガクと加速した。
 「軽い!何という軽さだ。」
 パワーステの威力はすごいものだ。10R-15のワイドタイヤが、手のひらでクルクルと回ってしまう。
 それに、サスペンションの存在を感じさせないソリッドな乗り心地。
 まるでタイヤの上にじかに座っているようだ。

 腹に響くはじけるような排気音と鋭い加速、体がグイとバケットシートに押しつけられる。
 まさにこれはスポーツカーの世界である。
 このスーパ57は、ジープの形をしたスポーツカーだ。

 こんな世界があったとは…。
 私は、57にこだわり続ける主治医の世界を垣間見た気がした。

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83.カーナビ大明神逝く(平成20年8月)

 平成13年に購入した、カーナビ大明神が逝ってしまった。
 それは最後のお務めを立派にはたした直後のことだった。

 平成20年7月25日(金)21時05分、高齢者青森釣行決死隊(大先輩、先輩、私)を乗せた車は、佐野藤岡インターより東北自動車道に入り、一路青森県黒石市を目指して漆黒の闇をひたすら走った。

 今回は残念ながらジープによる旅ではない。
 居住性や積載量の関係で、先輩のトヨタ・ハリアー(16万Km走破車)となった。

 黒石インターを降りたところで、早朝4時に現地のガイド(大先輩の知り合い)と落ち合い、そのまま渓流釣りに突入する、1泊3日の強行軍である。
 佐野藤岡インターより黒石インターまではおよそ600Km。

 100Km巡航で6時間。
 トイレタイムを入れても、何とか4時には着けるのではというのは、希望的計算の結果だった。

 深夜の高速道には景色がない。
 目に入るのは対向車のヘッドライトと、規則正しく後ろに飛び去る照明の灯りだけだ。
 それでも目をこらして暗闇を透かして見ると、その闇よりさらに黒い山々の陰が遠くに浮かんで見える。

 このような単調な環境では、単独行ならとても徹夜で600Kmを一気に走れるとは思えない。
 眠くなっては仮眠し、しばらく走ってはまた仮眠をするといった具合で、かなりの時間を要するだろう。

 しかし、団体行動だと別のようだ。
 昔話しに花が咲き、取らぬ狸の皮算用が始まり、3時15分には600Kmを走りぬいて黒石インターを降りてしまった。

 今回の秘密兵器は、私の持参したポータブル・カーナビである。
 いまさらカーナビごときが秘密兵器というのもおこがましいが、先輩のトヨタ・ハリアーにはカーナビが無い。

 ポータブル・カーナビだから移設が可能である。
 私はバッグにこのカーナビをひそかに忍ばせていた。

 予定通り4時過ぎに現地のガイド2名と落ち合った我々は、案内されるままに本州最北地の深山に分け入った。
 ガイドが乗った2トン・トラックは、舗装路から細い林道に入り、両側からせり出た木々の枝をかき分けて奥に進む。

 16万キロ走破の先輩のトヨタ・ハリアーも、なんのためらいもなく先導のトラックに続く。
 ほとんど車全体で、まるで波のように押しよせる両脇の木々の枝をかき分けて進むと、言ったほうがよいだろう。

 この状態で林道をしばらく走ると、最初の目的地に到着した。
 そこは林道の行き止まりで、広場になっている。

 私はインターを降りてからセットしたカーナビに、すかさず現在地をインプットした。
 もしかしたら、ガイドなしで来るかもしれない今後の青森釣行ために、釣場を記録することがカーナビ持参の目的である。

 かくして、沢を渡渉し、岩を登り、滝を高巻きする、私にとって久しぶりの本格的な渓流釣りが始まった。
 詳しい釣りの経過は省略するが、午前、午後、夕方と、3箇所のポイントを移動した。

 そしてそのつど、位置データはしっかりとカーナビにインプットされた。
 あたりが薄暗くなる18時30分まで、釣りを十分に堪能した我々は、2名のガイドと別れ、紹介された民宿へヘトヘトになって到着した。

 さて、一夜明けた翌日、我々だけで半日釣りをすることになった。
 カーナビを頼りに、昨日の別れ際に案内された、新しいポイントへ向かう。

 道路脇のボサに覆われた崖をロープで降りて、つるつるのナメ滝の斜面をおそるおそるはいずり回る。
 今回の釣り場は滝つぼが多い。

 地元の釣師は、その滝つぼで何時間もねばるのだ。
 雪国の人はねばり強い。

 冬の間は、からっ風による好天に恵まれた我々上州人は、ねばることを知らない。
 滝つぼといえども、せいぜい1時間もねばれば次のポイントへ移動してしまう。

 彼らは一つの滝つぼに、5時間も6時間もねばる。
 そして一つの滝つぼで、5〜6本の尺上イワナを釣り上げる。

 3時間ほど我々なりにねばり、そこそこの釣果を上げたその日の釣りは、10時30分に終了した。
 そして残された行動は、現在地より35Kmほど離れたところにある、今回ガイドをしていただいた方のお宅を訪れ、借りたロープを返してご挨拶するのみとなった。

 訪問するお宅の場所は、昨日ご本人にカーナビを見ていただきながらインプットしてある。
 カーナビのガイドは正確で、途中の景色を楽しみながら1時間ほどで苦もなく到着する。

 今回の釣行の最高殊勲者は、カーナビ大明神である。
 我々は口々にその功績をほめたたえた。

 再び昨日の案内人メンバーと、そのお宅の奥さんが加わって話に花が咲く。
 ガイドしていただいた2名の方は、それぞれ仕事を一日休んで同行してくださった。

 何とか客人にイワナを釣らせようと、良いポイントを事前に調査して案内してくださったようだ。
 私はそのすべてのポイントを、カーナビにインプットした。

 しばしの歓談のあと、我々はいとまを告げることにした。
 現地のみなさんに見送られながら、先輩のトヨタ・ハリアーは帰路についた。

 「今すぐに、黒石インターまでの道順を検索しますから」
 私は楽しかった今回の釣行の余韻にひたりながら、ハンドルを握る先輩に声をかけた。

 電源オン。
 運転中は操作するなという警告画面のあとで、リモートボタンの「OK」を押す。

  「あれっ? 変だなあ。何だろうこの画面は…。」
 画面の中央が真っ赤になり、そこには…。

 「デスクをお確かめください。デスクが正しく入っていないか、デスクやレンズが汚れている可能性があります…」
 と書かれていた。

 私はあわてて裏ブタを開けてCDやレンズを確かめた。カーナビ大明神おわかれ画面 CDをティッシュで拭いたり、レンズのホコリをはらってみた。
 しかしその日はとうとう、カーナビ大明神が蘇生することはなかった。

 黒石インターまでは比較的単純な行程だったので、我々は記憶をたどり、何とか迷うことなく高速に乗ることができた。

 日中のために、帰りに要した時間は行きの約1.5倍ほどかかったが、高齢者3人組の決死的青森釣行は楽しく無事に終了した。

 21時過ぎに自宅に到着した私は、翌日カーナビ大明神を53にセットし電源を入れてみた。
 「あら不思議?」
 カーナビ大明神は何事もないかのように動作した。

 電圧の関係だろうか。
 53からの電源は、DC-DCコンバーターを使っているので13.8Vである。

 それに比較し、先輩のトヨタ・ハリアーの電源は12Vである。
 この電圧差がカーナビ大明神を蘇生させたのかもしれない。

 私は安堵しながらも一抹の不安を感じながら、あれこれ操作した。
 しばらくいじっていると今度はガイドの音声が出なくなった。
 さらにいじっていると、とうとうまたあの画面となった。

 カメラのレンズクリーナーでCDのレンズを拭いてみた。
 CDの表面もシリコンクロスで磨いてみた。
 しかし、何をしても元に戻ることはなかった。

 私はカーナビ大明神が、最後の力をふりしぼって、私に別れを告げたような気がした。
 思い返すと壊れたタイミングも絶妙だった。
 重要な任務をすべて終えた直後に、カーナビ大明神は逝ったのだ。

 修理についても頭に浮かんだが、私は7年間ジープという過酷な環境で健闘してくれた、CD式のカーナビ大明神に永遠のお別れを告げることにした。
 青森でインプットした貴重な釣り場データと共に…。

 いろいろお世話になったカーナビ大明神、その名はパナソニックKX-GT30。
 長い間本当にありがとう。

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84.お座敷ジープ(平成20年8月)

 第8話でキャンピングジープをご紹介したが、その後も、より快適なジープのキャンプ仕様はないかと研究を続けた。
 ある方が、荷台に畳を入れると大変便利だというお話を掲示板に書き込んで下さったので、これは良いアイディアだと直感した。

 その方は、単にホームセンターで売っていた半畳の畳を置いたようだが、ジープの荷台にぴったり入る畳を特注すれば、より居住性が向上するはずだ。 
 私はさっそく荷台の寸法を測った。

 幅が90cm、長さが100cm、そして厚みが10cmの畳を入れると、助手席下の燃料タンクの上面と面が合い、まことに具合のよいことになる。
 私はさっそく、特注畳を製作してくれる畳屋さんを探した。

 半端仕事のためか、簡単に見つかるだろうと思った畳屋さんがなかなか見つからない。
 体よく断るか、やる気のない応対などのお店が続いあと、やっと気持ちよく引き受けてくれそうなところが見つかった。

 製作者に理解を深めていただくために、私は十数キロ離れた畳屋さんにジープを持ち込んだ。
 その結果、畳の幅と長さは許容範囲であるが、厚さの10cmというのは無理であることが判明した。
 しかし偶然にも畳1枚の厚みが5cmなので、下の部分は畳の芯を敷き、二段に重ねることによっていとも簡単に解決した。

 特注畳の製作費は、芯を入れて11,000円。
 やがて待望の畳が出来上がり、お座敷ジープが完成した。2段重ねの特注畳 平成18年6月のことである。

 以来2年少々、お座敷ジープの出番はなかった。
 畳と芯は、私の部屋のお荷物と化していた。
 その他もろもろの行事が忙しく、ジープで野営の機会がなかったからである。

 しかしついにその機会がやって来た。
 今まで釣りといえば日帰りがすべてだったが、県内の釣場に飽きた私は、新潟遠征を計画することにした。
 目指すは新潟県魚沼市奥只見にある、銀山湖周辺の渓流である。

 ここは私の渓流釣りの原点でもある。
 三十数年前は、年に数度は通ったものだ。

 その日の出発は、10時30分になってしまった。
 片道160km余りの一般道の走行に、私は5時間を見込んだ。
 雨による増水を望んだが、奥只見地方の天気予報はそれもあまり期待できなかった。

 沼田まではいつもの釣行のコースだが、それから先はかっての銀山通いのコースである。
 平地はまだまだ残暑が厳しいが、三国峠にさしかかると気温はぐんぐん下がり、開け放った窓から涼しい風が吹きこんでくる。
 しかしこの快適な気分は湯沢に下りるまでで、湯沢からは再びねっとりとした暑い風が吹き込んできた。

 再び爽快さが戻ってくるのは、小出で国道17号に別れを告げ、国道352を大湯温泉方面に走り、手前で奥只見シルバーラインに入ってからである。
 奥只見シルバーラインはそのほとんどがトンネルで、地中を走行するために気温はかなり低い。
 Tシャツ一枚で突入すると、目的地の銀山平に抜け出るころには、すっかり寒くなっている。

 地下水のしたたり落ちる、ゴツゴツした岩肌をコンクリートで固めただけの薄暗いトンネルは、それだけでも冷気を呼ぶ。
 さらに、行方不明になった近くの茶屋の老婆の霊が、時おりトンネルの中で目撃されたなどの噂話を思い出すと、思わずゾクッと背中に冷たいものが走る。

 ほぼ予定通り、15時30分に私は現地に到着した。
 天候は曇りであるが、残念なことに雨の心配はなさそうだ。

 目的の渓流はかなり減水気味で、水はあくまでも澄みきっている。
 渓流釣りの条件としては、あまりかんばしいものではない。

 平日の夕方とあって、私以外に人影はない。
 私はいそいそと釣り支度をすると、大きな淵のある川原に降り立った。
 私は淵より少し離れた位置に立ち、細心の注意をはらってルアーを投げた。

 渓流を独占し、夕まづめの釣りを堪能した私が再び53に戻ってきたのは、19時近かった。朝まずめの渓流 あたりはトップリと暮れ、山間の空き地にとめた53だけがポツネンとあった。
 これからは53だけが頼りである。

 頭につけたヘッドランプの明かりだけで食事をすませたあと、私はおもむろに助手席を倒しさらに前方に折りたたんだ。
 助手席の下に約60cm四方の平面が出現する。

 水タンク、リュック、バッグ、クーラーボックス、ビクなどを左右に整理し、寝袋を広げると私はおもむろにその中に足を入れた。
 寝袋の下は直接畳であるが、その固さが何とも心地よい。

 ここで枕は大変重要で、寝袋の袋にタオルや下着を詰めた物で代用すると失敗する。
 頭がいつしかずり落ちて、まんじりともできないことうけ合いである。
 枕は、家で毎日使用している物を持参すべきだ。

 私は寝袋の中に体を水平に横たえ、いつもの枕の上に頭を置いた。
 平らに寝られるということは、何ものにも変えがたい。
 車のシートでは、いくらフラットになるとはいえこうはいかない。

 しかし、何という心地よさだろう。
 お座敷ジープは。
 テントとは違った安心感もある

 大好きなジープの中で、大自然に囲まれ、そしてサラサラと流れるかすかな渓流の音につつまれて、私はいつしか深い眠りに落ちた。
 明日の大漁を夢見て。 

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85.大物ゲット!(平成20年9月)

 「この川は雨で増水すると、大物が湖から遡上して来るんだよ」
 この釣友の言葉が脳裏に焼きついて以来、私は毎日ネットで銀山平の降水量を監視していた。

 今年はゲリラ豪雨が各地に被害を及ぼしているが、肝心の銀山平には思うように雨が降らない。
 そんなやきもきした気持ちで数週間を過ごしていたある晩、現地の降水量に目がくぎ付けになった。

 「雨が降っている!」
 私は思わず声を上げた。

 ネット画面の降水表は、数時間で数十ミリの雨量を示していた。
 天気予報では引き続き雨模様が続きそうだ。

 これは絶好のチャンスである。
 私は翌日の釣行を決意し、釣具と野営道具一式を53に積み込んだ。

 翌日、午後1時頃現地に到着した私は、思わずわが目を疑った。
 目的の川は大変な増水で、泥濁りである。

 味噌汁のような色の濁流が、ゴーゴーと流れている。
 雨の降りすぎである。

 「だめだ、こりゃぁ!」と思いつつ、あきらめきれない私は、川岸の流れが比較的緩やかな場所をさがしてはルアーを投げ続けた。
 2時間ほどが経過したが、当りとも根がかりとも判断のつかない手ごたえが1回あっただけである。
 勇んで駆けつけた私の期待はすっかりしぼみ、気持ちは早くも撤退の方向に傾いていた。

 すごすごと53を駐車した広場に戻ってくると、到着時には人影のなかった隣のキャンピングカーからS氏が出てきた。
 S氏は最近知り合った方で、この川には十数年通われている主のような人である。
 シーズン中のほとんどの土・日には、東京より排気量6,000ccのキャンピングカーを飛ばして釣りに来ているとのことである。

 私がまったくダメだったことを告げると、S氏は意外なことを言った。
 「この川は流程が短いので、数時間もすれば水が澄んできますよ。夕方まで待ってみたらどうですか。」
 私はもともと野営するつもりでいたので、薦められるままにS氏のキャンピングカーのサイドテントの下に入った。

 非情の雨はシトシトと、そして時にはザーッとやや強く降り続いたが、2時間もすると上がったようだ。
 私は川の様子が気になって橋の上から川面をながめると、先ほどまで見えなかった川底の石が、かすかに見えるようになっていた。
 時間はすでに午後5時を回っていた。

 「そろそろ行ってみましょうか」
 S氏の言葉に促されて、先ほどから釣りに出たくてウズウズしていた私は、座っていたアイスボックスより勢いよく立ち上がった。

 「どんな大物がかかるかわからないし、ガンガン瀬の岩で根ずれをするから、8ポンドのラインは必要だよ」
 以前聞いた釣友の言葉に従って、私はルアー釣りでは最近ほとんど使用していない6フィートのロッドに、8ポンドラインを巻いたミッチェル410のセットを持参していた。

 大昔に購入したこのロッドはスプーン用の胴調子で、軽い7センチのフローティング・ミノーを投げるのはきわめて不適当な代物だ。
 そして、セットしたスピニングリールのミッチェル410もやや大きすぎて、非常にアンバランスの道具立てとなっていた。

 ウエストハイのバカ長にゴアテックスの上着。
 腰には上着の上からベルトをしめて、折りたたみ式のランディングネットを挿した。
 対岸に入ったS氏と共に、いよいよ期待の第二ラウンドが始まった。

 水はまだ笹濁りよりやや濁りが強い状態である。
 足元がよく見えないので、慎重に川の中に立ちこんで少しずつ釣り下る。
 私はポイントめがけてキャストを繰り返した。

 やがてコツンと、当りとも根がかりともつかない反応があった。
 期待はにわかに高まった。

 そして更に数投後には、今度はググッという明らかに魚が食いついた反応があった。
 こうなると必死である。

 いつしかルアーを投げる手に力が入って、ダブルハンドになっていた。
 というより、シングルハンドでは道具のバランスが悪く、ミノーが飛ばないのである。

 場を荒らさないように水中の足をゆっくり進め、絶好の深瀬の先端に立つことができた。
 瀬は私の得意とするポイントである。

 岸より張り出た枝にミノーを絡ませないように、注意深く下流に向かって投げる。
 竿先でミノーに動きを与え、時には早く、時には遅くリーリングする。
 と、その時である。

 ガクン!という強い手ごたえがあった。
 その直後にググーンと竿が弓なりになる。

 「で、でかい!」
 私は思わずうめいた。

 何だかわからないが、大物がかかったようだ。
 獲物が流芯に引き込まれるごとに、ジーッ、ジーッと8ポンドラインが引き出される。
 「邪魔な枝だ!」

 私はそのとき、自分の左側に横たわる倒木の枝に気がついた。
 獲物を寄せるには、下流にあるその枝がどうにも邪魔になる。
 うっかりするとラインがその枝に絡まり、ライン切れを起こしそうだ。

 ラインが枝に絡まる前に、何とかネットに獲物を納めないといけない。
 私はランディングネットを取り出そうとあせった。
 右手で竿を高くかかげ、腰に挿したネットを左手でやっとの思いで引き抜いた。

 かかげた右手には獲物の強い引きが加わり、最近シクシクと痛むひじの辺りに、ズキンという強い痛みが走った。
 「イテテテッ!」
 私は思わず顔をしかめた。

 腰のベルトから抜けたものの、今度は二つ折りになっているネットを広げて固定する作業が残っている。
 それを左手のみで行わなければならない。

 反動を利用してくるりと回すと、パチンと固定されるはずの折りたたみネットだが、左手ではどうもうまくいかない。
 ネットは何度もむなしく振られるが、いずれも徒労に終わった。

 この間竿は何度も満月にしぼられ、下手をするとのされてしまいそうだ。
 右腕の痛みをこらえて魚をため、やっとの思いでネットを広げて倒木の枝にかける。

 両手が何とか使える状態になったので、ポンピングを繰り返しながら獲物を寄せる。
 水中から姿を現したのは、まぎれもない大イワナだった。

 しかし、ハリのかかっている所がどうも変だ。
 人間で言えば胸ぐらのあたりである。
 これでは引きが強いわけだ。

 と思うまもなく、大イワナは流芯の向こうにのがれ、またジリジリとラインを引き出していく。
 こんなことが何回も繰り返された。

 下流には倒木の枝、そして目の前は流芯。
 何とか流芯と倒木の間に大イワナを誘導して、ネットですくわなければならない。
 私はネットの柄を最大に伸ばして、左手で差し出した。

 痛む右手で満月の竿をささえ、左手のネットを目いっぱい差し出すという、傍目から見ればさぞかし滑稽なやり取りが延々と続く。
 大イワナも全力をふり絞ってバシャバシャと暴れ、流れの勢いに乗って逃亡を企てる。
 その勢いがふととぎれた時、私は魚体をわずかに手前に寄せて、差し出したネットに入れることができた。48cmのイワナと翌日釣った33cmのニジマス
 魚の入ったネットを水から上げると、ズッシリとした重みが左手に伝わってくる。
 一見50cmオーバーの大物に思えた。

 「やった!トロフィーサイズだ!」
 私は心の中で叫んだ。

 大イワナは最後の力をふりしぼって、ネットの中でバタン、バタンと暴れた。
 私は川底の石に足を取られ、よろめきながらやっと岸に上がると、ヘタヘタとその場に座り込んだ。

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86.夢を釣ってしまった その@(平成20年10月)

 禁漁まであと二日間の9月29日(月)、わが53は銀山を目ざして疾走していた。
 くねくねと曲がりくねる三国峠を一気に越えて、中秋の越後路をひたすら銀山目ざして。
 今シーズン12日目の銀山通い。

 午前8時半に自宅を出発して、午後1時半現地着。
 一泊2日予定の釣行。
 私は身支度ももどかしく、いつもの橋の下におりた。

 私の手には、先日急遽愚妻より借金をして購入した、ミディアムライト・ロッドのスミス・ブンスイレイ6フィートと、シマノ・バイオマスター2000のセットがしっかりと握られていた。

 さすがにこのグッドコンビネーション・セットは、軽いフローティングミノーでもビュンビュン飛ばしてくれる。
 私の場合、「弘法筆を選ばず」というわけにはいかないようだ。

 橋下の大淵には3〜4名の餌師が陣取り、朝から頑張っていたが全然ダメとのこと。
 ちょうど帰り支度をしていた。
 水は透明で量は4日前に来た時よりやや増えている。

 私は26日(金)の深夜から27日(土)朝にかけて、当地で64mmの降雨を確認している。
 本当は土・日が最高のコンデションのはずだが、大勢の釣り人に遭遇するのが嫌いな私は、最初から来るつもりはなかった。
 そのまま納竿を考えていたが、日曜の夜になって矢も盾もたまらず、この日の釣行となったのである。

 私は8月末に48cmのイワナを上げた、橋下の瀬から丹念にさぐった。
 平日とはいえ禁漁二日前とあって、恐らく早朝よりかなりの釣り人が入ったのだろう。
 くり返し投げるミノーには何の反応もなかった。

 私は次のポイントとして、反対側の瀬をねらった。
 覆いかぶさる大木の枝を意識して、ミノーを慎重に投げたつりもりだったが、第1投はこともあろうにホームラン。

 木の枝にミノーを掛けて、最後の虎の子スミス・パニッシュ70Fを失った。
 このスミス・パニッシュ70Fは、先日48cmを上げた切り札で、これを失うと大物に実績のあるミノーはない。

 私は消耗戦にそなえ、昨秋釣具屋のバーゲンセールで購入した、ティムコ・シュマリ55Sを結びなおした。
 これは瀬にも比較的強いミノーである。
 サイズは小ぶりだが、その動きは確認してある。

 私は瀬頭をはじめ、順次早瀬の中を攻めて行く。
 透明な水流の中を、シュマリ55Sは元気に泳ぎ回った。

 と、その時!、グイッというひったくるようなにぶい当たりがあり、茶色い巨大な魚体が流れの中を走るのが見えた。
 次の瞬間、愛竿ブンスイレイはぐんぐん絞り込まれ、一瞬満月のようになった。

 しかし、ミディアムライト・ロッドの反発力は強力で、竿がのされるような不安は皆無である。
 そして8ポンドラインとのコンビネーションは、十分な余裕が感じられた。
 かかった場所も口らしく、先日胸ぐらにかかった48cmにくらべ抵抗感もさほどではない。

 私は魚体をコントロールしながら、瀬脇に寄せていった。
 とは言え、一見してごぼう抜きにできるサイズではないので、ベルトにぶら下げていた折りたたみ式のランディングネットをすばやく左手で開いた。
 先日の48cmでは苦労したので、この日のためにワンタッチで広げられるように何回も練習しておいたのだ。

 場所も先日とは違い、広い川原を後ろに控えた瀬である。
 真昼間でもあり、行動の自由は比較にならない。
 私は余裕をもって獲物を下流の瀬脇に誘導し、ランディングネットに収めた。尾叉長59.0cmのイワナ

 さっそくスケールで計ると、尾叉長(びさちょう…口の先端から尾の中心部先端までの長さ)でちょうど59.0cm。
 私の夢であった50cmオーバーは、限りなく60cmに近いサイズで実現したことになる。

 それにしてもあっけない幕切れ。
 苦闘も死闘もない、釣り始めてから約20分後の出来事。

 私は改めて足元に横たわる大イワナを見下ろした。
 「夢を釣ってしまった…」
 私は思わず心の中でつぶやいた。

 愛竿スミス・ブンスイレイとの比較 いくら大イワナの宝庫である銀山でも、恐らくこれ以上のサイズは二度と私には釣れないだろう。
 夢を釣ってしまったら、もう夢を見ることはできないのか…。

 私はこみ上げてくる喜びと共に、早くも心の中にポッカリと開いた空洞を感じた。

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87.夢を釣ってしまった そのA(平成21年1月)

 我に返った私は、強い視線を感じてふとふり返ると、先ほどの餌師2名が約50m後方の橋の上から見ていた。
 「まずい、何とか釣れなかったふりをしないと。」

 私は獲物をさえぎるように石の上に座り込んだ。
 これが渓師(たにし)の掟である。
 大物を釣った場所や獲物は、絶対他人に教えたり見せてはならない。

 視線が気になって、ネットに絡んだトリプルフックをはずすのに15分ほどかかり、最後はとうとうネットを切る破目になった。
 さらに時間をかけて何枚も写真撮影をする。
 結構時間がかかったはずなのに、橋の上の見物人は立ち去らずにまだこちらを見ている。

 仕方がないので、獲物をレジ袋に隠すように入れて、橋の脇から道路に上がった。
 橋の上の見物人は、待っていましたとばかりに駆け寄ってきた。

 彼らに獲物をシブシブ見せていると、橋の向こうからゾロゾロ歩いて来る一団がいる。
 運の悪いことに、それは地元新潟のテレビ取材クルーだった。

 先頭を歩くカメラマンはいち早く私の獲物を発見。
 カメラの電源を入れるや突進して来た。

 この取材班は、淵で泳ぐ大イワナの姿を取材するために出かけてきたが、あいにくイワナがいなかったそうだ。
 失意のうちに取材をあきらめかけたところ、そのイワナが目の前にぶら下がっていたからたまらない。
 いや応なしの強制取材となった。

 ディレクターやカメラマンから、イワナを草の上に置けだの、手に持てだのの注文が矢つぎ早に出された。
 かくして私も獲物も、新潟県民の視聴にさらされるという、渓師にとって最悪の事態になってしまった。

 おまけに、獲物は禁漁直前のメスイワナである。
 卵を持って腹が大きくふくらんでいる。
 バツの悪い私は、インタビューの中でこう言い訳をした。

 ディレクター氏:銀山湖をどう思いますか?
 私:すばらしい湖だと思います。
 かつて大イワナの宝庫でしたが、一時の乱獲でその数がだいぶ減ったそうです。

 しかし開高健を初代会長とする、「奥只見の魚を育てる会」の皆さんの努力のおかげで、こうしてまた大イワナが釣れるようになりました。
 本当は釣りなどしないほうが魚族保護のためには良いのでしょうが、湖にも川にも禁漁期間があります。
 規則を守って釣る限り、多少のおこぼれを頂戴してもいいかなと思っております。

 ディレクター氏:それにしても、ずいぶん大きなおこぼれですねぇ?
 私:恐縮です。

 ディレクター氏:ところで、このイワナはどうするのですか?
 私:剥製にするつもりです。

 私は釣り上げた瞬間、これは剥製にするしかないと思った。
 味噌漬けにして食べたのではもったいない。
 取材終了後、私はこの日のために用意していたバスタオルを濡らしてイワナをくるみ、アイスボックスに入れた。

 私はその後再び戦場にもどり、先ほどの瀬の下流を釣った。
 一度かなり大きな当たりがあったが、ふと橋の上をふり返るとまた1名の見物人がいたので、その場の釣りをやめた。
 渓師は決して釣り場を見られてはならない…。

 足早に釣り下り、下流の瀬で35cmのイワナを追加して、午後4時に終了とした。
 2時間程の釣りだったが、心は剥製にするイワナのことばかりで落ち着かず、まるで雲の上を歩いているようだ。
 そして、暗闇の農道近道コース(小出〜湯沢間)を53でひた走り、霧の三国峠を越えて4時間程で午後9時に帰宅した。

 翌日、釣友から紹介されたアマチュア剥製師T氏の自宅を大イワナと共に訪問し、剥製の話を聞いた。
 T氏によると、プロの剥製師に頼むと、製作費は最低でも1cm700円とのことである。
 約60cmとして42,000円。

 それに背景になる、額、板、ケースの代金を入れると、7万円は下らないそうだ。
 アマチュアのT氏でさえ、35,000円はもらわないと材料費も出ないとのこと。

 確かにそのとおりだが、いくら記念碑でも私にとっては少々高額に感じた。
 それに、製作工程を聞いただけで疲れてしまった。

 まずホルマリンに1週間浸けたあと、頭の先から尻尾の先までの肉や骨を、丹念に取り除く。
 その後の着色やらなにやらで、1月から1月半はつきっきりでかかるそうだ。

 これでは、最近ほとんど剥製の製作をしていないというT氏に、製作を依頼するのは酷というものだ。
 製作に失敗すると、経年変化で色や形が変わってきたり、下手をすると腐ってくるという。

 さらに、結構大きなサイズのモニュメントになるので、飾る場所も考えなくてはならない。
 恐らくもう二度と釣れないサイズだろうから、剥製にして私が死んだら棺おけに一緒に入れてもらおうと思ったがやめにした。

 持ち帰った獲物は、近所の同級生の魚屋に切り身にしてもらい、味噌漬けにした。
 製作費はただだし、家計にもプラスだ。

 私はこんがりと焼けた味噌漬けのイワナに舌鼓を打ちながら、「来年は60cmオーバーを釣ってやるぞ!」と決意を新たにした。

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88.ETC車載器ゲット顛末記(平成21年4月)

 景気浮揚対策のため、3月28日より大型車以外のETC利用者のみ2年間、土曜・日曜・祝日に関して、都市部を除く高速道路料金の上限が1,000円になるという。

 さらに、ETC車載器を購入する補助として、5,250円が助成されるという。
 こんなよだれの出る話の前に、ふだん高速道路をほとんど使わない私の心も動いた。

 3月12日からETC車載器の助成制度がスタートし、カーショップの前には長蛇の列ができたという。
 居ても立ってもいられなくなった私は、翌日の13日の金曜日に、ふらりと行きつけのカーショップに出かけた。

 しかし、カーショップの陳列ケースの中にあるのは、特定メーカーのたったの2機種だけ。
 しかも、売値が18,800円と17,800円の分離型の高級品しかない。

 確か少し前までは、1万円以下の一体型の廉価品もたくさんあったはずだ。
 この価格には、セットアップ費と取り付け料が含まれているので、助成制度を利用すると1万2〜3千円になるが、 24回払いの割賦でないと助成対象にはならないとのこと。

 これは直後の転売対策として、「2年以上の期間」、「2回以上の支払い回数」という要件を満たすためだそうだが、 割賦手数料が2,000円かかるとのことだ。

 私は「自分で取りつけたいのだが」と相談してみたが、ショップで取りつけないと助成制度は利用できないとのこと。
 「お車はなんですか?」と言うので、「三菱ジープだ」と言ったら、幌ジープには恐らく取りつけはできないでしょうと、勝手に決めつけられてしまった。

 そんな馬鹿な!
 ジープには、M40・106mm無反動砲だって付くんだぞと言いかけたがやめにした。

 そこで、アマチュア無線機もカーナビも自分で付けたし、取りつけたら持ってくるから店で付けたことにしてくれと言っても、取り付け作業伝票がないと適用にならないなどと、聞く耳を持たない感じだった。

 私は話を聞いているうちに、業界関係者(メーカー、販売店、クレジット会社、カードセットアップ会社)が儲かる仕組みが浮き彫りになり、だんだん不愉快になってきたので、プイと店を後にした。

 週明けの月曜日、まだ気になっていた私は散歩がてらに別のカーショップをのぞいてみると、早々と売れ切れの看板が出ている。
 メーカーにも在庫がゼロで、入荷の見通しもないとのこと。
 なんだか、高級品の在庫一掃セールだったような気もしてきた。

 ならば得意のネットでと、価格.comをはじめとしてあちこちのネット販売店を検索してみたが、摩訶不思議なことに、ETC車載器はあらゆる販売店からその姿を消していた。

 この不景気に、物が売れずに在庫の山ができている時代に、ETC車載器だけが忽然と店頭から姿を消すなんて…。
 「どうせつけたって、休日の高速道路は大渋滞さ。」とうそぶきながら、私は自分の心を慰めた。

 そんなある日のことである。
 釣友と話をしていて、「これからは遠くに行くのも高速が安くなっていいよね。」と彼が言うので、「つけようと思ったらどこにも売っていないよ。」と私は答えた。

 「えっ? うそ…。せがれが自動車用品屋に勤めているから聞いてやろうか?」
 釣友は即座に息子さんに携帯を入れた。

 しかしあいにく、息子さんの携帯は留守電になっていた。(話が決まったあとに息子さんから電話が入ったが、品物はあるということだった。))
 「じゃあ、高校の同級生の○○が○○電気に勤めているから聞いてみるよ」と言いながら、彼はまた携帯をかけた。
 「あっ、もしもし、○○だけどETCあるよね? あるね。○○が買いたいんだけど…。」

 ええっ? 本当にあるの?
 私はキツネにつままれたような気分になった。

 ○○は私にとっても高校の同級生である。
 電話を代わって直接聞くと、支払額はセットアップ費込みでたったの3,600円とのこと。

 車検証をFAXで送るだけでいいという。
 取り付けはしないから自分で付けてくれとのことだが、願ったりかなったりだ。

 もちろん24回払いの割賦は使わないが、助成制度を使うために2回以上の支払い条件だけは免除にならない。
 残りを2年後に払い込んでくれというが、その額はお互い忘れてもいいような金額である。
 蛇の道は蛇というがこれには驚いた。

 しかし、販売店によるこの差は一体何なのだ。
 方や機会に便乗してあらゆる手段で儲けようとする店、一方許される範囲で極力客の便宜をはかってくれる店。
 真面目にネット販売に挑戦しても、指定販売開始時間直後、瞬時に売切れてしまう。

 「お宅のお店のネット販売部門では、全て売切れ表示になっているけど、よく在庫があるね?」
 私は彼に素朴な疑問をぶつけてみた。

 「ネットに出すとすぐ売れ切れてしまうんだ。メーカーから入る数は限られているから、予約を差し引くといくらも残らないんだよ。だけど、特別に頼まれれば1・2個くらいは何とかなるんだ。」
 私は政治的な出荷調整が行われていると感じた。

 いわば統制経済だ。
 配給や闇経済とはこういう感覚なのか。

 コネがあれば何でも手に入る。
 コネがないと何も手に入らない。

 メーカーも売りたくてうずうずしていると思うが、助成対象の4輪車115万台にあっという間に到達したのでは、ありがたみが少ない。
 憶測だが、チビチビ出して恩恵気分を引き伸ばしているのだろう。
 そうなると、業界関係に友人・知人がいるのといないのとでは、かなりの差となる。

 そのような経緯で手にしたETCであるが、さっそく取りつけた。スペーサーを入れ角度調整して取り付けたアンテナ 私のものは分離型(三菱EP-618B)だがきわめてシンプルで、そもそもの値段もそれほど高くない。
 問題はアンテナの取りつけ角度。
 推薦条件として、フロントウインドの角度(アンテナの角度)が水平より55度以内、高さは地面より2m以下、また車のセンターより左右30cm以内にアンテナを設置しないといけない。

 ETC機器の使用周波数は5.8GHz帯というから、電波の性質は光と同じように直進性を持っている。 施設側と車両搭載機器のアンテナが正確に対向していないと、最大利得が得られない。

 ジープの場合、アンテナをそのままフロントウインドウに貼りつけると、55度以上になってしまう。
 実用上問題はないと思われるが、一応基準の範囲内に設置することにした。

 これに適合しない車種(一般的にバスやトラック)は、別売のアンテナ取りつけブラケットを使用してダッシュボード上に取りつけるのだが、ダッシュボードなるものがないジープは問題外となる。

 そこで、よく品物のカバーとしてかぶせられているプラスチックの薄い素材で三角錐の枠を作り、角度調整用スペーサーとして、アンテナとフロントガラスの間に入れた。

 本体は、スピードメーター下に、付属の両面テープで一部貼りつけ、補助として黒色ワイヤー(針金)で押さえた。
 電源は12/24V共用だが、DC-DCコンバーターの13.8Vを供給した。
 カードを申請中なのでまだ未使用だが、電源を投入したところ本体は正常に動作しているようだ。ETC本体は両面テープと補助ワイヤーで固定
 これからの問題は砂ぼこり対策。
 そこで名刺を二つ折りにして差し込み、上部を10mmほどを90度折り曲げると、まことに手軽なキャップとなった。

 これでまた53とともに遠征の機会が増えるだろう。
 どこまでも走り続けるぞ!日本列島。

 私が運転台によじ登れなくなる、その日まで!

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89.マルチ釣師(平成21年6月)

 マルチとは「多数の」「複合の」と言った意味がある。
 マルチ・メディア、マルチ商法、マルチ農法と、良い意味でも悪い意味でも使われる。
 そこでマルチ釣師の登場となるわけだが、どうもこれはうさん臭い。

 私は現在自らの身体的条件(加齢)により、安全な本流におけるルアー釣りをしているが、これがなかなか釣れない。
 特に気温が上がり、川の水量が減ってくるとルアーでは難しくなる。

 するとムラムラと、他の釣法への浮気の気持ちがわいて来る。
 支流での餌釣りや、夕まづめでのフライなど、かって凝っていた釣法を試してみたくなる。魚野川上流
 先日、すっかりご無沙汰していた餌釣りにとうとう手を出してしまった。
 渓相は良いのに、ルアーではなかなか釣れない場所がある。
 もちろん釣り人も多いのだが、もしかしたら餌釣りならもっと釣れるのではないかという誘惑に負けた。

 そうなると居ても立ってもいられなくなった私は、納戸から出してきた延べ竿に餌のイクラを持って出かけた。
 その時の私の姿は、釣りの知識が多少ある人が見たら噴飯ものだろう。

 約30年前に購入したフライベストを着込んで、胸にはイクラをいじった手をふき取るハンドタオルをぶらさげていた。
 手には4.5mの延べ竿、腰にはルアー・フライ用のランディングネット、そして尻には魚籠(クリール)を。

 餌釣りで釣れたヤマメ 釣り人はスタイルから入る人が多い。
 餌釣りなら、交換したフライを一時とめておく獣毛パッチ付きのショート丈のベストではなく、レギュラー丈の釣りベストだし、ランディングネットではなく渓流タモである。

 結果的には、先行者の足跡だらけの場所でからくもヤマメを2匹釣ったが、フライマンの姿を見ると、フライならどうだったろうなどという考えも浮かんでしまう。

 実際、東京から来たという、カタログから抜け出たような素敵なフライマンと出会ったカタログから抜け出てきたようなフライマン
 彼の目に私の姿はどう映っただろう。
 たぶん異様な人種と思われたに違いない。

 多くの釣り人は一つのパターンにこだわりがちだが、そもそも一つの釣法ですべての場面に対応しようとするのが無理なのではないか。

 より釣果を上げるために、季節や場所によってさまざまな方法を用いるのはどうだろう。
 もちろんこだわりの釣法以外の釣りはしたくないという釣り人は多いし、釣果がすべてではないというのは当然だ。

 これは個人の釣りに対する姿勢であるから、どれが良いというものではない。
 私の場合は貪欲なせいか、釣れないとどうしたら釣れるかを考える。

 さもしい奴。
 節操のない奴。
 そんなにしてまで釣りたいかと問われれば、「釣りたい!」と言うしかない。

 鑑札を受けた河川からは、正当な手段で何としてでも魚を釣りたい。
 私の偽ざる本音だ。

 釣法を、一つのパターンに押し込めようとするからストレスが発生する。
 季節、場所に合わせて、良かれと思った釣り方をすれば良いのだ。

 ここまで考えると腑に落ちた。
 マルチ釣師の誕生である。
30年前に購入したフライ用ベスト(獣毛パッチが特徴)

 それにしても、フライのベストでの餌釣りだけはやめよう。
 安いベストでも見てくるか。

 そう思い立った私は梅雨空の昼下がり、釣具屋に向けて53のハンドルを握った。
 

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90.ブラックボックス、その名はヴァンガード(平成21年9月)

 佐野藤岡インターから東北自動車道に乗ると、その車は一気に加速した。
 直列4気筒2.4L・DOHCエンジン・サウンドが、車内にかすかに響く。
 スルスルと速度が上がりあっという間に150Kmに達した。

 そのままアクセルを踏み続ければ、速度は上がり続けるが、オービスが懸念されるので足の力をゆるめる。
 巡航速度140Kmは、わが53での一般道60Kmの感覚だ。

 昨年に続き、2回目の高齢者3人組・青森釣行の幕が切って落とされた。
 その足となるのは、トヨタ・ヴァンガード240S・4WD。

 私はヴァンガードという名の車を知らなかった。
 昨年は同じ先輩のハリアー2WDのお世話になったが、10年16万Kmを経過したハリアーは、お世辞にも高性能とは言えなかった。

 FFのくせにハンドルがダルで直進安定性も悪い。
 加速もモッサリとしていて、人間の体調で言えば気だるい感じだ。
 この感覚は、やはり10年以上前に高速を走った時の、義弟のパジェロ・ロングでも感じたことだ。

 わが53は、ハンドルの遊びも多く当然直進安定性は良くないが、ラダーフレームに支えられた車体の剛性感は高く、小じっかりとした 走りをする。
 特に峠道などのコーナリングでは、不思議とハンドルの遊びを感じずに、硬い板バネでロールも少なく、かなりの高速で右へ左へとコーナーをかけ抜けることができる。

 これも比較話になるが、数年前義弟が買い換えた、ランドローバー・ディスカバリー3を運転する機会があった。
 やや大柄な車体であるが、ディスカバリー3は剛性感も高く、パワフルで重厚な走りをする。

 私が今まで運転した車の中では、最良のフィーリングの一台である。
 故障率や維持費の問題は別として、車の進化を実感した時であった。
 やはり高価な車は違うのか、というのが当時の印象だった。

 ヴァンガードのハンドルを握った時、その記憶がよみがえった。
 ハリアーを地味にしたような、はやりのSUVといわれる車だが、久しく一般車への興味を失っていた私には、見ただけでは名前さえ思い浮かばなかった。

 私にとって、一般車はブラックボックスになって久しい。
 そのブラックボックスは、実に小気味良く走る。
 ハンドルはドライバーの心の動揺にさえ敏感に反応し、遊びの多い53のハンドルになれている私には、危険を感じるほどだ。

 100Kmからの加速も小気味良く、規則さえなければどこまでも加速させたい誘惑にかられる。
 青森までの600Kmを、休憩込みで6時間でこなしてしまう。
 高速時代のSUVとはこういうものなのか。

 私は、特別に秀でているとは思えないこの車に、車の進化を感じた。
 思い起こせば私が高速道路を普通の車で走ったのは、平成元年製のレガシー2000VZ・4WDセダンの頃だ。
 この車も決して悪い車ではないが、150Km位になるとフロントが浮き上がるような感じで、安定性が悪くなる。

 以来10年、53以外で高速道路を走ったことは数えるほどしかない。
 失われた10年ではないが、私が知らなかったうちに、装備的にはさしたる変化の見られないように思える国産車も、走行の質がかなり進化したようだ。

 もし高速道路が無料化になったなら、私の釣行において、悪路走破性よりも高速性能がメリットになるかも知れないという考えが脳裏にチラリと浮かんだ。
 しかし、1台しか車を所有する意志のない私にとって、53を捨て去ってまで最新の車を所有する価値があるか否かについては、即座に価値は無いといわざるを得ない。

 いくら車が進化しても、私にとって、わが53を決して凌駕でき得ない点がいくつかあるように思える。
 特殊設計思想によるフルオープン機能、100万Kmは走れるといわれるその堅牢さ、そして極悪路における絶対的な安心感である。
 

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91.クラッチ交換の儀・上巻(平成21年10月)

 ギューン!、ガリ、ガリ、ガリ!
 「???」

 バックギアに入れた手に、激しい振動が伝わってきた。
 私の大きらいなギア鳴りである。

 もう一度意を決してトライしてみる。
 ガツン!

 一応バックに入ったが、激しい振動と衝撃音が発生した。
 何かがおかしい!
 そう言えば、来る道中もギアシフトがいつもに比べてシブイ感じだったことを思い出した。

 現在位置は、群馬県と長野県の県境に近い志賀高原入口だ。
 自宅まで100Km弱の距離がある。
 紅葉撮影に来た私は、思いもよらぬトラブルに見舞われた。

 思い起こせば大昔、スバル360に乗っていた頃、3速ミッションのギア鳴りには悩まされた。
 整備士氏に聞くと、原因はシンクロが弱っているためだと告げられた。

 それからだいぶ経ってだが、レオーネRXというスポーツタイプの車では、ミッションが焼きついて2速に入ったままになってしまったことがあった。
 その状態で、自宅から10km少々の修理工場までなんとかたどり着いた記憶が脳裏をよぎった。

 不安にかられた私は、紅葉もあまりよくない状況だったので、携帯電話の通じる場所まですぐさま降りて主治医に電話をかけた。
 そして、不在だった主治医の電話を待つ間、あれやこれや考えた。

 シンクロ機構が壊れたにちがいない。
 ミッションの故障となると結構な修理になりそうだ。

 家まで帰れるか不安でもある。
 途中で変速できなくなったら、レッカー車か牽引を依頼しなければならないだろう。

 主治医からの電話は、そんな不安な気持ちで走行している時にかかってきた。

 主治医、「いやー、先日のキャンプは、ジープでは結構長距離でしたねぇ」

 私、「キャンピングカー牽引では、さぞかし大変だったでしょう。まさか、鳥居の下がキャンプ場とはねぇ」

 主治医、「いやー、夜間なのでまったくわかりませんでしたよ」

 私、「道中みなさんは、あのキャンピングカーの中に乗っていたのですか?」

 主治医、「そうなんですよ。ワッハッハ!」

 世間話はこれくらいでよいだろう。
 私は本題を切り出した。

 私、「すいません、実は出先なんですが、ギアがバックに入らないんですよ。シンクロがイカレましたかねぇ?」

 主治医、「えっ、バックに入らない? それはシンクロの問題ではないですね。53のバックギアにシンクロはありませんから。55からはバックギアにもシンクロが付きました。悪路にはまった時にモミ出しがしやすいようにです。それはたぶん、切り離しの調整不良か、クラッチ本体の不良が考えられます。もし、バックギアにもシンクロが必要でしたら、中古の55のミッションを移植する方法もありますが」

 主治医の的確な答が即座に返ってきた。
 しかし、55からバックギアにシンクロを付けたとは、ジープも見えないところで最後まで進化し続けたものだ。

 私、「わかりました。それでは帰りにそちらに寄りますから、よろしくお願いします。あと2時間くらいかかると思いますが」

 私は帰りの道すがら、極力バックするような場面は避けた。
 どうしてもバックしなくてはならない場合は、エンジンをストップさせてバックギアに入れたあと、再びエンジンをかけた。

 私の到着を待っていた主治医は、作業中の手を休めてさっそく私の53の病状を調べてくれた。
 主治医がバックギアに入れると、ガツンというショックが再現された。

 私はまずこの事態に安堵した。
 再現性のない故障が一番始末に悪い。

 次に主治医は、サイドブレーキをいっぱいに引いた後、4速に入れてエンジンをふかすとソロソロとクラッチをつないだ。
 何回かのうちエンストすることもあったが、クラッチをつないでもそのままエンジンが回り続けることもあった。

 主治医、「なるほど、なるほど。クラッチもかなり滑っていますね。ほら、エンストしないでしょう。クラッチが正常だとエンストするものです。」

 私、「製造後18年近く経っていますし、12万Kmもオーバーしていますし、そろそろ換え時ですかね」

 私はクラッチ板のみの交換かと思ったが、主治医はクラッチケースを含めて何点かの部品のセット交換が望ましいと言う。
 私はミッションを降ろす大作業になるので、作業ついでに最善策をお願いした。

 「クラッチが滑り出すと、馬糞臭くなるそうだ」
 私は55に乗っている友人の言葉を思い出した。
 乗馬の関係者は別だが、今どき馬糞の臭いをかいだ人はそう多くないだろう。

 私はかろうじて子供の頃、道路に落ちていた馬糞を目撃したこともあるし、臭いをかいだこともある。
 しかし今回、その臭いはたちこめなかった。
 恐らくその前の段階なのだろう。

 そして同時に、主治医の調整により、バックギアのギア鳴りも軽減されたことから、クラッチ不良だけがギア鳴りの主因でないことも判明した。
 いずれにせよ、マニュアル・ミッション車の宿命による、クラッチ交換の時期であることは明らかである。

 「ついでに前回の交換から6万Km走ったので、ショックも交換していただけますか。」
 私は、53の入院は部品の入荷を待ってから行うことを続けて主治医に告げると、工場を後にした。

 サイフがだいぶ軽くなるが、これでまた、53の一部が新しくなると自分に言い聞かせつつ。
 

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92.クラッチ交換の儀・下巻(平成21年10月)

 主治医より部品入荷の連絡が来たのは、2日後の夕方だった。
 私は入院患者の付添人のような気持ちで、53と共に主治医の工場に向かった。代車のスーパー57

 その日は53を置いてくるだけなので、私は主治医の用意してくれた代車に乗って、早々に帰宅することになる。
 主治医の用意してくれた代車。
 そう、それは例のスーパー57である。

 私はここでこのスーパー57について、誤解があったことを報告しなければならない。
 修理の全てが終わった後で主治医から聞いた話である。

 私はその性能から、代車のスーパー57は主治医のレースカーだとばかり思っていたが、レースカーは全く別物だとのことである。
 その動力性能は、このスーパー57よりさらに100馬力も上だという話を聞いて、私は唖然とした。

 とてもそのような代物は私には運転できないだろう。
 とは知らず、私は街道レーサー気分でバケットシートに身を沈め、4点式シートベルトに締めつけられながら、野太い排気音と共に自宅に戻った。
手術台の53
 翌日午後3時半、早くも作業が終わったとの電話連絡を受け、私は再びスーパー57に乗り込んだ。
 燃料ポンプを始動させ、3回ほどゆっくりとアクセルを深く踏み込む。

 おもむろにイグニッションキーを回すと、爆音ともいえる排気音が閑静な住宅街にこだまする。
 幸い、近隣の住民と顔をあわせることもなく、私はメインストリートに出ることができた。

 パワーステアリングによって驚くほどハンドルは軽いが、ブロック状タイヤのゴツゴツとした感触と、切れの良いワイドタイヤの感覚が伝わってくる。

乗り心地は、サスがあるのだろうかというほどソリッドである。 いわば、大型のゴーカートだ。

 そして意識すると、クラッチはかなり重いといえる。
 しかし微妙に半クラッチを使うと、あまりエンジンの回転を上げなくともスムーズに発進できる。
 私は主治医の工場までの約6Kmを、今までになく余裕をもって楽しみながら走行した。

 主治医の工場に到着すると、53は何事もなかったように私を待っていた。
 修理作業に立ち会っていない私は、どれほど大変な作業が行われたのか実感がない。

 しかし、あの重いミッションを降ろさなければならないことは知っていたので、相当の作業であることは想像がつく。
新しいクラッチケース
 実は、ミッションを降ろしたところで取材をすることになっていたが、作業が思いのほか早く進み、昨夜のうちに山を越えてしまったそうだ。
 主治医はその模様を、私のために撮影してくれていた。

 私は足元に置かれた4本のショックと、クラッチケースに気がついた。
 ショックは見ただけではわからないが、クラッチ板に目をやると、部分的ではあるが、埋め込んである留めビスの頭がクラッチ板の表面すれすれになっていた。

 また、フライホイールパイロットベアリングは、手のひらに収まるような小型なものだが、指を入れて回してみるとかなりのゴロが発生していた。

 「ちょうどよい時期だったですね」と言う主治医の言葉に、私はあのバックギアに入れた時の甲高いギア鳴りが、不具合を訴える53の叫びであったことに気がついた。
 物が言えない53は、体調不良については異音で表現しなければならない。降ろされたミッション
 私は修理に関する全てが終了し、またもや一部が新品になった53に乗り込んだ。
 エンジンを始動させ、クラッチを踏みギアを1速に入れる。
 何というクラッチの軽さだろう。

 左足に力を入れると、ペダルは軽くペタンと床につく。
 そして軽い抵抗と共にカクッと決まるギアチェンジ。
 そして今までにない乗り心地のよさ。

 路面のつぎはぎによる振動も、ほぼ一回で収束する。
 いつもはかなり大きく聞こえる力強いディーゼルエンジン音さえ、今は静かに心地よく聞こえた。

 待てよ、待てよ。
 修理によって確かに快適になったわが53であるが、直前に乗ってきたスーパー57の、F1マシンのような排気音と、荒馬のような乗り心地の影響が大きいのだろう。

 私は思わず心の中で苦笑した。
 人間の感覚の相対性に今さらながら気がついた。
交換されたクラッチ板とベアリング

 いずれにしても、道具を修理することによって大切に長く使う喜びを与えてくれた53に、心から感 謝しなくてはならない。
 私は満たされた気持ちで家路についた。
 

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93.サイト開設10周年を迎えて(平成22年7月)

 この7月1日でサイト開設10周年を迎えた。
 そこで区切りの意味で、この10年を総括してみたい。

 そもそもサイト開設の動機と目的は、愛車ジープ53の魅力を広く世間に知らしめ、その魅力の虜が症状であるところの、「ジープ病」を蔓延させることにあった。

 その結果として具体的には書かないが、一定の成果は上がったと思う。
 明らかに、当サイトから感染したと思われる患者を、少なくとも数名は知っている。

 そういう私自身が53を中古で購入したのは、サイト開設をさかのぼること5年前の平成7年4月である。
 以来私は、平成4年製の53に15年乗り続けていることになる。

 これは、昭和45年に免許を取って以来、乗り続けてきた40年にわたる私の車人生の、約4割に当たる。
 私が車一台を乗り続けた記録としは、当然最長のものである。

 ここで昔話で恐縮だが、当時の車の買い替え動機は、新型車の飛躍的性能アップにあった。
 当時、車の部品に対して次から次へと新しい技術が導入された。
 車の発展途上期といえるかもしれない。

 バイアスタイヤからラジアルタイヤへ。
 ドラムブレーキからディスクブレーキへ。
 シングルキャブからツインキャブへ。
 OHCエンジンからDOHCエンジンへ。
 ノンターボエンジンからターボエンジンへ。
 マニュアルミッションからオートマチックミッションへ。
 マニュアルエアコンからオートエアコンへ。

 その他、FF、4輪独立懸架、パワーウインドウ、パワーステアリング、アンチロックブレーキシステム、4輪駆動、センターデフ装置、トランジスタ点火装置、EGIと、数え上げればきりがない。

 しかし平成22年現在では、それらはほとんど標準装備となり、目新しい技術はもっぱらエコ対策に向けられている。
 ワクワクするような期待で、車を買い替えることが年々少なくなってきているような気がする。
 また、国産車の質も高レベルになり、贅沢さえ言わなければ、どれを選んでも極端な不都合を感じることはなさそうだ。

 そうした中で、私はいまだに53に乗っている。
 今や年金生活者の私は、高額耐久消費財に支出しづらいという経済的な事情もある。
 しかしその前に、53を降りてまで乗りたい車が相変わらず存在しないのだ。

 ここで告白しなければならないことがある。
 53は確かに私のファーストカーであるが、私の場合53だけでは生活が成り立たない。

 免許のない両親と同居していたこともある。
 父の死後、残された老母はパーキンソン病で歩行が困難である。
 月に一度、隣市への通院は欠かせない。

 母は残念ながら、踏み台を使っても53には乗れない。
 53一台ではすまない物理的な問題がそれである。

 そのこともあって、長女が18歳になった時、トヨタ・ビッツを買い与えた。
 それまではレガシー4WDセダンがファーストカーだったので、結局53だけで生活した期間は皆無である。
 53がファーストカーであると書いてきたので、読者の皆さんには、53一台ですませていると誤解を与えてしまったかもしれない。

 娘は次々と結婚して我が家を出たが、ビッツは家に残り、未婚の三女のものになった。
 もし、そう遠くない将来に、三女も家を出て53一台になった時どうなるのか、頭の痛い問題である。

 その日のために、53がまだ走れるうちに下に出して、ごく普通の車に乗り換えようかと考えることもたまにある。
 しかし、絶対に後悔することは目に見えている。

 絶対は言いすぎだが、たぶんきっと後悔するだろう。
 かつて、オートマのレガシー4WDセダンに乗っていた頃の、片道230kmの新潟までの徹夜釣行(闘病記第7話・.長距離ランナーをご参照ください)のことを思い出す。

 往復560km。
 真夏の過酷な徹夜釣行で、オートマのレガシー4WDセダンより53の方が疲れなかった。

 一度だけの経験ではない。
 度重なる検証の結果である。
 これは今もって53の金字塔である。

 その他、製造後18年が経過し、いつまで乗れるのか見当もつかないほど快調な車はざらにない。
 私が渓流釣りをやめないかぎり、険悪な山道や、ゴロタ石のころがる川原に躊躇なく進入できる車は必要だ。

 テント代わりに、53以上に快適に野営できる乗用車は想像できない。
 53の堅牢でシンプルなメカニズムと、フルオープンの魅力に勝るSUVを私は知らない。
 その他、数え上げればきりもない魅力が53にはある。

 53を購入してから15年、サイト開設から10年経った今あらためて思うことは、ジープの魅力の再確認と、その虜にされた人達との友好の輪のありがたさである。

 すでに冠キャンプが3回開催され、まだまだ続きそうである。
 普通の車に乗っていたのでは、それらの数々のドラマは生まれなかっただろう。

 もちろんその中には楽しいことばかりでなく、苦い思い出も少々ある。
 しかしそれは、人間社会ならどこにでもあるやむをえない現象だ。

 この10年もしくは15年間を振り返り、私は改めて「ジープ53よありがとう!」と言いたい。
 また、ここに集う同病者の皆さんにも、心より感謝の気持ちを表したい。

 そして、ここまで書いて来て、私の心の中にポツンと浮かんでくるその言葉は、Jeep Forever…。
 

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94.超実用ナイフ入手(平成22年9月)

 「記念にさし上げますよ」
 私は酔った勢いで、20年以上愛用してきたG.サカイのトラウト&バードを、皮ケースごとHさんに差し出した。
 先日の銀山平釣行時の、野営宴席での出来事である。

放送画面よりHさんはこのあたりの漁業監視員で、平成20年9月に私が59.0cmのイワナを釣ったときに、地元テレビ局の取材で居合わせた方である。

 普段密漁者を取り締まり、魚族の保護に力を入れているHさんは、禁漁2日前に永年禁漁区50m下流で私に釣られた、産卵のために遡上したこのメスの大イワナ事件に、相当のショックを受けたと言う。
 以来彼は、「解禁期内に解禁場所で釣られた魚は、例え産卵前であってもあくまで合法的だ」と自分に言い聞かせて来たそうだ。

 私はそうしたHさんの心情を思うと、何か代償行為をしなくてはと常々思っていた。
 それが冒頭の言葉となって、私の口から出たのである。

 20年以上使用しているとはいえ、年間の出番は少ないので、G.サカイのトラウト&バードは特に傷みもない。
 それに、このサイズのナイフが一番実用的である。G.サカイ トラウト&バード(廃版)
 私は過去にもいろいろなナイフを手にしてきた。
 フォールディングナイフ(折りたたみ式)は携帯に便利だが、刃とケースの間に切った物のカスがはさまるのが欠点である。

 また、ロック機構のないものは、うっかり突き刺すような使い方をすると、刃が手前に折れてくるので大変危険である。

 格好ばかり良いが、いくら研いでもよく切れないものもある。(私の研ぎ方がへたなのかもしれないが)

 シースナイフ(ケース付)はシンプルで大変丈夫であるが、、魚の内臓を出す作業には刃の厚みがくい込みを悪くする嫌いがある。
 万能的な用途を考えると、刃の厚みはある程度確保しなければならないのだろう。

 和式大型ナイフはよく切れ迫力満点であるが、使用してみると渓流釣りの歩行を阻害し、また実によく錆びる。
 こうして考えてみると、惜しげなく実用に使える手ごろなナイフはなかなか無いものだ。

 とは言え、その中でも一番実用的であったナイフを差し上げてしまったので、さっそく自分が困る事態に陥った。
 来期までに何か探さないといけない。
 私はさっそくネットの旅に出た。

 いまさらながらに、世界のナイフの種類と数には驚くばかりだ。
 あれやこれやと検索する。

 2万円を超えるようなものは、もったいなくて、ウドやフキノトウの根を地中から切り出す用途には使えない。
 皮のシースは雨中の釣りでは気を使う。

 実用的かつ廉価で惜しげもなく使えるものでなくてはならない。
 そんな思いで探していると、よさそうな物が見つかった。

 「ナイフの操作性を極限まで追及し、デザイン性を極限までそぎ落とす。G.サカイ SABIKNIFE 2
 ひたすら使い勝手の領域からナイフを評価する海釣り、川釣りの専門家たちの意見や要望を最大限に取り入れ開発したH1鋼サビナイフシリーズ第二弾。

 現場からのフィードバックデータが満載のSABIKNIFE 2、SABIKNIFE 3は徹底的に使いやすさにこだわったナイフと言っても過言ではありません。
 仕事をするナイフです。」

 以上はG.サカイのキャッチコピーである。
 なるほどなるほど。

 ブレード材はH-1鋼で、錆びにはめっぽう強いそうだ。
 刃の厚みは2mmに押さえ、くい込みを良くしてあるという。
 一方ケースは、軽くて衝撃に強いグラスファイバー強化ナイロン製。


 これなら雨中での使用も問題がない。
 そして気になる価格はネット最安値で4,800円である。

 商品名のSABIKNIFE とは、錆びないナイフという意味らしいが、名前などややダサクてもかまわない。
 来期の解禁まではまだ半年近くもあるが、私は矢も盾もたまらず発注した。

 翌日早くも我が家に届いたG.サカイのSABIKNIFE 2。
 刃が薄く鋭いので、魚をさばくにはうってつけのようだ。

 さっそく例によって広告紙を切ってみると、抵抗もほとんど無くハラリと切れた。

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95.骨折り損 その@(平成23年1月)

 「あっ!」
 私の体は小さな叫び声と共に宙を舞った。

 突然何かにつまづいた私は、必死に体制を取り戻そうとむなしく何歩か足を繰り出すも、つんのめった体はもはや重力のなすがままになった。
 私は右肩先よりもんどりうって、足元の渓流に転がりこんだ。
 忘れもしない2010年9月29日の出来事である。

 禁漁2日前の当日、柳の下の2匹目のドジョウを捕獲すべく、私は53を銀山平に向けて走らせた。
 1匹目のドジョウとは、忘れもしない2008年9月29日に釣り上げた59Cmの大イワナである。
 天候が良すぎるのであまり見込みはなかったが、家にじっとしていられなくなった私は、思わず家を飛び出してしまったのである。

 現地到着13時。
 私は支度ももどかしく川原に立った。

 天候は快晴で、水量もそれほど多くない。
 水は澄み条件は良くないが、もしかしたら産卵のために遡上してきた大イワナに遭遇できるかも知れない。
 しかし、もし大イワナが釣れたら、今回はリリースするつもりでいた。

 いつもの橋から釣り下る。
 丁寧にポイントを探るが、当りもかすりもしない。

 ふと前方を見ると、釣り人の姿がひとつ豆粒のように見えた。
 やはり禁漁間近だから平日でも釣り人が来ているようだ。

 ややあせりを感じた私は、次のポイントへ移動するために歩みを速めた。
 次の瞬間が冒頭の出来事である。

 私は濡れネズミになりながら、ようやく川の中から上体を起こした。左上の流れのあたりに倒れたこんだ まったくドジなことをした。

 尻餅をつくことはたまにはあるが、こんなぶざまな転び方は初めてだ。
 そっとあたりを見回すも、幸い目撃者はいないようだ。

 とそのとき、体をかばって着いた右手の親指に、にぶい痛みがあるのに気がついた。
 ふと目をやると、親指の腹がザックリ割れ鮮血がボタボタとしたたり落ちている。
 鋭い岩で突き刺したらしく、割れ目からは白い脂肪が見えていた。

 しまった! やってしまった!
 今年の釣りはこれでおしまいか!

 私は即座に状況を認識した。
 釣り始めて、わずか30分後の出来事である。

 止血しようにもポケットティッシュが一袋あるだけである。
 バンドエイドも消毒薬もない。

 以前は救急セットを持ち歩いていたが、怪我らしい怪我をしたことがない私は、いつしか装備することをやめていた。
 私は消毒のために傷口より血を吸い出し、止血のために、ティッシュでくるんだ指の上から輪ゴムを巻いた。
 しかしこの時点では、単なる裂傷という認識しかなかった。

 53に戻った私は、後片付けも早々に現地を後にした。
 幸い下駄山タイヤはハンドルが軽いので、いためた右手でも容易に回すことができた。
 また純正ハンドルは大変細いので、親指の傷を圧迫することなく、残りの指でハンドルを握ることができた。

 出血がそれほどでもなかったので、私は現地の病院には行かずに、高速に乗り自宅に飛んで帰った。
 一般道を5時間かけてやって来たが、高速では2時間半ほどで家に着いた。
 しかし、この時ほど53の高速性能が気になったことはない。

 帰宅後受診した外科医は、川で受傷したことをかなり気にしたようだ。
 私は救急薬を一切持っていなかったが、最近の医療の考え方として、殺菌は最小限にするようだ。
 最良の対処は、水道水でよく患部を洗い流すことだそうだ。

 つまり薬品で消毒すると、体の免疫力をも殺してしまい、治りが遅くなるとのこと。
 しかし、川といってもそのまま飲めるような清流であることを告げると、医師はいくらか安心したようである。

 まな板の鯉のごとくベットに横たわった私は、大柄でグラマラスな若い看護師と、簡単な手術のために、鼻歌気分の外科医に全てを任せた。
 3針の縫合手術の後、念のために破傷風の予防接種を受けた私は、やっと自宅に落ち着いた。

 部屋の中に座ると緊張感が取れ、同時に疲れがどっと出た。 やめておけばよかった…、という後悔の念がわいてくる。
 欲をかいた自業自得である。

 しかしこの時はまだ、親指が想像以上に大変なことになるとは、考えもしなかった。


96.骨折り損 そのA(平成23年1月)

 「ひよっとしたら壊死かも知れないと思って…」
 いとこは、電話口で開口一番こう告げた。

 縫合手術から一週間経った抜糸のあと、私は隣町で接骨院を開院しているいとこのところへ通って、リハビリをすることにした。
 傷口はだいぶ良くなったのだが、親指の右側を打撲したらしく、腫れと痛みが残っていたからである。

 いとこよりの電話は、通院3日目の夕方にかかってきた。
 「指の色が紫色でしょう。ちょっと気になったもので。紹介状を書くからT総合病院の整形外科に行ってみてくれませんか」

 壊死とは何らかの理由で、組織の細胞が死んでしまった状態である。
 指が壊死を起こしたら、切り取るより他はないだろう。

 凍傷や糖尿病の合併症でも起こる、大変恐ろしい症状だ。
 私は思わぬ展開に愕然とした。

 T総合病院まで私の家から片道十数キロはある。
 T総合病院は大変評判が高く、近隣町村の患者が多いため、医療機関の紹介状がないと診察してもらえないそうだ。

 特にそこの整形外科は有名とのこと。
 私は暗い気持ちで、いとこの紹介状を持ってT総合病院を訪れた。

 大病院の待合室は悲惨である。
 どこでもそうだが、そこには病人があふれかえっている。
 私はこれほど医学が発達したのに、病人が少しも減らないことを疑問に思う。

 医学の進歩と共に、新発見の病気が次々と現れるのだろうか。
 それとも人間がせっせと自分を病気にしているのだろうか。
 私はどうも後者のような気がする。

 ストレスの多い社会環境もあるが、生き方の誤りが、病人を次々と作り出しているのではないか。
 生活習慣病などその代表例だが、病気一般がいわば自業自得なのではないか。
 病人にははなはだお気の毒な言い方だが。

 9時に受付をすませ待つこと3時間半。
 ようやく私の名前が呼ばれた。

 評判の名医は、生真面目ないかつい印象の方だった。
 脊髄が専門と言うことだが、親指ごときで名医の手を煩わすのは申し訳ない気がした。

 問診の後、レントゲン写真を撮ることになった。
 そのレントゲン写真の様子では、骨に異常は見られないようである。

 これは、最初に行った近所の外科医の診たてと同様である。
 そこで血液検査と尿検査をすることになった。

 血液検査をすると、組織に壊死等があるとある数値が高くなるのですぐわかるそうだ。
 尿検査は恐らく糖尿病に対するものだろう。

 幸か不幸か、検査の結果特に異常は発見されなかった。
 再びレントゲン写真とのにらめっこが始まる。

 「第一関節の隙間が第二関節に比べて少ないようです。ここを骨折したのでしよう」
 レントゲン写真をにらんでいた医師は、おもむろに結論を述べた。

 そうか、そんな骨折もあるのか。
 ひびも裂断もない骨折。
 いわば関節の蝶番が壊れたと言うことか。

 結局しばらく様子を見ることになった。
 医師は痛みがひどいようなら鎮痛剤を出すと言う。

 薬の嫌いな私は体よく辞退した。
 となると、特に治療としてすることもないようだ。

 「もしかすると、治っても親指が曲がらなくなるかもしれません」

 医師は、礼を述べた私が椅子より立ち上がった際に、こともなげにそう言った。


97.骨折り損 そのB(平成23年1月)

 T総合病院にはその後、2週間ごとに2回通院した。
 2回目からは予約となったが、それでも最低1時間は待たされた。

 経過観察ということで、特に治療は行われなかった。
 痛みはほとんど取れたが、指が曲がる気配はなかった。
 曲げようとすると指は頑なに抵抗し、うずいた。

 初診より3回目の11月12日になって結論が出された。
 「今日で通院は結構です。もし使い勝手が悪いようでしたら、手専門の整形外科医がいるS病院を紹介します。まあ、この程度で済んで良かったと思っていただくんですね」
 医師は私にそう告げた。

 手専門の整形外科、私はそこを知っていた。
 平成11年に、忘れもしない尺骨神経麻痺でお世話になった所だ。

 しかし、私はそれ以上のことを質問する気がしなかった。
 ネットで調べたところによると、関節を骨折した場合、指が元通りに曲がるようにするには、指を切開し骨を削るらしい。

 私がもう少し若く現役なら、躊躇なくそうしただろう。
 しかし、曲がりなりにも字もかけるし箸も持てる。
 もうこれ以上痛い思いもしたくないし、不自由な思いもしたくない。

 「曲がらなくなった親指は、大物釣りの勲章だ!」
 私は自分にそう言い聞かせることにした。
 ジープの車体につけられた傷跡が、オフロード走行の勲章であるのと同様に…。

 「この程度で良かったと思ってください」と医師に慰められたが、つい最近、自宅の廊下で滑って仰向けに転倒し、後頭部を6針縫う怪我をした方の話を聞いた。
 少し前には、勤め先の店内で転んで、腕を折った人も知っている。

 たかが転倒でも、場合によってはえらいことになる。
 私も指ではなく頭が石にでも当っていたら、今頃こんなたわ言は書いていられないかもしれない。

 私の釣友で倒木をまたぎ損ねて転倒し、股関節を傷めてあぐらがかけなくなった者がいる。
 そう言う私は3年前の青森釣行で、1mばかりの高さの倒木の橋を渡っていた時、足を滑らせもんどりうって落ちたことがある。
 さいわいロッドも体も無傷だった。

 人生、長い間にいろいろあるものだ。
 くよくよしても仕方がない。

 「大変お世話になりました」
 私は医師に礼を述べると、診察室を後にした。


98.3.11と原発事故(平成23年12月)

 年末になって、やっとこの事件について語る気になった。
 それほどまでに今年は、憂鬱な年であったと言える。

 3.11という固有名詞になった未曾有の事件。
 もちろん、東北地方太平洋沖地震の発生と、それにともなう東日本大震災を指す。
 そしてそれに誘発された、東京電力の福島第一原発放射能漏れ事故。否定されているが、これは核爆発ではなかったか?
 東電はその原因について、地震の津波による被害で電源が喪失し、冷却できなくなった原子炉がメルトダウンを起こし、更には発生した水素で、水素爆発を起こしたためとしている。

 しかし、私の情報収集結果では、地震により原発は、津波の来る前にすでに破壊されていたと結論つけざるを得ない。

 そして、多種類の放射性核種が広範囲にばら撒かれている現状より、その爆発も水素爆発だけではなく、核爆発もあったのではなかったのかという疑問も出されている。
 つまり、水素爆発と共に、核爆発により燃料プールが吹き上げられ、中身の核燃料が環境中にぶちまけられたことを意味する。

 こんな大事故に対する、政府・東電による事故処理のまずさには絶句するばかりだ。
 事故直後や今日に至るまでの情報隠蔽により、被曝しなくてもよい大勢の国民が被曝されられてしまったようだ。

 年間1mmシーベルトと法律で定められていた、これまでの安全基準値が、子供も含めて年間20mmシーペルトに引き上げられるなど、 近代法治国家として信じられないような所業が、日本国政府によってなされている。

 食物の放射性物質の許容含有量が、暫定基準値とは言え500ベクレル/1kgと、25年前のチェブノルイリ原発事故の旧ソ連よりも10倍以上甘い、驚愕すべきものとなっていることは看過できない。
 その結果が、牛肉、牛乳、野菜、米などの、あらゆる種類の放射能汚染食料の流通問題である。

 悪徳業者が、汚染された食料を買い叩き、産地を偽装して転売している話も出ている。
 このことにより日本国民は、知らないうちに内部被曝を加速させられていることになる。

 汚染された土地の問題も深刻である。
 国の調査によると、その範囲は東北・関東は言うに及ばす、多かれ少なかれ全日本に広がっているようだ。
 汚染放射性物質は、ヨウ素、セシウムに限らず、ストロンチュウム、プルトニウムまで検出されており、未知の部分もまだまだあるようだ。

 外国人が信じられないことは、その高度汚染環境に、大勢の国民がいまだに居住させられていることだ。
 除染による復興と称し、避難させるのではなく、汚染地帯に国民をただ縛りつけているようにしているとしか思えない。
 こうした、非常識かつ非人道的な施策が国によって平然と行われていることは、一体どういうことなのだろうか。

 極論ではあるが、こうでもしないと、我が国の国家体制が破産・崩壊してしまうからだろうと思われる。
 多数の国民を犠牲にしても、現国家体制の存続が重要であるということだ。
 国民には知らされていないが、つまりそれ程深刻な事態であるということではないだろうか。

 視点を国民の命の重要性に転ずれば、別の方法があるのではないか。
 政府の非常事態宣言のもと、国と国民が一丸となって一から出直すくらいの覚悟で取り組めば、きっとより良い方向が見出されるのではないか。

 それをしないのは、資本家、政治家、官僚の、怠慢を超えた作為だと思う。
 私の妄想、杞憂であることを切に願う。

 それでは、なぜそれほどの危険をおかしてまで、原発で電気を作らねばならないのか。
 たかが蒸気発電するだけのために、原子力のような危険な技術は使うべきでないのではないか。
 火力や、水力、太陽、地熱、風力、その他安全なエネルギー開発に力をそそぐべきだ。

 実は、原発稼動の陰には、核兵器開発の真の意味が隠されていると言う。
 そう考えると、しゃにむに原発推進を進めてきた、これまでの国の姿勢も理解できる。
 そもそも、原発稼動の結果生み出された放射性廃棄物について、人類はこれを安全に処理する技術をいまだに保有していないという。
 また当面、その技術も開発される見込みはないという。
 そうであるならば、人類は原発から早く手を引くべきではないかと私は思う。
 つまり、核開発から手を引くべきだ。

 人類の目的は、一握りの人間の快楽追求や富の独占ではない。
 人類の目指すべきものは、全人類が飢えることなく、病や貧困にあえぐことのないような、平和で平等な世界の創造のはずである。

 そのためには地球の資源を大切に使い、枯渇させることのないように管理すると共に、環境破壊にも十分留意しなければならない。
 地球との共生・共存である。

 理想主義者と言われればそれまでだが、人類とは本来そういう存在であるはずではないか。
 人類はそうした世界を実現できる十分なる能力と技術を持ちながら、そうした世界がいまだに出現しないということは、もしかしたら、そうさせない邪悪な力が働いているのではないか。

 それは一体何なのだろうか?
 ますます悪化する世界情勢を目の当たりにすると、そういう妄想がふつふつと湧いてくる今日この頃である。


99.年末に跳ねられる(平成23年12月)

 小走りに横断歩道を渡っていた私の目には、点滅を始めた歩行者用信号の青ランプしか映っていなかったようだ。
 次の瞬間、ふと視線を転じた左前方から、黒い物体が急速にせまって来るのに初めて気がついた。

 左手を伸ばして防御し、体を半身にかわしたとたん、ドカンという衝撃音と共に私の体は跳ねとばされた。
 「馬鹿な!?」
 その瞬間に私の脳裏にひらめいた言葉である。

 私の身の上に、こんな事態が起きるはずはないという、現実を受け入れられない感情である。
 ドサリと横倒しに落下した私は、左手をつき上半身を支えて、かろうじて頭部への打撃を防いだ。

 12月2日金曜日、午後5時少し前。
 薄暮の交差点での出来事である。

 買い物帰りの私は、左手にパソコンバッグ、右手に閉じた傘を持っていた。
 前方の交差点は、青信号になって少し時間が経過したので、急がないと歩行者信号が点滅になると思われた。

 走ったことがとっさに止まれず、結果的に危険を回避できないことになったが、夕暮れだった為に、左折してきた軽乗用車に直前まで気づかなかったことも事実である。

 加害者が110番通報し、しばらくして到着した警察官により、形どおりの事故調査が行われた。
 加害者は全面的に非を認め、平身低頭であった。

 加害者は、仕事について考え事をしていたため、横断歩道上の私に全く気づかなかったと言う。
 つまり私は、ノーブレーキの車に跳ねられたことになる。

 これに対して私の被害は、左ひじと左ひざの、血がにじむ程度の擦過傷と、少々の打撲ですんだ。
 パソコンバッグは、A4サイズのパソコンが入るバッグで、保護のために内部にパッドが入っている。

 それが腕の下に入りクッションとなったようだ。
 バッグの側面には、アスファルト路面で擦れた傷跡が多数残されていたが、マウンテン・パーカーのひじの部分は傷跡が皆無であることが、それを物語っていた。

 加害者はしきりと医者に行くことを勧めた。
 しかし医者嫌いの私は、少々傷が痛む程度で、それ以外の異常を感じなかったので、その勧めを体よく断った。

 少し大げさにすれば、全身のCTスキャンや脳波測定の権利は私にあるかも知れないが、それは時間の浪費と、保険費用の無駄な出費に思えた。

 警察官の事故調査が終了した後、私は「もし万一、後遺症が出たらそのときはお願いします」と加害者に言って、その場を後にした。
 不思議と私の心には、加害者に対する怒りの気持はなかった。

 翌日、謝罪のために、加害者が手土産を持って自宅まで見舞いに来た。
 その時も私の気持は変わらなかった。

 「跳ねていただいてありがとう」と礼を言うほど、私はお人よしではない。
 しかし、目の前で謝罪を繰り返す加害者に対して、不思議と怒りの気持は起きなかった。
 加害者には、「この程度ですんだので、私は天に感謝しています。今後、お互いに気をつけましょう」と申し上げ、帰っていただいた。

 私にはむしろ、この事件の意味を探ることに興味があった。
 実は一月ほど前、53を運転していて、19Kmオーバーのスピード違反でネズミ捕りにかかってしまった。
 言い訳になるが、40Kmという道路標識が、間違って取り付けられたのではないかと錯覚するような、郊外の幅の広い直線道路であった。

 不満の気持があった私は、不遜にも、罰金は正確だった53の速度計の校正料だなどとうそぶいた。
 私は60Kmちょうどで走っていたのだ。

 この二件は、もしかしたら何か関連があるのかも知れない。
 今回の事故についてだけ言えば、単純に不幸中の幸いだったという解釈もできる。
 打ち所が悪ければ、結構なケガをしていたかもしれない。

 また、立場を変えて、私が53で人を跳ねた場合はどうだろうか。
 ジープのあの頑丈な鉄製バンパーと、絶壁ラジエターグリルが、かなりの速度で人に当たったらとしたら…。
 少なくとも、被害者の足は骨折を免れないのではないか。

 総合的に考えると、この一連の事件は、そうした車を運転する私への、交通事故に対する警告かも知れない。
 ジープ購入当初より16年が経過し、加齢により体力も気力も衰えているであろう昨今、不幸な交通事故被害者を出さないための、いや、交通事故加害者とならないための、自分への警告ではないか。

 横断歩道は決して安全地帯ではない。
 止まる意志のない車は、そのまま凶器と化す。
 身をもって交通事故の怖さを経験したということだ。

 そして同時に、この程度の怪我で済んだことについて、私は何者かに守られているような気がして、少々うれしくなったことも白状しておこう。
 事故に遭ってうれしくなるのも変であるが。


100.万能車・ジープ!(平成24年10月)

 生涯の楽しみであった釣りと山菜採りをやめて、早くも2シーズンが経過した。
 やめた原因は、群馬県内の渓流魚や山菜から、原発事故によって放出された放射性セシウムが相当量検出されるようになったからである。

 私は手慰みのためには魚を釣らない。
 釣った魚の命は、ありがたく感謝しながらいただき、わが命とする。

 全ての食物に対する私の姿勢である。
 従って、渓流魚や山菜が食べられなくなった今、それらを採取する意欲はまったく失われてしまった。

 ついでといっては変だが、スナップ写真も撮る意欲がなくなった。
 撮影意欲の減退は、原発事故その後の国の処理をつぶさに見ていると、国民が真の幸せからほど遠い存在に置かれていると実感したからである。

 国民が幸せでないのに、幸せで楽しい写真など撮れるはずがない。
 筆は折るというが、釣竿やカメラは何と言うのだろう。

 あまり大きな声では言えないが、私は釣竿やカメラの代わりに、今やサーベイメータ(放射線測定器)を手にして走り回っている。
 群馬県の放射能汚染状態のマップ作りと、閲覧者にとって危険箇所回避のための動画作りである。

 どこがどのように汚染されているのか。
 どんな地形の場所に放射性物質が溜まりやすいのか。

 あまり大きな声では言えないとは、放射能告発者が次第に危険な思想の持ち主、厄介者のような扱いを受け始めているからである。
 福島県では特にそうらしい。

 非国民と言われるらしい。
 国はあの原発事故は無かったことにしたいらしい。

 であるからして、私は最後となるこの文章もこっそりと発表する。
 写真も付けないし、測定マップのURLも表示しない。
 興味のある方は、ウェッブサイトなりユーチューブを検索していただきたい。

 誰でも嫌なことは早く忘れたい。
 しかし、これから何十年も続く危険な放射能問題から、国民は目を背けることはできない。
 やはりしっかりと向き合い、最後まであきらめてはいけない。

 さて、測定の場でもジープが大活躍している。
 私の測定の基本は、県内共通のアスファルト路面であ。
 当然草地より線量は低いが、県内全域の目安になる。

 アスファルト路面の測定は、路肩にジープを止めて運転席幌ドア越しに行う。
 測定間隔は1Km、高さは地上1メートルが基本である。

 私が測定するのはセシウムのガンマ線なので、幌のドアは測定値に支障がほとんど出ないはずだ。
 ガンマ線は鉄板も貫通するが、分厚い普通自動車の鉄板ドア越しでは、やはり多少の減衰はあるだろう。
 この点ジープは実に具合が良い。

 第二段階として、最近は草地も積極的に測定している。
 草地は当然のことながら、相当高い場所もある。

 特に高いところ(ホットスポット)の探査には、スマホ用ホルダーで線量計をフロントグラスそばに固定し、走行しながら数値の変化を監視している。

 高いところは距離に関係なく測定する。
 草地の測定はその都度ジープから降りて行うが、回数が多いので実に良い運動となる。

 その結果、草地とアスファルトの放射線量の比率は約0〜2倍と、草地の方が相当高いことがわかった。
 しかし、この比率は一定ではない。

 低線量地では逆転もあるし、高いところではコンスタントに2倍程度となる。
 そして場所によっては放射性物質が集中し、何気ない所にとんでもないホットスポットも出現している。

 セシウム134の物理的半減期が2年、セシウム137が30年と言われ、年々少しずつ減少していくわけだが、それにしても何十年単位の話である。
 そして、一度その場所を測定すれば良いというものではない。

 変化するので、定期的に根気よく測定を継続していかなければならないだろう。
 ホットスポットも条件が変われば、今までと異なった場所に出現する。

 測定では細い山道や不整地に入ることも多いが、こちらはジープにとってお手のものである。
 まったく心配なしにどこへでも入っていける。

 ただしこんな便利なジープであるが、重大な欠点がひとつある。
 それはジープの密閉性だ。

 隙間だらけなので、放射性物質がどこからでも入ってくる。
 高線量地帯での行動にはまったく向いていない。

 搭乗員の被爆が心配だ。
 したがって高線量地帯での行動時間は、なるべく短時間にしている。

 爆発事故より1年半が経過した放射性物質の状態は、地表の様々な物体に固着・吸着したものと、風で舞うような状態のものがある。
 あるいは、藍藻(らんそう)類にカリウムの代替物として取り込まれ濃縮されたものもある。

 粘土などに吸着したものは、大雨による出水などで山から流れ出すまで、8割程度がその場に留まっているそうだ。
 一方落ち葉に付着したり藍藻類に濃縮されたものは、乾燥すると風によって容易に舞い上がる。

 これを呼吸で吸い込むと、知らずのうちに内部被曝してしまう。
 特に藍藻類に濃縮されると恐ろしいほどの数値となる。

 ネットで「放射能 黒い物質」で検索するとその実態がよくわかる。
 路傍の何気ない黒いコケ状・岩ノリ状のものであるが、そこからはものすごい放射線が出ている。

 それが人口過密の都市部のいたるところにあるようだ。
 小さい子供への影響を考えると、居ても立ってもいられない心境である。

 思えばジープに乗り出して17年。
 私にとって楽しい趣味のための道具ジープが、今や何と因果な場面で活躍していることか!
 私にとってジープの究極の使い道が、これであったのかも知れない。(闘病記・完)

 (追記)…令和元年10月
 私もジープJ53も晩年を迎えたましたので、100話で行った放射線測定の結果を、サイトのトップページにリンクし公開することにしました。
 群馬県の放射線測定は、私とジープJ53が行った共同作業として最大のものですので。


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